裁き
夜
動画を投稿してから、まだ一日も経っていない。
けれど、あいつの世界はもう崩れていた。
俺を嘲笑い、踏みにじり、黙って耐えていた心を蹂躙し続けた、田中
SNSでは炎上が広がり、報道が殺到し、学校は急遽休校。
だが、それでも──俺の中にある何かは、静かなままだった。
俺はスマホを開いた。
通知を無視し、DMも未読のまま、田中に短くメッセージを送る。
> 今日の深夜、学校の屋上に来い。
一対一で話そう。お前と俺の話だ。
そう「俺とお前の話」
もう、外野はいらない。
俺が“終わろう”としたあの日、場所はマンションの屋上だった。
寒くて、静かで、夜風が強くて、どこまでも落ちていけそうだった。
あそこが俺の終着点になるはずだった──でも、ならなかった。
だから今度は、田中をあの場所に連れていく。
……いや、厳密には違う。
あいつを連れてきたのは学校の屋上。
あの“地獄”が始まった場所の延長線上。
俺にとってはマンションの屋上が「死の舞台」だった。
なら、田中にとっては……ここがふさわしい。
深夜、学校に忍び込む。
報道の目を避け、人気の消えた裏門から侵入し、真っ暗な廊下を静かに歩いた。
屋上の扉は、昼間は閉鎖されてるが、鍵の壊れた隙間から開くことを、前から知っていた。
──風が吹く。
制服の袖が揺れる。
冷たいコンクリの床に、俺の影だけが落ちていた。
それから、時間が過ぎる。
……ギィ……
金属音が響いた。
屋上の扉が、ゆっくり開く。
田中だった。
ヨロヨロと足を引きずるようにして、影が近づいてくる。
細くなった腕。
不自然に腫れた頬。
髪はボサボサで、目の焦点は合っていない。
あいつは、俺を見て言った。
「……来たよ。お前の言う通り……来たから」
震える声。
憎しみも、威圧も、すべて削り取られたような表情。
──俺の心は、まだ冷たい。
田中は膝をついたまま、うつむいていた。
目の焦点は合っていない。
“泣く”という行為すら、もう忘れたような顔だった。
俺は静かに一歩、あいつに近づく。
「なあ田中。お前、自分のしたこと、わかってるか?」
田中はピクリと肩を震わせた。
答えない。否、答えられないのだろう。
俺は続ける。
「俺はさ、あの日の夜、屋上から飛び降りようとしたんだ。
でも死ねなかった。
怖かったからじゃない──“お前を許せなかった”からだ」
田中の呼吸が乱れる。
浅く、早く、苦しげに。
「でも今は違う。今はもう、お前が苦しむ姿を見て、少しだけ……満たされてる自分がいるんだよ。
俺、きっともう壊れてんだろうな」
それは本心だった。
けれど、ここからが本題だ。
俺はさらに一歩、田中の前に立つ。
そして、しゃがみ込み、目線を合わせた。
「なぁ田中──お前、何で生きてるの?」
「……っ」
「もう友達もいない。学校も来れない。親も、お前のこと信じられないだろう。
家の外歩けば、誰かの視線が刺さる。
バイトもできない。将来? ないよ、そんなもん」
田中の目が潤む。
震えながら首を横に振った。
「もう、終わってんだよ。
だったら──終わらせるしかないんじゃないか?それにもしお前が消えたら……父ちゃんと母ちゃん泣くかな? それともやっと“恥さらしが消えた”って笑うのかな?」
その言葉に、田中の全身が硬直した。
かつて自分が言った事が今度は言われたのだから
「楽になれるよ。
もう、誰にも責められない。誰にも見下されない。
死ねば、全部“無”になるんだ。
逃げる場所もないなら、飛べばいい」
沈黙。
長く、重い、沈黙。
屋上の風が吹いた。
冷たい空気が、田中の髪を揺らす。
遠くで車の音がするが、この屋上だけは、時間が止まったように静かだった。
田中は、俺を見た。
目に映っていたのは、“希望”ではなかった。
“決断”だった。
そして──ふらりと立ち上がる。
何も言わず、ゆっくりと、屋上の縁に向かって歩き出す。
俺は止めない。
夜風が強く吹いた。
髪が乱れ、シャツがはためく。
田中は縁に立ったまま、下を見た。
見下ろす闇の底。
街灯の明かりが点々と揺れていた。
「……なぁ、俊介」
ぽつりと呟くように、田中が言った。
「俺、ずっと、お前のこと“下”に見てた。
何をしても、何を言っても、お前は反撃してこないから。
無敵だと思ってた。……でも、違ったんだな」
静かに笑ったような声がした。
でも振り返らなかった。
「怖いよ、今。めちゃくちゃ、怖い……でも、もう終わりにしたい。
ごめん……じゃないな。ありがとう……かもしれない」
その瞬間──
一瞬、時間が止まったように感じた。
重力さえも彼を忘れたかのように、ゆっくりと──
まるで空気に溶けるみたいに。
そして、落ちた。
沈黙の中、
『ゴシャッ』という音が、夜の空気を裂いた。
乾いた音じゃなかった。
重く、鈍く、何かが壊れる確かな手応えのある音だった。
あれほど聞きたかった音。
どれだけ願っても届かなかった“終わり”の音。
あの教室で、何百回と頭の中で想像してきた音だった。
そして今──ついに、それが現実になった。
俺は、屋上の縁に立ったまま、目を閉じた。
胸の奥に、ひとつの“熱”が灯った気がした。
苦しみでもなく、怒りでもない。
ましてや悲しみでもない。
それは──静かな満足感だった。
ようやく終わった。
俺の復讐は、これで完了したんだ。
誰も助けてくれなかった。
誰も気づいてくれなかった。
地獄の中で、ただひとり黙って耐えていたあの日々。
その報いを、俺は自分の手で“与えた”。
正義ではない。
償いでもない。
裁きだ。
それを果たしたのは、俺だ。
他でもない、俊介という“道具にされた人間”が、全てを終わらせた。
その瞬間、俺の心は“満たされた”。
空っぽだった器に、ようやく何かが注がれたような感覚。
胃の奥が温かくなり、肩が自然と落ちた。
風が吹いても寒さを感じない。
なぜなら──もう、俺は“生き返った”気がしたから。
屋上のコンクリートに座り込み、空を仰いだ。
星が綺麗だった。
あの時と同じ、深夜の空。
でも──あの時とは違う。
今の俺は、ただの“犠牲者”じゃない。
俺は、俺を壊した奴を“壊した人間”だ。
「……ありがとう、田中。お前が壊れてくれて、ようやく俺は人間に戻れたよ」
空に語りかけた言葉は、風に流されていった。
田中が死んだ。
それは事実であり、結果であり、俺の“選択”だった。
あの音──「ゴシャッ」。
それは確かに俺の奥底に届いた。
満たされた感覚。
凍てついた心に、ぬるい液体が流れ込んでくるような安堵。
……でも、それは一瞬だった。
深く呼吸をする。
肺に入る空気が、なぜか重い。
手を見た。震えていない。冷たくもない。
でも、何かがおかしいと、体が告げていた。
胸の奥に空いた穴──
それは、満たされたはずなのに、なぜかまた、口を開いていた。
俺は気づいた。
田中が死んでも、消えないものがある。
──教室での視線。
──嘲笑。
──踏まれた顔。
──“助けなかった”あのクラス全体の沈黙。
──教師の無関心。
──親の無理解。
──何より、自分が黙っていた時間の“重さ”。
田中を壊したことで、俺は一時的に救われた。
けれど──それはまるで、深い傷をカッターで削り取るような行為だった。
一つの傷口に泥を塗って、見えなくしただけだ。
痛みは、そこに残っていた。
俺は……もう、壊すことでしか自分を癒せない。
そういう“人間”になってしまったんだ。
静かに立ち上がる。
田中の靴が風で倒れ、カタリと鳴った。
その音が、まるで俺に言っている気がした。
「次は、誰を壊す?」
俺は黙ったまま、屋上の扉へと歩き出す。
もう、あの日の俺には戻れない。
いじめられていた少年は、きっと、あの屋上で死んでいた。
今ここにいるのは──
痛みを壊して埋めようとする、“壊れた存在”だけだ。
その夜、月は美しく輝いていた。
まるで、何も知らないかのように。
学校の屋上からの帰り道、俊介は人気のない裏通りを使い、誰にも見つからぬよう家に戻った。
着替えもせず、靴も脱がず、ただ静かにベッドへ倒れこむ。
瞼を閉じる。何も考えない。考えたら壊れるから。
ほんの一瞬、夢も見ずに眠った。