第一夜 黎明
柔らかな朝の光が、大きな窓ガラスを通り抜けて、磨かれた食堂の床に温かい光の四角形を描いていた。遠くで聞こえる小鳥のさえずりは、まるで新しい世界の始まりを告げるファンファーレのようだ。厨房の奥からは、かつお節と味噌が溶け合う懐かしい香りがふわりと漂い、空っぽの胃を優しく刺激する。
日本独立党が運営する児童養護施設の一日が、そんな穏やかな静けさの中で始まろうとしていた。
食堂に集まった子供たちの顔には、まだ拭いきれない緊張の色が色濃く残っている。長い木製のテーブルを囲み、ある者は目の前に置かれた温かい朝食に戸惑いの視線を落とし、またある者は隣の席に座る子供の気配を敏感に感じ取るかのように、無意識に肩をこわばらせていた。カチャリ、と誰かの箸が茶碗に触れる音だけが、やけに大きく響き渡る。彼らにとって、この静けさも、温かい食事も、すべてが未知の体験だった。
「ほら、みんな、冷めないうちに食べるんだよ」
恰幅が良く、笑顔の優しい女性世話役が、一人ひとりの顔を覗き込むようにして声をかける。その声に含まれた温もりに促され、子供たちはようやく、おずおずと箸を手に取った。その持ち方さえ、どこかぎこちない。
ふっくらと湯気の立つ白いご飯。陽の光を吸い込んだかのように鮮やかな黄色い卵焼き。豆腐とワカメが沈む、だしの香りが豊かな味噌汁。
彼らにとって、それは生まれて初めて経験するかもしれない、「普通の朝食」だった。栄養補給のための無味乾燥な配給食でも、恐怖の中で無理やり流し込む冷たい食事でもない。誰かが自分たちのために作ってくれた、温かい料理。
「……うまい」
テーブルの端に座っていた少年が、ぽつりと誰に言うでもなく呟いた。その一言が、張り詰めていた食堂の空気がほんの少しだけ緩む。最年長の煉は、相変わらず黙々と箸を進めているが、その固く結ばれていた口元が、微かにほころんでいるように見えた。
俺と茉奈は、食堂の隅の壁に寄りかかり、その光景を静かに見守っていた。
あの日、東富士の地下施設で目の当たりにした地獄のような光景。怒りと絶望の中で、それでも必死に手を伸ばし、救い出した小さな命が、今こうして温かい光の中にいる。胸の奥に、じんわりと熱いものが込み上げてくるのを感じた。
「……よかった」
隣で茉奈が、ほとんど吐息のような声で呟く。その声には、隠しきれない安堵と、涙をこらえるような微かな震えが滲んでいた。
俺は何も言えず、ただ強く頷いた。言葉にする必要はなかった。この光景こそが、俺たちの戦いの答えであり、報酬だった。それだけで、十分すぎるほどだった。
◇
午後の日差しが庭の青々とした芝生を黄金色に染める頃には、子供たちの間には確かな、そして奇跡のような変化が生まれていた。
「待てー!」
隼人が、その名の通り風を切るような速さで庭を駆け抜ける。それを他の子供たちが、きゃあきゃあと甲高い歓声を上げながら夢中で追いかけていた。服が泥だらけになるのも、髪が汗で濡れるのも構わず、芝生の上を転げ回り、じゃれ合う姿は、数週間前まで無機質な施設で感情を殺していた子供たちと同一人物とは到底思えなかった。
木陰に置かれた白いテーブルでは、葵が真剣な顔で大きな画用紙に向かっていた。その隣では、霧乃が庭の隅に咲いていた小さなシロツメクサを摘み、花冠を作ろうと奮闘している。時折、葵の銀髪にそっと花を飾ろうとしては、くすぐったがられて二人で笑い合っていた。
「見て! 描けたよ!」
葵が、少しはにかみながらも誇らしげに画用紙を差し出した。そこに描かれていたのは、大きな太陽の下で、手を繋いで笑う子供たちの絵だった。線は拙く、色の塗り方もはみ出している。だが、その一枚の絵には、彼女が今感じている喜びと希望が、どんな名画よりも鮮やかに表現されていた。
「すごく上手だね、葵ちゃん。みんな、とっても楽しそう」
茉奈が優しく頭を撫でると、葵は照れくさそうに顔を真っ赤にしながらも、その瞳は嬉しそうに輝いていた。
小さな成功体験。他愛のないじゃれ合い。誰かと心から笑い合う温もり。
帝国によって奪われ、心の奥深くに封じ込められていた感情が、一つ、また一つと、彼らの心に芽吹いていく。まるで、長く厳しい冬を越え、凍てついた大地から力強く顔を出す若葉のように。
だが――。その芽生えたばかりの若葉は、まだあまりにも脆かった。
穏やかな午後の時間は、ふとした瞬間にその脆さを露呈した。
施設のすぐそばを通る高速道路から、大型トラックがけたたましいクラクションを鳴らした。
空気を引き裂くような鋭い音。
びくん、と霧乃の小さな肩が大きく跳ねる。さっきまで葵と笑い合っていた顔から血の気が引き、さっと青ざめた。楽しげに輝いていた瞳は、一瞬にして深い恐怖に見開かれる。
「ひっ……!」
短い悲鳴を上げ、耳を塞ぐように両手で強く頭を抱えた。ガタガタと震える体は、まるで嵐の中の小舟のようだ。
脳裏によみがえるのは過去の記憶――冷たい部屋、教官の怒声、罰として与えられた暴力。大きな音は、常にその恐怖の始まりを告げる合図だったのだ。
「霧乃ちゃん……!」
茉奈がハッとして駆け寄ろうとするよりも早く、隣にいた葵が動いた。
彼女は何も言わなかった。反射的に、何よりも先に、霧乃の震える手を、自分の両手で包み込むように強く握りしめた。
年少組と追いかけっこをしていた煉も、その異変に瞬時に気づいて駆け寄る。彼は不器用な手つきで霧乃の前にしゃがみこむと、大丈夫だとでも言うように、その小さな背中をゆっくりと、繰り返しさすった。
一人じゃない。
その無言のメッセージが、言葉以上に雄弁に、子供たちの間で確かに交わされていた。彼らもまた、同じ痛みを抱えている。だからこそ、分かるのだ。今、彼女に必要なのが、同情の言葉ではなく、ただ寄り添う温もりであることを。
葵の温かい手のひらと、煉の不器用ながらも優しい手つきに、霧乃の強張っていた体が少しずつ力を抜いていく。やがて、葵の手にすがるように顔をうずめ、堰を切ったように小さな嗚咽を漏らし始めた。それは、恐怖から解放された安堵の涙だった。
俺は、その光景をただ見つめながら、強く拳を握りしめることしかできなかった。
あの子たちに牙を剥かせ、心に消えない傷を刻みつけた帝国への怒りは、今も胸の奥で黒い炎のように燻っている。だが、それ以上に、目の前で互いを支え合う子供たちの姿が、強く、強く胸を打った。彼らはただ守られるだけの弱い存在ではない。自らの痛みを知るからこそ、他者の痛みに寄り添える強さを、既にはぐくみ始めているのだ。
◇
夕暮れの光が、施設の窓を茜色に染め上げていた。
庭で遊び疲れた子供たちは、それぞれの部屋に戻り、静かな時間を過ごしている。絵本の世界に没頭する者、寄り添って互いの寝息をBGMにうたた寝をする者。その無防備な寝顔には、ようやく手に入れた「安心」という名の穏やかな光が宿っていた。
俺と茉奈は、少し離れた廊下から、その一枚の絵画のように美しい光景を眺めていた。
「……俺たちが守りたかったのは、これなんだな」
俺の呟きは、静かな廊下に吸い込まれていく。それは問いかけではなく、噛みしめるような確認だった。
過去の傷に怯えながらも、互いに寄り添い、少しずつ笑顔を取り戻していく小さな命。
この何気ない、しかし何物にも代えがたい穏やかな日常こそが、俺たちが命を懸けて戦う理由。
そして、これから先も、何があっても守り抜かなければならない、未来そのものの光。
「ええ……」
茉奈が、こくりと静かに頷く。そして、俺の手に、そっと自分の手を重ねた。華奢だが、芯の強さを感じさせるその手の温もりが、尊の決意をさらに強く、確かなものにしていく。
「この子たちの笑顔が、私たちの未来だから」
その言葉が、胸の奥に深く、静かに刻み込まれる。
戦いは、まだ終わらない。いや、むしろ、ここからが本当の始まりなのだ。
この温かな光を、二度と失わせないために――。俺は心に、改めてそう強く誓った。
次回は 11月27日(月) 19時 更新予定です




