第三夜 誘拐
朝から妙な胸騒ぎがしていた。
茉奈が職場に来ない。電話も繋がらない。既読もつかない。
昼前には、その不安が確信に変わった。
駅前でうろついていた俺は、偶然にも記憶に新しい母親と、初詣で泣いていた女の子に出くわした。
あの初詣の光景がふと脳裏に蘇る。人混みの中で泣きじゃくる小さな女の子と、それを必死に探す母親。結局、俺が見つけて引き合わせた――ただの偶然のはずだった。
だが、その偶然は、どうやら別の意味を持っていたらしい。
「ママ、いた…!」
女の子が駆け寄り、母親にしがみつく。その視線が、ふと俺に向けられた。
「あの…これ、渡すように頼まれたの」
差し出されたのは、折りたたまれた古びた封筒。触れた瞬間、紙のざらつきと冷えた感触が指先にまとわりつく。
中には短いメモ。几帳面な字で書かれているが、そこからは押し殺した焦りと圧迫感が漂っていた。
夜七時 日本独立党 与野事務所に来い
差出人の名前はない。だが、この筆跡も文面も――日本独立党の手口なのだろう。
あの日、迷子の子供を助けたという記憶。それすらも、党員にとっては利用するための「材料」に過ぎなかったのか。
握る封筒が、やけに重く感じられる。
胸の奥で何かが弾ける。行かなきゃ、でも正面突破じゃ何もできない。
結局、日が沈むまでの数時間を準備に費やした。手元にあるのはオペラグラスと、職場の工場から拝借した工具をいくつか。武器とも呼べないが、ゼロよりマシだ。
事務所の近くにある与野公園の茂みの陰から、煌々と灯りのついた事務所を覗く。
奥のほう――倒れている人影が見えた。もぞもぞと動いている。
……茉奈だ。無事だ。
胸をなでおろした、その瞬間、背後から女の声が響いた。
「なんじゃ、白銀か? 何をしている?」
振り返ると、月明かりに長い黒髪を揺らし、巫女装束の女性が立っていた。
いままで存在しなかったところに、突然現れたかのようだ。
「うおわっ!?」
驚きと動揺で足元のバランスを崩す。咄嗟に避けようとしたが、公園の木々が邪魔をして身動きが取れず、結果――声をかけてきた女性の胸にぶつかる形になった。
……固い。クッション性は皆無で、思わず息を呑む。
次の瞬間、俺の声に反応して党員たちが駆けつけ、あっという間に取り押さえられる。
縛られたまま事務所へ引きずり込まれると、奥には猿轡をされた茉奈がバタバタ暴れていた。
党員たちは黒髪の巫女に向かって囁く。
「ほいほい表に出ないでください」
「同族が来た気がしたんじゃが」
「どう見ても白銀ですって」
「おかしいのぉ」
……こいつら、黒髪だからって即何かするわけじゃない。
俺は茉奈の胸元まで這うように近づき、顔をうずめ直接鼓動を感じる。熱く、確かな脈の感覚が、力の目覚めを告げていた。拘束を引きちぎる。
「ごめん、待たせた」
茉奈が目を見開き、呼吸を整えながら小さく頷く。
振り返りざま、怒りが込み上げる。
この前の新宿で見た党員の首根っこを掴み、壁に叩きつける。一瞬の出来事に、周囲は息を呑み、反応が遅れる。
俺は少し間を置き、巫女の鋭い視線と荒い呼吸を確認しながら次の行動に移る。
「ちょっっ、待つのじゃ!」慌てふためく黒髪の巫女の声。
巫女の声が、怒りに沸騰した頭に冷や水を浴びせる。はっと我に返ると、事務所内は静まり返り、恐怖に染まった視線が俺に突き刺さっていた。俺は、一体何をしている?
ただ茉奈と平穏に暮らしたかった。工場で働いて、冗談を言い合って、ささやかな毎日が続けばそれでよかったはずだ。この得体の知れない力は、そんな日常さえも奪い去っていくのか。
だが、感傷に浸っている暇はなかった。視線の先で、まだ不安そうな表情を浮かべる茉奈と目が合う。そうだ。もう後戻りはできない。平穏が壊されたのなら、この力で新しい日常を、茉奈と共にいられる未来を、俺自身の手で作り上げるしかない。
そのためには、怒りに任せてこいつらを潰すだけではダメだ。
俺は手を止め、床にたたきつけた二人目の党員の頭を押さえたまま巫女に向き直る。
「おぬし、白銀だったよな?」
「あぁ」
「なぜ今、黒髪なんじゃ?」
「急にそうなったんだよ」
巫女は目を細め、眉間に皺を寄せる。息を整えながらさらに尋ねる。
「なぜ初めからそうしてこなかったんじゃ?」
「なりたくても、今までなれなかったんだよ」
巫女は目を見開き、一瞬言葉を失う。
「おぬし、あやつの胸に顔を埋めたら黒くなったよな?」
……バレている。俺の心臓が一瞬、跳ね上がる。
「あぁ、胸に顔を埋めると黒くなるらしい」
「さっきわしの胸に顔を埋めたのにならなかったじゃないか?」
茉奈は眉をひそめ、目を見開く。黒髪の巫女も首をかしげる。
事務所の空気が、一瞬、完全に意味不明の沈黙に包まれた。
次回は 10月2日(木) 19時 更新予定です




