第八夜 懐扉
時が、死んだ。
執務室の空気は音という概念を失い、ただただ重く、冷たい沈黙だけが満ちている。
「はっ……はぁっ……!」
その死んだような静寂の中で、唯一の生命活動を感じさせるのは、椅子に深く沈み込んだ浜田誉の、荒く不規則な呼吸音だけだった。
血の気を失い、蒼白になった顔。大きく見開かれたまま焦点の合わない瞳は、この部屋のどこでもない、遠い過去の地獄を映し出している。小刻みに震える指先は、強く握りしめられたこめかみに食い込むかのようだ。
――炎。爆音。絶叫。そして、決して届くことのなかった声。
フラッシュバックの残滓が、嵐のように脳髄を掻き乱していく。忘れたことなどなかった。ただ、心の奥底にある鉛の扉の向こうに、厳重に封じ込めていただけだ。その扉が今、十年以上の時を経て、錆びついた蝶番の悲鳴もあげずに、いとも容易くこじ開けられてしまった。
目の前には、藤堂尊、斎賀茉奈、伊集院煉、そして立花葵の四人が、石像のように立ち尽くしている。彼らの顔には、困惑と、畏怖と、そして指導者が見せたことのない崩壊に対する、純粋な心配の色が浮かんでいた。
いつも冷静で、どんな時も的確な指示を出し、時には食えない笑顔で若者たちをからかいさえする、絶対的な指導者・浜田誉。その男が今、まるで迷子のように、己の世界の中で溺れている。
彼らの視線が痛い。だが、今の浜田には、彼らに取り繕うだけの余裕は欠片もなかった。
カラン、と無機質な音を立てて床に転がったペーパーナイフ。そして、その傍らに力なく横たわる、一枚の蛇腹折りの和紙。
『神凪皓一朗』
その署名が、まるで呪いのように浜田の思考を縛り付けていた。
死んだはずの男。
あの地獄の業火の中で、己の理想と共に死んだはずの、師であり、友であり、そして……。
不意に、尊が意を決したように一歩、前に踏み出した。その手が、床に落ちた和紙へと伸ばされる。
「……待て」
声を出したつもりだった。だが、喉から漏れたのは、空気のかすれるような音だけだった。それでも、その音は確かに尊の動きを止めた。
浜田は、ぜいぜいと喘鳴を繰り返す肺に無理やり酸素を送り込み、震える足でゆっくりと立ち上がろうとした。だが、体は鉛のように重く、言うことを聞かない。彼は椅子にもたれたまま、震える腕を必死に伸ばした。
「……それは、俺が……」
尊は黙って後ずさり、浜田が自ら手を伸ばすのを見守った。
やっとの思いで拾い上げた和紙。ざらりとした和紙の感触が、引き金になった。その瞬間、浜田の脳裏に焼き付いたモニター越しの地獄が、現実の感覚を侵食してくる。あり得ないはずの、頬を焼く幻の熱。鼻腔の奥にこびりつく、幻の火薬臭。
「っ……!」
歯を食いしばり、現実と悪夢の境界で溺れそうになる意識を必死に引き戻す。
浜田は和紙をすぐには開かず、一度、デスクの上にそっと置いた。まるで、それ自体が爆弾であるかのように。そして、両手で顔を覆い、固く目を閉じる。
開かなければならない。
これは、あの男から、十年以上の時を超えて俺に宛てられた手紙だ。
だが、開きたくない。
この手紙は、俺が必死に守ってきたこの日常を、これから築き上げようとしているこのささやかな平和を、根底から覆す毒薬に違いない。
数秒とも、数分とも思える沈黙が流れる。それは、浜田誉という男が、封印してきた過去と再び向き合うための、あまりにも長い葛藤の時間だった。
やがて、浜田は顔を上げた。
そして、ゆっくりと立ち上がり、若者たちに背を向けるようにして、執務室の窓辺へと歩み寄る。
窓の外には、独立党が守るべき街の夜景が広がっている。無数の光の点が、人々の営みの証として、闇夜に瞬いていた。
この光景を守るために、俺はあの日の全てを捨てた。あの人の理想も、仲間たちの無念も、すべてを背負って、現実的な道を選んだはずだった。
なのに。
浜田は振り返ることなく、静かに口を開いた。その声は、平静を装ってはいたが、わずかな震えを隠しきれていない。
「葵。すまないが、詩織を呼んできてもらえないか。この時間なら、おそらく自室にいるはずだ」
葵は、その声に含まれた尋常ではない響きを敏感に感じ取った。彼女は何も問わず、ただ黙って力強く頷くと、静かに執務室を後にしていく。
パタン、と扉が閉まる音だけが、やけに大きく響いた。
部屋には、尊、茉奈、煉、そして背を向けたままの浜田が残される。
窓の外の夜景を見つめたまま、浜田は、まるで自分自身に言い聞かせるかのように、静かに言葉を紡いだ。
「……これから、少し長い話をする。俺たちの、そしてこの日本独立党が生まれた、始まりの話だ」
その言葉は、これから語られるであろう壮絶な過去への、重々しい序曲だった。
凍てついた時が、再び動き出す。
それは、終わりではない。
この不気味な静寂こそが、彼らの、そしてこの世界の、本当の物語の始まりを告げる、鐘の音だった。
次回は 12月25日 19時 更新予定です




