通知
昼過ぎ、私はゆっくりとクローゼットを開けた。
特別な予定があるわけじゃないけど、なんとなくお気に入りのニットを手に取る。
鏡の前で軽く髪を整えて、リップをひと塗り。
それだけで、ちょっと気持ちが上がる。
今日は、拓実の家で映画を観る予定。
ただそれだけの約束なのに、私は朝から少し浮かれていた。
「ちょっとした手土産でも持っていこうかな」
バッグを肩にかけて、家を出る。
街路樹の葉はすっかり色づいていて、落ち葉を踏むたびにカサカサと小さな音が鳴った。
近所の商店街は、週末らしく少しだけ賑わっていた。
小さな和菓子屋の前を通りかかると、店先に並んでいた季節限定の栗饅頭が目に留まった。
「……これ、好きだったよね、確か」
自分用というより、拓実の顔が浮かんで思わず買っていた。
包みをそっとバッグにしまい、私はまた歩き出す。
陽だまりの道を歩く。寒すぎず、暑すぎず、ちょうどいい空気。
道端の犬を見て笑ったり、カフェの中を覗いたり。
ただそれだけの時間が、やけに愛おしく感じた。
思えば、こうして誰かの家に向かうことが、こんなにも自然になったのは、いつからだったんだろう。
会うたびに緊張していた頃が、少し懐かしい。
拓実のマンションが見えてくると、ふわっと胸の奥があたたかくなった。
インターホンを押す直前、私は小さく息を吐いた。
「ただいま」って言いたくなるような、そんな気分だった。
ピンポン、と鳴らすと、すぐに拓実が出てきた。
「おつかれ。寒くなってきたね」
「うん。でも歩いてきたらちょっとぽかぽかしてきた」
「そう? とりあえず中どうぞ」
拓実が一歩下がって玄関を開け、私は「おじゃまします」と言いながら中へ入る。
コートを脱いで、ブーツをぬいだ足元には、ほのかに柔軟剤の香りが漂っていた。
「暖まってるならアイスコーヒーでも淹れようか」
「ありがと。……あ、これ」
私はバッグからそっと紙袋を取り出した。
和菓子屋で買った栗饅頭。小ぶりだけど丁寧に包まれていて、手のひらにすっぽり収まるくらいの可愛らしさ。
「わ、これ、限定のやつじゃない? 今日売ってた?」
「うん、たまたま通りかかって見つけたの。ひとつ余分に買ったから、一緒に食べよ」
「やっぱり気が合うな。今日甘いの食べたい気分だったんだよ」
拓実はそう言って笑いながら、紙袋をキッチンへ持っていった。
私はソファに腰を下ろし、リビングの空気に自然と肩の力が抜けていく。
部屋には、木の香りと暮らし慣れた静けさが満ちていた。
テレビはまだついておらず、代わりに流れているジャズのBGMが心地いい。
拓実がグラスを2つ手に戻ってくる。
「はい、ブラックでいい?」
「うん。ありがとう」
ふたりで並んでソファに座り、冷たいコーヒーを一口すすった。
紙袋から取り出した栗饅頭は、ほんのり甘くて、秋の味がした。
「ねえ、何観ようか?」
そんな自然な一言が、次の会話へとつながっていく。
「今日は何観る?」
拓実はテレビのリモコンを片手に、私の顔をちらりと見た。
「うーん、ホラーじゃなきゃ何でもいいよ」
「また言ってる。あれ一緒に観たときめっちゃくっついてきたじゃん」
「だからやなの!」
私がわざとむくれると、拓実は笑って、穏やかに肩をすくめた。
「じゃあ、のんびりしたやつにしよう。旅行行ったばっかりだし、癒し系で」
「あ、それいいね」
結局、観るのは前から気になっていたドキュメンタリー映画になった。
冬の小さな村で、静かに暮らす夫婦の話。特別な出来事は起きないけれど、温かな時間が流れていく。
私たちも、そんなふうに歳を重ねていけたらいいな――なんて、少しだけ思った。
映画が終わる頃には、日がすっかり傾いていた。
拓実は立ち上がって、軽く背伸びをする。
「ちょっとシャワー浴びてくる」
「うん。ゆっくりしてきなよ」
私はソファに座ったまま、余韻を感じながらテレビのメニュー画面をぼんやりと眺めていた。
そのとき、テーブルの上に置かれていた拓実のスマホがふっと光った。
ロック画面に浮かび上がる通知。
【綾乃】「こっちは大丈夫そう。あとは拓実くん次第かな、笑」
……え?
一瞬、心がきゅっと縮んだ。
“こっちは大丈夫”?
“あとは拓実くん次第”?
なにが? 誰? どういう意味?
思わず目を逸らし、スマホを見なかったふりをした。
でも、胸の奥では小さな波がざわめき始めていた。
やがて、シャワーを終えた拓実が戻ってくる。タオルで髪を拭きながら、いつも通りの笑顔で言う。
「おまたせ」
私はできるだけ自然な声で言った。
「……さっき、綾乃って人からメッセージ来てたよ?」
拓実は一瞬だけ、動きを止めた。
ほんの一瞬。でも、私は見逃さなかった。
「仕事関係だよ。ちょっとした相談があって」
「……そっか」
うまいな、って思った。声の調子も表情も、ごく普通。
たぶん本当に“相談”なんだと思う。
でも、やっぱり気になってしまう。
私の中で、小さなひびがひとつ、入った音がした。
それでも私は、何もなかったように笑った。
だって今はまだ、幸せでいたかったから。