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黒髪巫女と銀髪少年の深淵  作者: 烏刻
第一章 黎芽
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第五夜 使者

 夕闇が完全に降りた訓練場で、俺と茉奈は互いの手の温もりを確かめ合っていた。厳しい訓練を経て、俺たちはまた一つ、絆を深めた。それは単なる精神的な繋がりだけでなく、互いの存在そのものを支え合う、確かな楔となった。


「さてさて、そこのお二人さん? いつまで見つめ合ってるのかなー?」


 からかうような葵の声に、俺と茉奈ははっと我に返り、慌てて手を離す。顔が熱い。きっと夕闇に紛れていなければ、真っ赤になっているのがバレバレだっただろう。


「葵、あまりからかうな。尊さんも茉奈さんも、今日は大変だったんだから」


 煉が苦笑しながらも、その声にはどこか温かさが滲んでいる。今日の訓練、特に後半は煉と葵の二人を相手に、神使としての力を制御するのに必死だった。茉奈のサポートがなければ、今頃どうなっていたか分からない。


「いや、三人のおかげで掴めたものがあった。本当に感謝してる」

「ううん、尊が頑張ってたから。私も頑張れたんだよ」


 はにかむ茉奈の笑顔に、胸の奥が温かくなる。

 初日の飛躍的な成長に比べれば、この数日の伸びは決して目を見張るものではなかったかもしれない。だが、今日得たものは、単なる力の向上以上の、もっと根源的で大切なものだった。


「それにしても、尊さんの吸収力は凄まじいですね。僕たちが教えた動きを、ほぼすべて一度でここまで自分のものにするなんて」

「そーそー! 最後の一撃なんて、マジで危なかったんだからね! 私じゃ避けられなかったかも!」


 煉と葵が今日の訓練を振り返り、興奮気味に話す。河川敷を撫でる夜風が、火照った身体に心地よかった。このまま事務所に戻って、詩織さんや浜田さんたちと今日の成果を報告して……。そんな、穏やかな日常が続くものだと、この時の俺は信じて疑わなかった。


 その、束の間の平和を切り裂いたのは、隣に立つ茉奈の、か細い声だった。


「……なに、これ……」


 茉奈の顔から、ふっと血の気が引く。その瞳は、虚空の一点を捉えて微動だにしない。


「どうした、茉奈?」

「……なにかが、来る。すごく、速い……!」


 茉奈の索敵能力が、異常を捉えたのだ。その表情は、これまで見たことがないほどに強張っている。


「敵か!?」


 煉が即座に警戒態勢に入る。葵もまた、屈託のない笑顔を消し、鋭い眼光で周囲を睨んだ。


「わからない……でも、速すぎる。車なんかより、ずっと……! ヘリコプター?道が無いところを最短距離でこっちに向かってくる! だめ、速すぎて追えない!」


 茉奈の声が震える。彼女の広域探知能力は、御殿場の時よりも格段に向上しているはずだ。その茉奈が「追えない」と戦慄するほどの速度。尋常じゃない。


 ゴクリ、と誰かが息を呑む音がした。張り詰めた沈黙の中、俺たちはただ、その”何か”が姿を現すのを待つしかなかった。


 そして、それは音もなく現れた。


 夕闇が残る空と、河川敷の境界線。そこに、いつの間にか一人の男が立っていた。

 風に揺れる長い黒髪。黒を基調とした、身体に張り付くような服装。何より異様なのは、その存在感だった。周囲の風景から、まるで彼だけが切り取られたかのように浮いている。感情の一切を削ぎ落とした無表情な顔が、ゆっくりとこちらに向けられた。


「ッ……!」


 煉と葵が、俺と茉奈を庇うように一歩前に出る。二人とも、全身から闘気をみなぎらせ、いつでも飛びかかれる体勢だ。だが、男はそんな二人の殺気立った警戒を、まるで道端の石ころでも見るかのように意に介さない。


 その視線は、煉も葵も通り越し――真っ直ぐに、俺だけを射抜いていた。


(こいつ……!)


 脳裏に、忌まわしい記憶が蘇る。そうだ、見覚えがある。忘れるはずがない。東富士演習場で本気で殴り飛ばしたにもかかわらず、すぐに起き上がった男。戦いを遊びのように捉え、命のやり取りを楽しんでいた狂気。会いたくなかった。二度と、顔も見たくなかった相手。


 男の唇の端が、ほんのわずかに吊り上がった。それは笑みというにはあまりに無機質で、不気味なものだった。


「久しぶりじゃな。藤堂 尊」


 静かだが、腹の底に響くような声だった。

 なぜ、俺の名前を。なぜ、ここに。

 その問いが口から出る前に、煉が鋭く叫ぶ。


「貴様、何者だ! 尊さんの名を知っているとはどういうことだ!」


 しかし、男は煉の問いには答えなかった。ただ、俺を見つめたまま、ゆっくりと懐に手を入れる。その動きに、煉と葵の緊張が極限まで高まった。


 だが、男が取り出したのは武器ではなかった。

 一枚の、封筒。


 男はそれを、俺に向かって差し出すように掲げた。


「こいを。ウチんボスが」


 ボス……? 誰のことだ。こいつらの仲間ということは、東富士にいた短髪の男か? いや、違う。あの時のやり取りでは、彼が「ボス」という雰囲気ではなかった。


「あんたたちは一体誰なんだ! ボスとは誰のことだ!」


 俺の問いにも、男は答えない。ただ、愉悦とも嘲笑ともつかない、感情の読めない表情で俺を見つめるだけだった。


「ほんとは、おいは戦おごたったんじゃっどん、今回は止められちょっでな」


 妙な訛りのある言葉。その言葉の意味を理解するよりも早く、男は持っていた手紙をひらりと手放した。封筒は、まるで意思があるかのようにゆっくりと回転しながら、俺たちの足元、ちょうど中間地点の地面に音もなく落ちた。


「……残念じゃ」


 そう呟くと、男は俺たちに背を向けた。


「待て!」


 葵が叫び、地を蹴ろうとした、その瞬間。

 男は最後の言葉を投げかけた。


「そん手紙が、わいん進んべき道を照らす灯となっか…ありは、全てを焼き尽くす業火となっか。そんたわいら次第じゃ」


 謎めいた言葉だけを残し、男の姿がぐにゃりと歪む。まるで陽炎のように。

 煉と葵が制止する間も、俺が何かを叫ぶ暇さえなく、その姿は夕闇に溶け込むように、かき消えた。


「……消えた?」


 葵が呆然と呟く。

 後には、不気味なほどの静寂と、地面に落ちた一通の封筒だけが残されていた。

 まるで、嵐が過ぎ去った後のようだった。いや、これから訪れる嵐の、前触れか。


 俺はゆっくりと歩み寄り、その古びた封筒を拾い上げた。

 宛名も、差出人の名も書かれていない。ただ、ずしりとした重みだけが、手のひらに現実を突きつけてくる。


 灯となるか、業火となるか。


 男の言葉が、頭の中で反響する。

 これが、とてつもなく重要なものだということだけは、直感で理解できた。そして、これをすぐに事務所に持ち帰り、浜田さんたちに見せなければならない、と。


 俺は手の中の封筒を、強く、強く握りしめた。

 穏やかだった日常は、この一通の手紙によって、再び非情な現実へと引き戻されようとしていた。俺たちの戦いが、まだ始まったばかりであることを告げるかのように。


 決意を固めた俺の表情を見て、煉と葵、そして茉奈もまた、静かに頷いた。

 俺たちの進むべき道が、この手紙によって示されようとしている。それが光への道か、それとも破滅への道かは、まだ誰にも分からなかった。

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次回は 12月15日(月) 19時 更新予定です

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