表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒髪巫女と銀髪少年の深淵  作者: 烏刻
第二章 回帰
35/46

第一夜 古簡

 葵が部屋を辞してから、どれほどの時間が経っただろうか。


 秒針の音すら聞こえない静寂の中、尊たちは身じろぎもせず、ただ指導者の背中を見つめていた。


 浜田誉。

 日本独立党を率いる、絶対的な指導者。常に冷静沈着で、どんな窮地に陥っても揺るぎない精神力で道を切り拓いてきた男。その背中は、尊たちにとって、揺るぎない道標そのものだった。


 だが、今、目の前にあるのは、見たことのないほど弱々しく、頼りない背中だった。


 窓の外に広がる、宝石を散りばめたような夜景を映すガラスに、彼の姿がぼんやりと浮かんでいる。その手には、一枚の古びた手紙が、皺が寄るほど強く握りしめられていた。


(いったい、何が書かれているんだ……?)


 尊は息を殺し、思考を巡らせる。

 あの黒髪の男から託された、ただ一枚の手紙。それが、この鉄の男をここまで動揺させている。


 隣に立つ茉奈は、不安げに唇を噛みしめていた。彼女の共感能力が、浜田の心の奥底から溢れ出す、底知れないほどの衝撃と苦悩を敏感に感じ取っているのかもしれない。その白い顔は、まるで自分のことのように痛みを訴えている。


 一歩下がったところにいる煉は、腕を組み、鋭い視線で浜田の背中を射抜いていた。彼の表情は冷静に見えたが、その指先が微かに苛立ちを刻んでいるのを、尊は見逃さなかった。状況を把握できないことへの焦りが、彼の中で渦巻いているのだろう。


 重い、重い沈黙。


 それは、まるで深海の水圧のように、部屋にいる者たちの心臓を締め付ける。浜田が口にした「始まりの話」という言葉が、彼らの頭上で不気味に反響していた。


 その息の詰まるような均衡を破ったのは、唐突に響いたノックの音だった。


 ドン、ドン。


 急なノックの音に、尊たちの肩がびくりと震える。


 返事を待つつもりもない意志をつたえるような形式だけのノックの直後、扉が勢いよく開かれた。


「どうした浜田! 何があったんじゃ!?」


 長い黒髪を乱し、血相を変えて詩織が飛び込んできた。巫女装束を簡略化したような独特の衣服を身に纏い、その大きな瞳には焦りと心配の色が浮かんでいる。


 彼女の後ろから、葵がそっと姿を現し、無言で尊たちの傍らに戻ってきた。その表情もまた、硬い。


 詩織の切羽詰まった声は、静まり返った執務室に鋭く響き渡った。しかし、その声が向けられたはずの浜田は、ぴくりとも動かない。依然として窓の外に視線を固定したまま、まるで詩織の存在に気づいていないかのようだ。


「浜田!……浜田!!」


 詩織は数歩、彼に歩み寄る。だが、浜田からの反応はない。その横顔に浮かぶのは、虚ろな色だけ。普段の彼からは想像もつかない、魂が抜け落ちたかのような姿だった。


 詩織は彼のただならぬ様子を即座に察した。彼女の眉がぐっと吊り上がり、次の瞬間、その口から放たれたのは、場にそぐわないほど乱暴な言葉だった。


「おい、おっさん!!何柄にもなくしみったれてんだ!」


 その一言に、尊たちは思わず息を呑んだ。この組織の頂点に立つ男を「おっさん」呼ばわりするなど、常識では考えられない。だが、その言葉には不思議な響きがあった。叱咤するような、それでいて、心の底から心配しているような、複雑な優しさが込められていた。


 その言葉は、ついに分厚い氷を砕いた。


「……っ」


 浜田の肩が、かすかに揺れる。


 ゆっくりと、本当にゆっくりと、彼は振り返った。その顔には、深い疲労と、まだ拭いきれない衝撃の残滓が刻まれている。だが、その瞳には、かろうじて理性の光が戻っていた。


 彼は、詩織を見て、力なく口の端を上げた。


「……おじさんはまだしも、おっさんはちょっとな…」


 弱々しいが、それは確かにいつもの彼らしい軽口だった。その一言で、張り詰めていた部屋の空気が、ほんのわずかに和らぐ。尊は、知らず知らずのうちに止めていた息を、そっと吐き出した。


「まったく、心配させおって……」


 詩織は悪態をつきながらも、その声色には安堵が滲んでいた。


 浜田は一度目を伏せ、それから尊たち四人と詩織の顔を順に見渡した。


「詩織、急に呼び出して済まない。そして、みんな、心配をかけてすまなかった」


 深く、静かな声での謝罪。それは、彼らの知る指導者の声だった。


「どうしたんじゃ、おぬしがらしくもなく調子を崩して。葵が鬼のような形相で呼びに来るから、てっきり敵襲でもあったのかと思うたわ」


 詩織が腕を組み、問いかける。その真っ直ぐな視線は、浜田に説明を促していた。


 浜田は再び、手の中の手紙に視線を落とした。そして、静かに口を開く。


「尊たち四人が、例の黒髪の男と接触した」


「なんじゃと!?」


 詩織の驚愕の声が響く。彼女の瞳が見開かれ、その視線が尊たちに向けられた。「いつじゃ!? 怪我は?無事なのか、おぬしら!」


「ついさっきだよ」浜田が彼女の言葉を引き取った。「そのまま直接ここに来てくれたんだ。……そして、この手紙を託されてな」


 そう言って、浜田は静かに手紙を掲げてみせた。今の時代にそぐわない蛇腹に折られた和紙。存在自体が異質だが、それだけでなく、まるで呪物のように禍々しい気配を放っているように見えた。


「そいつが……その手紙が、おぬしの調子を狂わせた原因か……?」


 詩織の声が、わずかに震える。彼女もまた、その手紙から放たれる尋常ならざる気配を感じ取っているのだろう。


 浜田は、詩織の問いに、重々しく頷いた。


 部屋に、再び緊張が走る。全員の視線が、浜田の口元に集中した。


 彼は、まるで世界で最も重い真実を告げるかのように、ゆっくりと、しかしはっきりと告げた。


「あぁ、死人から手紙が来たんだよ」


 その言葉が持つ意味を、すぐには誰も理解できなかった。


 死人から、手紙が?


 比喩か? それとも、何かの暗号か? 尊たちの頭に、疑問符が浮かぶ。


 詩織だけが、ハッと息を呑み、何かを悟ったかのように目を見開いた。


 浜田は、一同の混乱を見透かしたように、言葉を続けた。その声は、もはや震えてはいなかった。覚悟を決めた者の、静かで、硬質な響きを持っていた。


「正確に言うと、死んだとされていた人、というべきなのか」


 彼はそう言って、手紙をテーブルの上に置いた。そして、そこに記された差出人の名前を、一語一語、噛みしめるように告げる。


「差出人は ―― 神凪皓一朗(かんなぎこういちろう)


次回は xx月xx日(月) 19時 更新予定です

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ