秋空
この物語は、秋から冬へと移り変わる季節の中で、ひと組の恋人が歩んだ、静かでささやかな日々の記録です。
澄んだ秋の空、色づく山の景色、そして凛と冷えた朝の空気。
ふたりで過ごす時間は、何気なくて、あたたかくて――当たり前の日常が、かけがえのないものに思えました。
けれど、季節と同じように、人の心もまた、少しずつ変わっていく。
それはやさしさか、それとも不安の影か。
本当の答えは、きっと物語の中に。
秋の澄んだ空を見上げると、なんだか幸せな気持ちになる。
隣にいる彼の手の温もりを感じながら、私はそっと空を仰いだ。
拓実は、本当に優しい人だ。
私の話にちゃんと耳を傾けてくれて、私が笑えば一緒に笑って、泣けば黙ってそばにいてくれる。
「由香、寒くない?」
そう言って、私の手をぎゅっと握ってくれた。その指の強さに、愛を感じた。
駅前の喫茶店で、ふたり並んでランチを食べた。私はパンケーキ、拓実はパスタ。
お互いの皿をつつき合いながら、くだらない話で笑い合う時間が心地よかった。
「来月、温泉とか行きたいな」
何気なく口にした私の言葉に、拓実は迷わず頷いた。
「いいね。行こう。由香が喜ぶなら、どこでも」
嬉しかった。拓実といる時間が、私のすべてだから。
あっという間に十一月になった。
カレンダーをめくるたびに、季節が少しずつ深まっていくのを感じる。
あの日、「温泉行こう」って話したのが、なんだかずいぶん前のことのようにも思えた。
「ここ良さそうじゃない?」
スマホの画面を見せながら、拓実が言う。
紅葉が有名な山あいの温泉地。私も気になっていた場所だったから、即決だった。
「じゃあ、ここにしようか」
「ちょうど平日ならまだ空いてたし、予約は僕がやっとくよ」
いつも通りの落ち着いた笑顔でさらっと言う拓実に、私はちょっとだけ胸がときめいた。
紅葉の季節だし、混んでるかもって思っていたけれど平日を狙ったおかげで、すんなりと計画が決まったのが嬉しかった。
私たちの関係は、静かで穏やか。
特別なサプライズなんてなくても、日々の小さな出来事が、私にとっては十分すぎるほどだった。
旅行の前日、私はいつものようにバッグに荷物を詰めながら、胸の奥にふわりと浮かぶ期待を感じていた。
小さなことにワクワクして、当日が待ち遠しくなる感じ――それがたまらなく好きだった。
そして、十一月の二週目。
ふたりで有休を合わせて、予定していた温泉地へと向かった。
朝は少し冷え込んでいたけれど、澄んだ空気が心地よかった。
電車を乗り継ぎ、山を越え、さらにバスに揺られて辿り着いたその場所は、想像以上に静かで美しかった。
「うわぁ……」
思わず声が漏れた。紅葉の色づいた山々が、宿の背後に連なっている。
赤、橙、黄色――まるで絵の具で塗ったように鮮やかだった。
「写真で見るより全然いいな」
「ね。平日だから人も少なくて、ゆっくりできそう」
宿は落ち着いた和風の造りで、こぢんまりとしているけれど清潔感があり、窓からは川の流れが見えた。
館内は静かで、すれ違う人もまばらだったのが、かえって心地よかった。
荷物を置いて、ふたりでお茶を飲みながら、私はふと気づいた。
――こうして季節と一緒に、時間が流れていく。
私たちはその中で、ちゃんと“続いてる”。
夕食後、露天風呂に入り、ふたりで浴衣のまま布団の上に座り込んだ。
旅館の部屋にはやわらかな照明が灯り、窓の外からは川の音が微かに聞こえてくる。
少し開けた障子のすき間から、夜空に浮かぶまんまるの月が見えた。
雲ひとつない空。その明るさに、しばらく見とれてしまう。
「……由香。月、きれいだね」
「そうだね、十一月の月ってなんだか特別」
私たちは、そのまま黙って月を眺めていた。
言葉は少なかったけど、その静けさが嬉しかった。
手をつなぐでも、肩を寄せるでもなく、ただ隣にいるだけ。
それだけで、ちゃんと伝わるものがある――そんな気がした。
翌朝、私はぼんやりと目を覚ました。
障子の隙間から差し込む朝日が、畳の上にやわらかな筋を落としている。
隣では拓実が、静かな寝息を立てていた。
毛布の中で肩を少しだけ丸めた姿が、いつもより幼く見えて、私はそっと顔を向ける。
……なんでもない朝だけど、こうして一緒にいることが、すごく特別に思えた。
しばらく拓実の寝顔を眺めていた。
ほんのり乱れた前髪、少し開いた唇。
不意に伸ばしかけた指先で、その髪に触れそうになって、そっと手を引っ込めた。
時計を見ると、朝の六時を少し過ぎた頃。
旅館全体がまだ眠っているような静けさの中、遠くから川の音がかすかに聞こえてくる。
その音は昨夜と変わらず穏やかで、胸の奥にしみ込んでくるようだった。
やがて拓実が目を開けた。
「……おはよう、由香。もう起きてたの?」
「静かだったから、自然に目が覚めちゃった」
拓実は少し伸びをして、枕に頬を寄せながら微笑んだ。
「いい朝だね」
「なんか、全部がやさしいね」
そう言い合って、ふたりでしばらく布団の中でごろごろしていた。
忙しい平日とはまるで違う、何も急かされない時間。
こういう朝は、本当に久しぶりだった。
七時を過ぎた頃、部屋に朝食の案内が届き、私たちは浴衣のまま食事処へと向かった。
障子を開けて入った和室の食卓には、焼き魚に温かな味噌汁、卵焼き、小鉢に盛られた煮物
どれも丁寧に並べられていて、思わず小さく感嘆の声が漏れた。
「こういう朝ごはん、家じゃ絶対に食べないよね」
私が笑うと、拓実は箸を取りながらうなずいた。
「うん。毎朝これだったら、たぶん健康になる」
「でも、自分じゃ作らないでしょ」
「作ってくれるなら、ちゃんと食べるよ?」
からかうように言われて、私は少しだけ頬を膨らませた。
朝食のあとは、旅館の裏にある川沿いの小道をふたりで歩いた。
空は高く澄み、紅葉が風に揺れてひらひらと舞っている。
その景色を見ながら、私は心の中で静かに思った。
――こうして歩く時間すら、全部残しておきたい。
部屋に戻ってからはのんびりと荷物をまとめ、チェックアウトの準備をした。
時間はあっという間に過ぎて、私たちは宿をあとにする。
玄関で靴を履きながら、私はふと口にした。
「また、来たいね。次は、雪の季節とか……」
「いいね。寒いけど、雪見風呂とか最高だな。平日なら、また空いてるかもね」
拓実がそう答えて、私は小さく笑った。
――この人と、まだこれからも、いろんな景色を見ていける。
そんな未来が、当たり前のように思えた。
だからこそ、怖かった。
この幸せが、いつか壊れてしまうのではないか。
そんな不安が、胸の奥で、ひっそりと息をしていた。
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