第七夜 残響
執務室の空気は、まるで凍てついた湖面のように張り詰めていた。尊が差し出した一通の古びた封筒を前に、浜田の表情からいつもの人懐っこい笑みが完全に消え失せている。その鋭い眼光は、目の前の若者の顔と手の中の封筒とを交互に射抜き、この異常事態の本質を静かに探っていた。
「……緊急の、報告があります」
尊の絞り出すような声が、重い沈黙を破る。
「聞こうか」
浜田は短く応じ、椅子に深く座り直す。尊は一度、隣に立つ仲間たちの顔を見やり、覚悟を決めて口を開いた。
「今日の夕刻、訓練施設の河川敷に、東富士演習場ではちあった黒髪の男が現れました。今回は黒い長髪の男一人だけです。」
尊は、あの男の常軌を逸した気配、音もなく現れ、そして消え去ったこと、そして何より、東富士で対峙した時と同じ、底知れない強さを感じたことを簡潔に報告した。
「……その男が、これを?」
浜田の視線が、再び封筒に落ちる。「長髪の男」という言葉に、彼の眉が微かに動いたのを、尊は見逃さなかった。それは驚きというより、何かを思い出すような、あるいは、忘れていた悪夢の蓋をこじ開けられたかのような、微細な反応だった。
「はい。『ウチのボスからの預かりものだ』みたいな内容を癖のある訛りで、そう言って、俺を名指ししてこれを……」
尊の言葉を最後まで聞くことなく、浜田は静かに手を差し出した。尊はその手に、重く冷たい封筒を渡す。
浜田は無言で封筒を受け取ると、まるで骨董品でも鑑定するかのように、指先でその厚みや重さを慎重に確かめ始めた。次に、執務室の蛍光灯にそれを透かし、中の影を注意深く観察する。爆薬や、毒物が塗られた針といった古典的な罠。その一つ一つを排除していく所作は、幾多の修羅場を潜り抜けてきた者のそれであり、目の前の若者たちが知る「独立党の代表」という顔の裏に隠された、別の顔を垣間見せるようだった。
やがて、物理的な危険はないと判断したのだろう。浜田はふっと息を吐き、封筒をデスクの上に置くと、真っ直ぐに尊の目を見て問いかけた。
「尊。男はお前に名指しでこれを渡した。……俺が開けて、いいんだな?」
その声は平静を装っていたが、瞳の奥には鋭い光が宿っていた。それは、俺の覚悟を試している目だった。
尊は一瞬、ためらいを見せた。茉奈の言う通り、これは彼に託されたものだ。彼自身が開けるべきなのかもしれない。だが、あの男の異質さ、この手紙が放つ尋常ではない存在感を前にして、一人で判断することの危うさを肌で感じているのだろう。
尊は黙って頷くと、浜田のデスクのペン立てに差してあった一本のペーパーナイフに手を伸ばした。銀色の、シンプルなデザインのそれを手に取り、浜田の前にそっと差し出す。
「はい。確かに俺は名指しされました。でも、これはもう、俺だけの問題じゃない気がするんです。だから……浜田さん、お願いします」
その行動に、浜田はわずかに目を見開いたが、すぐに覚悟を決めたように頷き、ペーパーナイフを受け取った。煉、葵、そして茉奈も、固唾を飲んでその手元を見守っている。
浜田の指先が、ペーパーナイフで慎重に封を切っていく。カリ、カリ、と紙が裂ける乾いた音だけが、部屋の静寂を切り裂いていく。
封筒の中から現れたのは、誰もが予想だにしなかったものだった。
一枚の、蛇腹折りにされた和紙。
古びた洋封筒と、墨痕鮮やかな和紙。そのあまりにも不釣り合いな組み合わせに、若者たちは息を呑んだ。浜田がゆっくりと、まるで壊れ物を扱うかのように和紙を引き出す。
最初に目に飛び込んできたのは、流麗でありながら、力強い筆遣いで書かれた二文字だった。
『誉へ』
「「「誉……?」」」
尊と煉、葵の声が重なる。
だが、彼らの疑問など意に介する余裕は、今の浜田にはなかった。
その二文字を目にした瞬間、浜田の呼吸が止まる。まるで時間が凍りついたかのように、彼の動きが完全に静止した。そして次の瞬間、何かに憑かれたかのように、彼は慌てて和紙の全体を乱暴に引きずり出す。
そして、末尾に記された署名を目にした時、彼の世界は崩壊した。
「――神凪皓一朗」
カラン、と。
乾いた金属音が、やけに大きく部屋に響いた。浜田の手から滑り落ちたペーパーナイフが、床に転がる音だった。
浜田の顔から、血の気が完全に引いていた。その目は信じられないものを見るかのように大きく見開かれ、唇はかすかに震えている。
「あ……あぁ……」
意味をなさない声が、彼の喉から漏れ出た。
その瞬間、浜田の脳裏に、決して忘れることのできない、忘れてはならなかったはずの光景が、嵐のように蘇っていた。
――夜明け前の首都。作戦開始を告げる、冷静なカウントダウン。
――『罠です!中止を!すぐに作戦を中止してください!』
――モニターの向こうで、一斉に閃光に包まれる仲間たちの拠点。
――爆炎が夜明け前の空を赤く染め上げ、昇る朝日はまるで血のようだった。
――『定刻通り作戦を実行する。日本の夜明けは、我々の手で』
――力強く、しかしどこか覚悟を秘めた、師の最後の声。
――炎と爆煙の中に消えていく、神凪さんの後ろ姿。
頬を焼く炎の熱。鼻をつく火薬と血の匂い。そして、画面の向こうの地獄を前に、何もできずに絶叫することしかできなかった、あの日の絶望的なまでの無力感。
「はっ……はぁっ……!」
浜田の呼吸は激しく乱れ、その体は椅子に深く沈み込んでいく。小刻みに震える手で、彼は自身の額を強く押さえた。焦点の合わない目が、虚空を彷徨う。
「……あり得ない……。あの人は……あの人は、あの日に死んだはずだ……。俺の前で……」
呻くように絞り出された言葉が、静まり返った執務室に重く響いた。
尊たち四人は、言葉を完全に失っていた。
いつも冷静で、どんな時も的確な指示を出し、時には食えない笑顔で若者たちをからかいさえする、絶対的な指導者・浜田。その彼が見せた、あまりにも脆く、痛々しい姿。
彼らはただ、立ち尽くすことしかできなかった。
部屋には、浜田の荒い息遣いと、床に転がったペーパーナイフの無機質な存在感だけが満ちている。
尊は、浜田の手から滑り落ちた和紙に視線を落とした。
『神凪皓一朗』
そこに書かれた名前が、この日本独立党という組織にとって、そして浜田誉という男にとって、どれほど致命的な意味を持つのか。
尊は、その重さの一端を、今、痛いほどに感じていた。
これは、終わりではない。
この不気味な静寂こそが、俺たちの、そしてこの世界の、本当の物語の始まりを告げる、鐘の音だった。
続きが読みたい、面白いと思ったら星(評価)やブックマークをお願いします!
次回は 12月22日(月) 19時 更新予定です




