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黒髪巫女と銀髪少年の深淵  作者: 烏刻
第一章 黎芽
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第六夜 一書

 陽炎のように歪み、夕闇に溶けて消えた男。その残像が消え去っても、俺たちは誰一人として動けずにいた。河川敷を撫でる夜風の音だけが、やけに大きく耳に響く。まるで、この世の音がそれだけになってしまったかのような、不気味な静寂だった。


「……消えた、のか?」


 最初に沈黙を破ったのは煉だった。その声は、普段の冷静さを失い、わずかに震えている。葵も、警戒態勢を解かないまま、男が立っていた空間を睨みつけていた。


「なんなのよ、あいつ……。気配も、匂いも、何も残ってない……」


 葵の言葉に、俺はゴクリと喉を鳴らす。そうだ。あの男は、ただ速いだけじゃない。存在そのものが希薄で、まるで初めからそこにいなかったかのように、痕跡一つ残さずに消え去った。東富士で殴り飛ばした時もそうだったが、その異質さは計り知れない。


「もう、所沢あたりにいる……」

 茉奈が、かろうじてその気配の残滓を追い、力なく呟いた。


 俺の右手には、先ほど拾い上げた一通の封筒が握られていた。宛名も差出人もない、古びた洋封筒。だが、その手触りはただの紙とは思えないほどに重く、冷たい。まるで鉛の塊でも持っているかのような、ずしりとした存在感が、この非現実的な状況が紛れもない事実であることを突きつけてくる。


「灯となるか、業火となるか……」


 茉奈が、男の最後の言葉をか細い声で繰り返す。その横顔は夕闇の中でも青ざめているのが分かった。


「ふざけたこと言いやがって……。一体、何様のつもりなんだ」


 俺は吐き捨てるように言ったが、その声には自分でも分かるほど力がなかった。恐怖、ではない。だが、理解不能な存在を前にした時の、根源的な戸惑いとでも言うべき感情が胸の奥で渦巻いていた。


「尊さん、その手紙は……」


 煉が俺の右手にある封筒に視線を落とす。その目には、警戒と好奇が入り混じっていた。


「ああ。これを、すぐに事務所に持ち帰らないと」


 俺は強く頷いた。理由は分からない。だが、直感が告げている。これは、俺たち日本独立党の、いや、俺自身の運命を左右する、とてつもなく重要なものだと。あの男の言葉、態度、そしてこの手紙が放つ異様な存在感。その全てが、そう叫んでいた。


「急ごう。はやく浜田さんに情報を共有しよう。」


 俺の言葉を合図に、四人は弾かれたように走り出した。訓練で火照った体はとっくに冷え、代わりに張り詰めた緊張が全身を支配する。河川敷から事務所へと続く道を、俺たちはただ無我夢中で駆けた。


 ◇


 事務所へと戻る道すがら、俺たちの頭の中は疑問符で埋め尽くされていた。


「あの男の『ボス』って、一体誰なんでしょうか。東富士にいた、もう一人の短髪の男……?」


 煉が息を切らしながら問いかける。俺は首を横に振った。


「いや、違う。あの時のやり取りだと、短髪のやつがリーダーって感じじゃなかった。むしろ、今日の長髪の男の方が格上に見えたくらいだ。だとしたら、その更に上にいるってことか……?」


「だとしても、なんで尊にーちゃんに? 名指しだったよね?」


 葵の純粋な疑問が、核心を突く。なぜ、俺だったのか。なぜ、俺の名前を知っていたのか。そして、なぜあんな回りくどいやり方で?


「わからない……。けど、あの男、俺と戦いたがってた。本気で殺し合いたがってるような、そんな目をしてた」


 東富士での一瞬の攻防が脳裏に蘇る。遊びのようでありながら、その実、命のやり取りを心底楽しんでいるかのような狂気。あんな男を従える『ボス』とは、一体どれほどの傑物なのか、あるいは怪物なのか。想像するだけで、背筋に冷たいものが走った。


 事務所の明かりが見えてきた頃、俺たちの足が自然と緩やかになる。拠点に戻ってきた安堵感と、これからこの『爆弾』をどう扱うべきかという新たな緊張感が、同時に押し寄せてきた。


 事務所の入り口を抜け、浜田さんの執務室へと続く廊下を歩く。その途中、ふと茉奈が立ち止まった。


「ねえ、尊」


「どうした?」


「その手紙……尊に託されたものだから、尊が開けるべきなんじゃないかなって……」


 茉奈の言葉に、俺は一瞬、封筒に視線を落とした。確かに、男は俺個人にこれを渡した。中身を確認したいという気持ちがないわけではない。


 しかし、その提案を煉が静かに、だが強く制した。


「待て、茉奈さん。それは早計だよ。得体の知れないものなんだ。まず浜田さんに見せて、判断を仰ぐべきだ」


「そーそー! レンの言う通りだよ! 開けた途端にドカーン!なんて、笑えないからね!」


 葵も大げさな身振りを交えて煉の意見に同意する。二人の言うことはもっともだった。俺は、この手紙が持つ物理的な危険性まで頭が回っていなかった。


 だが、それ以上に、この手紙が持つ『意味』を、俺一人の判断で左右してはいけない気がした。


「……煉の言う通りだ。これはもう、俺個人の問題じゃない。俺の居場所と名前がばれてる時点で、日本独立党全体に関わることだと思う。浜田さんの判断を仰ごう」


 俺がそう言うと、茉奈もこくりと頷いた。彼女もまた、この手紙が持つ尋常ならざる重さを感じ取っているのだろう。俺の決断は、単なる戦闘員としてではなく、この組織の一員としての自覚の表れだった。


 決意を固め、俺たちは再び歩き出す。目指すは、この独立党の頭脳であり、心臓でもある男――浜田の執務室。


 執務室のドアの前に立ち、俺は一度、大きく深呼吸をした。高鳴る心臓を落ち着かせ、乱れた呼吸を整える。隣に立つ茉奈、煉、葵の三人も、固唾を飲んで俺の動きを見守っていた。


 コン、コン、......コン。

「藤堂です。」

 乾いたノックの音と俺の声が、静まり返った廊下に響く。


「入れ」


 中から聞こえてきたのは、いつもと変わらない、どこか人懐っこささえ感じさせる落ち着いた声だった。その声に少しだけ安堵し、俺はドアノブに手をかける。


 ゆっくりとドアを開けると、デスクで山のような書類と格闘していた浜田さんが顔を上げた。その人懐っこい笑顔が、俺たちのただならぬ様子を察して、すっと消える。


「どうした、四人揃って。そんな深刻な顔して」


 幾多の戦場を潜り抜けてきた男の鋭い眼光が、俺たち一人ひとりの顔を射抜く。


 俺は無言で執務室に入り、まっすぐ浜田さんのデスクへと向かった。そして、右手に握りしめていた、あの重く、冷たい封筒を、彼の目の前に差し出した。


「浜田さん。……緊急の、報告があります」


 浜田さんは怪訝そうな顔で、俺の顔と、俺が差し出した古びた封筒を交互に見比べた。彼の表情から、いつもの余裕が消えていく。


 部屋の空気が、まるで凍りついたかのように張り詰める。


 この一通の手紙が、これから俺たちの、そして独立党の運命を大きく揺るがすことになる。


 その予感だけが、確信となって胸に突き刺さっていた。


次回は 12月18日(月) 19時 更新予定です

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