第六夜 八咫
神凪からの手紙がもたらした衝撃は、まだ部屋の空気に澱のように沈んでいる。『血の朝日』の事実を知り、当事者たちの手紙を受け、ただ戸惑うばかりで言葉を発せずにいた。
その沈黙を破ったのは、当の本人である浜田だった。彼はゆっくりと立ち上がると、悪戯っぽく口の端を吊り上げた。
「ちょっと夜も更けてしまったが、あと少し付き合ってくれるか?」
その声色は普段の飄々としたものに戻っていたが、瞳の奥には真剣な光が宿っている。
「どうしたんじゃ、急に」
詩織が訝しげに問いかけると、浜田は肩をすくめた。
「俺の過去を話しちまった手前、ただの与太話で終わらせるのも寝覚めが悪い。だから、俺の力の、ほんの一端を見せておこうかと思ってさ」
力の一端。その言葉に、一同の視線が浜田に集まる。彼は応接セットから離れ、執務机のさらに奥、何もないはずの壁面へと向かった。壁に埋め込まれた小さなパネルに顔を近づけると、微かな機械音と共に赤い光が彼の網膜をスキャンする。
認証が完了したのだろう、重厚なロックが外れる音――ガチャリ、という無骨な響きの後、壁の一部が静かに内側へとスライドしていく。開かれた扉の向こうは薄暗く、無数のLEDが明滅する光と、何枚ものモニターが放つ青白い光だけが、暗闇から漏れ出ていた。
「こっちだ」
浜田に促され、一同は恐る恐るその隠された空間へと足を踏み入れる。一歩中に入った瞬間、誰もが息を呑んだ。
うぃぃぃん、と空気を震わせるような重低音が鼓膜を揺らす。それは無数のサーバーに搭載された冷却ファンが発する轟音だった。そして、肌を刺すような冷気。まるで巨大な冷蔵庫の中にでもいるかのような極寒の空気が、部屋全体を満たしていた。ガラス張りのラックに整然と収められたサーバー群が、青や緑の光を点滅させながらどこまでも続いているように見える。
「さて、まずは自己紹介からだな」
部屋の中央、幾枚もの大型モニターが壁を埋め尽くすコンソールの前に立ち、浜田は誇らしげに言った。
「Yggdrasil Architecture Tactical Assistant(イグドラシル・アーキテクチャ・タクティカル・アシスタント)。通称、八咫くんだ」
その言葉に応じるように、コンソールの上部に設置されたスピーカーから、合成音声とは思えないほど自然で、どこか軽妙な男性の声が響いた。
『初めまして、皆さん。僕がYATAです』
「な、なんですかその、イグドラアークなんとかって……?」
あまりの光景に呆然としていた茉奈が、かろうじて声を絞り出す。
『茉奈さん、イグドラシル・アーキテクチャ・タクティカル・アシスタントです。マスターに作られて、悪い事のアシスタントをしています』
「YATA、人聞きが悪いぞ」
浜田が呆れたように言うと、YATAは悪びれない様子で続けた。
『失礼しました。訂正します。マスターの理想を実現するため、あらゆる非合法活動を含む戦術的支援を担当しています』
「余計に悪くなってる。……ようは、俺の手が回らないところを助けてくれるように自作したローカルLLM。つまり、スーパー賢いローカルAIってとこかな。」
『マスター、褒めすぎです。照れます』
「そんなに褒めてない」
浜田とAIの漫才のようなやり取りに、仲間たちはただ唖然とするばかりだ。この規格外の男は、これほどの設備と、人間としか思えないAIまで自作してしまったというのか。
「で、浜田。この八咫とやらを、わしらに見せてどうするつもりじゃ?」
ようやく我に返った詩織が、核心を突く。浜田はコンソール前の椅子に深く腰かけると、ニヤリと笑って、とんでもないことを宣言した。
「今から帝国軍にハッキングする」
「「「「「はっ!?」」」」」
一同の驚愕の声が、サーバーの轟音にかき消されずに響き渡った。
「ハッキングって……!そんな簡単に言いますけど、相手は帝国軍ですよ!?」
尊が信じられないといった表情で叫ぶ。国家、それも大陸を支配する巨大軍事組織のネットワークに侵入するなど、狂気の沙汰としか思えない。
「まぁ、そうだな」
浜田は動じることなく、こともなげに頷くと、目の前に並んだ四枚のモニターに視線を走らせ、キーボードとマウスの位置を確かめる。その横顔は、先ほどまでの飄々とした雰囲気とはまるで別人のように、冷徹なプロフェッショナルのそれに変わっていた。
「YATA、準備はいいか?」
『いつでも。帝国軍ネットワークの表層パケットは常に監視しています』
「手際がいい。YATA、昔俺が置いてきた置き土産……バックドアはまだ生きてるか?」
『検索……対象コードネーム『古巣』、残存率32%。うち、現在休眠状態かつ追跡リスクの低いセキュアなエントリーポイントを三つ確認。安全に侵入可能です』
「了解。じゃあ、楽に侵入できそうだ。昔の俺と再会する時間だな」
浜田の指が、嵐のようにキーボードの上を舞い始めた。モニターには意味不明な文字列が滝のように流れ、複雑なネットワーク図が次々と表示されては消えていく。
「YATA、ダミーサーバー経由でデコイを撒いておけ。派手に頼む」
『了解です、マスター。ダミーパケット散布開始。追跡者が増えても安心の、倍マシサービスです♪』
「上出来だ。多層プロキシチェーンを作成後、バックドア『古巣』のポイントCに接続」
『プロキシチェーン構築。接続シーケンス、開始します』
浜田がかつて帝国に所属していた頃に仕込んだというバックドアから、彼らは帝国軍の神経網へと静かに、しかし確実に侵入していく。その間、浜田の口からは矢継ぎ早に指示が飛ぶ。
「YATA、プロトコル解析開始。侵入ポイントのポートスキャン」 『完了。ファイアウォールバイパス、接続します。』 「暗号化トンネル確立。追跡回避モードON」 『ログ消去を同時実行。ゼロデイ攻撃コード、投下準備』
YATAとの完璧な連携。それはまるで、二つの脳が一つの身体を動かしているかのような、人知を超えた光景だった。詩織たちは、その圧倒的な光景をただ息を詰めて見守ることしかできない。
『侵入成功。メインフレームへのアクセス権を掌握。……マスター、侵入を検知されました。敵性AIによる追跡プログラムが起動。逆探知まで、推定1分40秒』
YATAの冷静な声が、部屋の緊張感を一気に引き上げる。
「YATA、カウントダウンよろしく。アクセス時間残り0.5秒でネットワーク強制切断を実行しろ」
『Acknowledged.』
浜田の目的は、逆探知されるまでのごくわずかな時間で、目的のデータベースを丸ごとコピーすること。暗号化は解かずに、巨大なデータの塊をそのまま奪い去り、後からこの要塞でゆっくりと解析する算段だ。
『残り、90秒』
「YATA、見つけたぞ!おそらくこれだ!」
モニターの一つに、目標データベースのテーブル構造が表示される。浜田の指が目にも留まらぬ速さで動き、ダウンロードコマンドを叩き込む。
『ダウンロード開始。ファイルサイズ、128ペタバイト。転送完了まで、推定75秒』
その時だった。
『警告。外部からの異常トラフィックを検知。敵の防衛システムがこちらの帯域を絞り始めました。逆探知リスク増大。残りアクセス時間が15秒短縮されます』
「チッ、仕事が早いな、あっちも。YATA、ログと足跡の完全消去、今から始めろ。ついでに奴らのネットワークマップもいくつか改竄して、重要そうなデータをダミーとすり替えておけ。手土産だ」
『マスター、悪趣味です。ですが嫌いじゃありません。実行します』
軽口を叩きながらも、YATAの処理能力に一切の揺らぎはない。だが、状況は刻一刻と悪化していく。
『残り、30秒。ダウンロード進捗、85%』 『敵性AI、こちらのデコイを突破。追跡精度が上昇。残り、20秒』 『ダウンロード進捗、95%』
じりじりと、しかし確実に迫るタイムリミット。誰もが固唾を飲んで、モニターに表示された白いバーを見つめる。
『残り、10秒』 『96%』 『残り、5秒』 『98%』 『4』 『99%』 『3』 『ダウンロード、完了』 『2』 『ログ、及び全ての侵入痕跡、消去完了』 『1』 『ネットワーク、強制切断』
最後のカウントが終わると同時に、ネットワーク図を映していたモニターの画面が消え代わりに『no signal』とだけ表示されている。部屋を支配していたのは、サーバーの轟音と、荒い呼吸を繰り返す仲間たちの息遣いだけだった。
長い、長い沈黙の後。椅子の上で大きく伸びをした浜田が、くるりと振り返って言った。
「な、簡単だったろ?」
そのあまりにも軽い口調に、仲間たちは言葉を失う。
「なんというか……」 茉奈が呆然と呟く。
「八咫がすごすぎるというか……」 詩織が感嘆の声を漏らす。
「浜田さん……途中から完全に遊んでましたよね?」 尊が指摘した通り、終盤の浜田はまるで高難易度のゲームをクリアするかのように、その状況を楽しんでいるようにすら見えた。
浜田は悪びれもせずに笑うと、ふと思い出したように言った。
「そういえば、尊たち。前に日本独立党のこと、ネットで調べただろ?」
「え? は、はい。それが何か……って、何で知ってるんですか!?」
茉奈が驚きの声を上げる。自分たちの行動が、なぜ浜田に筒抜けになっているのか。浜田は愉快そうにYATAがいる方向を親指で示した。
「YATAから報告が上がってきたんだよ。お前らが俺たちの組織に興味を持ってくれた、ってな」
スピーカーから、再びYATAの声が響く。
『ちなみに、ネットの海に日本独立党に関する情報がほとんど見当たらないのは、僕の仕事の成果の一つです。不都合な真実は、存在しないのと同じです』
その言葉は、仲間たちの背筋を凍らせるには十分すぎた。自分たちが普段何気なく使っているインターネットが、この男とAIによって完全に監視され、コントロールされている。
浜田誉という男の持つ力の異質さ、そしてその底知れなさを、一同は改めて思い知らされた。それは、暴力や権力とは全く違う、情報という名の、現代の神にも等しい力。そしてその力は今、帝国という巨大な敵に、明確な牙を剥いたのだった。
次回は 2026年01月15日 19時 更新予定です




