迷える者達の戯れ
──静寂の図書室。
すべての物語が閉じられ、ページは沈黙している。
けれど、一冊の本だけが──まだ、語る余白を残していた。
黒いドレスを纏った女が、ゆっくりとページをなぞる。
長い金髪が淡く揺れ、左右異なる瞳が物語の終わりを見届けていた。
「……終わったわね。これで、すべての“戯れ”が」
なる
彼女は小さく微笑み、語りかけるようにページの向こうへと目を向けた。
「これはね、ひとつの“物語”だったの。
いいえ、物語というより、“創作”かしら。
たとえば──小説家が心の奥にしまい込んだ傷や願いを、文字に変えて紡いだようなもの」
彼女は本を閉じ、机に積まれた数冊の書に手を伸ばす。
「俊介は怒りを綴り、良太は罪を綴った。
由香は喪失を綴り、真一は優しさを綴った。
彼らの物語は、それぞれが“ひとつの嘘”を信じることでしか進まなかった。
そしてその嘘は──誰かに与えられたものではなく、自分自身が創り出したものだった」
その瞳が、遠い記憶を見るように細められる。
「壊したかった。赦されたかった。忘れたかった。
……そうね、それはきっと、“生きたかった”という願いの裏返しだったのでしょう。
でも現実では、どうしても届かない。だから彼らは、物語を必要とした」
彼女はページの縁を指でなぞり、ぽつりと呟く。
「だからこそ“舞台”を創り、“力”を与え、“代償”という縛りを課した。
誰も責めない代わりに、誰も救われない場所。
すべてが“設定”の上で成り立ち、壊れることさえ計算された劇場──それが“戯れ”」
静かに机の上に手を置き、続ける。
「そう、“迷える者達の戯れ”。
この物語の名は、そのまま“創作者たち”への皮肉でもあり、祈りでもあるの。
名前も持たず、道もなく、ただ感情だけが残された人々が──
自分という存在を肯定するために、痛みを物語に投影し続けた結果」
「……彼らは、創り手だったのよ。
舞台を望み、役を演じ、結末さえ自ら選んだ。
私がそれに“力”を与えたように見えて、実際には……私は、ただ見届けていただけ」
彼女は静かに立ち上がり、まっすぐこちらを振り返る。
「ねぇ、あなたも……もう気づいているのでしょう?
この“戯れ”は、フィクションなんかじゃない。
本当はあなたの中にも、同じように“語られなかった物語”があるってことに」
その声は、どこか哀しく、けれど確かにあたたかかった。
「忘れられた誰かを責めたかった夜。
何もできなかった自分を殺したかった朝。
助けられなかった後悔。傷つけた罪。
──それらを“創作”という名の劇場に閉じ込めて、あなたもまた、ここにいたのよ」
彼女の瞳が、まっすぐに“私”を見つめる。
「だから、言うわ。“迷える者”という言葉に、恥じることはない。
誰もが皆、どこかで迷っていて、誰かを演じて生きている。
そしてその“演じている自分”を、物語にしたくなるのは──当たり前のことよ」
ドレスの裾がふわりと揺れる。
静寂の中、まるでこの世界に風が吹いたようだった。
「……さあ、物語は閉じられた。
でも終わったわけじゃない。
“迷える者達の戯れ”は、永遠に終わらないの。
なぜなら人が迷い続ける限り、物語は生まれ続けるから」
ゆっくりと、彼女は最後の言葉を紡ぐ。
「今度は、あなたが“戯れ”を綴る番よ。
どんなに苦しくても、どんなに哀しくても、
その手で、“あなた自身”の物語を書いてごらんなさい」
月光が彼女の髪を照らし、瞳の中の宝石が光を返す。
「……そのとき、また会いましょう。
あなたが迷ったとき、願ったとき、嘘を望んだとき。
私はきっとそこにいるから」
ページが閉じられる。
静かに、本の蓋が下ろされる。
──彼女が消えたあと。
図書室に再び、静けさが戻る。
風も、声も、すべてが止まり、まるで時間さえ本の隙間に沈み込んだかのようだった。
けれど、そこにひとつだけ──残されたものがある。
机の上に置かれた、一冊の本。
黒い表紙。タイトルはない。けれど、そこには確かに、無数の“物語”が詰まっていた。
傷、怒り、渇望、赦し。
あらゆる感情が綴られた、どこにも存在しないはずの書物。
カタン──。
扉が、開く音がした。
その音に、誰もいないはずの部屋が、わずかに呼吸を取り戻す。
足音。
静かに、けれど確かに誰かがこの部屋に入ってきた。
誰かのシルエットが、ページの前に立つ。
その手が、そっと黒い表紙に触れる。
ページをめくるたびに、空気が震えた。
次の一文を──まだ書かれていない一行を、その者は読み取ろうとしている。
だが、そこに言葉はなかった。
あるのは“余白”。
まだ語られていない、新たな物語のために残された白い空間。
誰かはそれを見つめたまま、ゆっくりとペンを取り上げた。
──カリ。
ペン先が紙に触れた音が、世界に新たな鼓動を与えた。
「……迷ったんだ。今も、きっとこれからも。
だけど……書かずにはいられないんだ」
小さな呟きが、静寂を破る。
その声は、幼さを残しながらも、どこか決意を孕んでいた。
白紙のページに、ひとつ目の言葉が刻まれる。
> 私はまだ、自分の物語を知らない。
でも、それを探すためにこの“戯れ”に足を踏み入れる。
──そして、ペンが動き出す。
この瞬間、“迷える者達の戯れ”は再び幕を開ける。
だれかのために。
じぶんのために。
過去の痛みを、未来へ綴るために。
その姿を、もう彼女は見ていない。
けれど、どこかできっと──彼女は静かに笑っている。
「ようこそ、“創り手”の世界へ」
──物語は幕を閉じた。
だがそれは、終わりではない。
“迷える者達の戯れ”は、
次なる創り手の心の中で、いまも──始まり続けている。
──そして、新たな戯れが始まった。
【完】




