代償
朝。
テレビから緊迫したアナウンサーの声が流れていた。
> 「昨夜未明、○○高校の男子生徒が学校の屋上から飛び降り死亡しました──」
俺は起き上がらず、枕に顔を押しつけたまま耳だけを澄ます。
> 「亡くなったのは、3年生の田中涼介さん(18)。
SNS上でいじめ加害者として名前が広まり、動画が拡散されていました──」
映った。あの映像。
田中が俊介の顔を踏みつけ、笑い、周囲がそれを見て見ぬふりをしているあの動画。
ワイドショーは繰り返し再生し、解説者が「学校の闇」とか「教育の責任」とか、上っ面の言葉を並べていた。
「あれ、俊介じゃ……?」
母が気付く
その瞬間、リビングにいた母親の手が止まった。
画面を凝視する。
──あのうつむいた顔。
──蹴られ、押さえつけられている、制服姿の少年。
「……俊介……?」
震える声でそう呟き、立ち上がった母は俊介の部屋のドアを開け放った。
「俊介……あんた……テレビの……あの子……あれ……」
俊介は顔を上げた。
目は虚ろで、感情の残滓すら見せない。
「……お母さん、知ってた? 俺が毎日、どうやって生きてたか」
「な、何言って…知らなかったのよ……でも、なんで……!」
「知らなかった……? 気づかなかった……? あんたさぁ……知らなかった、じゃねえよ。知ろうともしなかっただけだろ。
家でも学校でも、誰も俺を見てなかった」
「違う、違うのよ俊介……!」
立ち上がり、部屋の隅に目をやる。
「煩わしいな……今さら……」
「うるせぇ……もう話しかけんな……俺の世界に……土足で入ってくんな……!!」
俺は、部屋の壁にもたれかかっていた金属バットに手を伸ばした。
母が目を見開く。
「俊介……? それ、やめて……! 何してるの……っ……」
「うるせぇよ……黙れよ……」
俊介は無言でバットを振り上げた。
一撃。重く、鈍い音。
ゴン──!
母が悲鳴を上げ、壁にもたれかかるようにして倒れた。
「ごめんなさいっ……! ごめんなさい俊介っ……!」
床に手をつき、血を流しながら、母はなおも懇願してくる。
「全部、私が悪かったの……ッ……っ、気づいてあげられなくて……!」
「ごめんね……! 本当にごめんね……!」
俺の手は止まらなかった。
怒りが、煩わしさが、冷たい憎しみが、その動きを突き動かしていた。
もう一撃。
ゴシャ──ンッ……!
鉄の音と肉がぶつかる音が混じり、血がバットに跳ねる。
それでも、母は泣きながら繰り返していた。
「辛かったよね……怖かったよね……っ……ずっと……一人で……」
「ママが……ママが……守ってあげるべきだったのに……っ……!」
「愛してるよ……! 俊介……っ……愛してる、ほんとに……!」
「あなたを、守らなきゃいけなかったのに……守れなかった……ごめん、ごめん、ごめんね……!」
その声が、俊介の耳に深く深く、染み込んでいく。
殺したあとも、血に濡れた耳の奥で、母の謝罪の声が、反響していた。
母の顔は血に濡れ、腫れ上がっていた。
それでも、その目だけは──涙で潤み、本当に後悔していることが、分かった。
「俊……介……愛してる……よ……本当は……ちゃんと見て……あげれば……」
バタリ。
手が離れ、体が崩れ落ちた。
部屋に静寂が戻る。
窓の外からは、遠くで流れる朝のワイドショーの音。
俺は、呼吸を止めたまま立ち尽くしていた。
“ママが……守ってあげるべきだったのに……”
“ごめんね……”
“愛してるよ……”
その言葉が、頭の奥に焼き付いて離れない。
さっきまで煩わしいとしか思っていなかった声が、まるで亡霊のように、心の底で何度も繰り返される。
──どうして止めなかった?
──どうして、それが聞こえていたのに……?
俺は、母の亡骸を見下ろしたまま、震える唇を噛んだ。
けれど、もう遅い。
何も戻らない。
壊したものは、元には戻せない。
壊すことでしか癒せないと思っていたはずの心が、今、「痛み」を感じていた。
でも、それはもう、ただの“毒”だった。
俺を内側から、ゆっくり蝕む毒。
──静かに、静かに、彼の精神が溶けていく音が聞こえた。
暗い部屋。
死体の傍らで膝を抱えて座り込む俊介。
床には血と髪の毛と破れた服が散らばっている。
そして、部屋の片隅に、いつの間にか立っていた“あの存在”。
──レイ。
黒く、静かで、どこかあの夜の風のような存在。
俊介が初めて屋上に立ったあの日、「力が欲しいか」と囁いてきた声。
そのレイが、今は俊介を見下ろしていた。
「やったんだね。とうとう」
俊介は目を開ける。
レイの声は、いつものように穏やかで優しい。それが、逆に怖かった。
「……終わったよ。全部、俺が壊した。もう、何も残ってねぇ」
「──そう。でもね、俊介くん」
レイの瞳が細くなる。
「“壊すことでしか癒えない心”なんて、君に本当はなかった」
「……は?」
俊介が顔を上げた。
レイは一歩、俊介に近づく。
「君にあげたのは、力。欲望を実現する力。でも、それが君を癒した? 満たした? 本当に?」
俊介は答えられなかった。
レイの目が、夜よりも暗く輝いた。
「君にはもう、力は必要ない。……いや、“持つ資格”がない」
「──待て、なに言って──」
次の瞬間。
俺の身体が、びくりと震えた。
胸の奥が急に空洞になる。胃がひっくり返るような、全身の“芯”が抜き取られるような感覚。
「ぐ、あ……ああッ……!」
力が、消えていく。
燃えるように溢れていた憎しみも、怒りも、どす黒いエネルギーも──
全部、抜け落ちていく。
代わりに残ったのは、空白だった。
レイは静かに微笑む。
「もう、君は“ただの人間”に戻ったよ。壊す力も、守る力も、何もない」
俺は声にならない悲鳴を漏らした。
崩れ落ちる身体。
冷たい床。
赤黒い染みの中で、俺の目に浮かんだのは、
──母の死に顔。
──田中の落下した瞬間の影。
「やめろ……やめてくれよ……返してくれ……!俺の……力……ッ!!」
レイは一言だけ呟いた。
「……俊介くん。君は自分が“正しい”と思ってた?」
その声は、もう優しくなかった。
深海の底から響くような、冷たく硬質な音。
俺は口を開こうとしたが、喉が乾いて声にならない。
レイはゆっくりと、俊介の目の前にしゃがみこむ。
「君は“被害者”だった。でも、今は違う。君は……“加害者”になった。」
俊介の瞳が微かに揺れる。
「母を殺した。人を死に追いやった。世界を恨み、壊した。
そのすべてを“当然の報い”と信じて、満たされた気でいた」
レイは小さく笑った。
「──でも、君が壊したものの“重さ”を、君はまだ背負っていない」
俺は頭を振った。小さく、小さく、まるで震えるように。
「やめろ……やめてくれ……」
「まだ壊れてないんだよ、俊介くん」
レイが手を差し伸べる。
指が俺の額に触れた──
次の瞬間。
頭の中に、“あの音”が響き渡った。
──バットで母を殴った音。
──田中が落下する風の音、肉が潰れる音。
──母の「ごめんね、愛してる」という声。
何度も、何度も、何度も。
「やめろッ……やめろ……ッ!!!」
俺は頭を抱えて叫ぶが、音は止まらない。
鼓膜の内側で反響し、脳を焼くように繰り返される。
レイの声が混じる。
「君が背負った罪を──心で“理解”させてあげる。
これが、君に与えられた“本当の罰”だよ、俊介くん」
記憶の中の映像が再生される。
母が泣いている。田中が地面に叩きつけられる。
笑っていたのは、俺自身だった。
俺の目が狂ったように見開かれる。
「やめろ……やめてくれぇぇぇ……!!」
視界がぐにゃりと歪む。
現実と記憶の境界が崩れ、俺は今、自分がどこにいるのかもわからなかった。
血の池の中に立ち尽くすレイだけが、静かに語る。
「壊して満たされる心なんて、幻想だよ。
君が本当に壊したのは──“自分自身”だったんだよ」
そして、レイは俺の耳元で最後に囁いた。
「──最後に、ひとつだけ教えてあげよう。
“力”には、代償がつきものなんだよ。俊介くん」
もう何も応えられなかった。
顔を伏せ、血と涙と記憶の中で、ただ呆然と揺れているだけだった。
レイの声は続く。
「君が望んだ“力”。
それは確かに、君の願いを叶えた。
だけど、その“代償”は──」
「──不死だよ、俊介くん」
俺の指先がぴくりと動いた。
しかし、反応はそれだけだった。
「君はもう、死ねない。
焼かれても、刺されても、心臓を撃たれても。
死は君を迎えに来ない。
“母の声”と“血の音”を聞きながら、ずっと、生き続ける」
レイの瞳は深い闇のように冷たく、それでいて、どこか慈悲すら宿していた。
「──力は消えた。でも、代償は残る。
それが契約だよ、俊介くん」
俊介は、声にならない呻き声を漏らした。
「やめて……やめてくれ……殺してくれ……死なせてくれよ……」
レイは優しく笑い、右手の指をパチンッと鳴らした。
その瞬間、世界が──崩れた。
床が消え、壁が消え、空も、音も、色も、すべてが無くなった。
俊介は、「何もない空間」にひとりで立たされていた。
黒い虚無。光も風も、方向もない。
ただ、自分の鼓動と、記憶だけが残っている。
田中の絶叫。
母の「ごめんね」の声。
バットの重み。
レイの笑み。
そして、自分の笑い声──
「やめろ……やめてくれ……頼むよ、もう……」
俺は耳を塞いだ。
けれど、音は頭の内側から響き続けた。
「ごめんね……俊介……ごめんね……」
母の声が止まらない。
「ありがとう……ありがとう……おかげで救われたよ……」
最初は、そうだった。
けれど、次の瞬間──見知らぬSNSの声が変わる。
「え、マジで人殺したの? ドン引きなんだけど」
「いじめられてたとか言い訳でしょ。結局、こいつも加害者じゃん」
「復讐って……ただの自己満で人殺しただけじゃね?」
「かわいそうなのは、周りの人間だよ」
「正義ヅラしてただけ。気持ち悪い」
「こういう奴がまた新しい犯罪起こすんだよ」
「あの動画、今でも笑える。マジで狂ってる」
俊介は、叫び声をあげた。
引き裂かれた声。誰にも届かない。
けれど、終わらない。
──なぜなら、彼はもう『死ねない』から。
そしてレイの声が、最後に頭の中で静かに響く。
「これは罰じゃないよ、俊介くん。
君自身が望んだ“未来”の、その果てだ」
俊介は、虚無の中に崩れ落ちた。
痛みも、後悔も、涙も、
永遠に終わることはなかった。
「じゃあね、俊介くん。……次は、誰が望むのかな、“力”を」
これで迷える者達の戯れ山田俊介編は終わりです。