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記憶

レイは一歩、こちらへと足を踏み出した。


止まった世界の中、彼女の髪とドレスだけが、どこか夢のように揺れている。


「あなたは……記憶を取り戻したいのでしょう?」


その声はやさしく、だが芯に何かを孕んでいた。


俺は答えられなかった。


地面に倒れたまま、痛みも血の流れも凍ったように感じないまま、ただ、彼女を見つめていた。


「わけも分からず、こんなふうに殺されかけるなんて──納得できないわよね」


レイの目が、まるで全部を知っているかのように俺を見下ろす。


「……ああ。わからないまま死ぬなんて……そんなの、いやだ」


自分の声が震えていた。だが、嘘ではなかった。


「知りたい。なぜあの女医が俺を狙ったのか。なぜ俺が……」


「ええ。知る権利はある。あなたは、もう十分すぎるほど、それに耐えてきた」


そして、レイは微笑んだ。


「いいわ。なら、思い出させてあげる。すべてを──」


その言葉とともに、凍った時間がさらに深く沈む。


意識が闇に引き込まれていく。


──そして、記憶が、流れ込んできた。



あの女医──「唐沢からさわ 知世ともよ」。



それは数か月前のこと。


人気俳優・成瀬翔太の不倫スキャンダルを追っていた俺は、翔太の相手を突き止めた。


それが、唐沢知世──独身で、都内の大病院に勤務する女医だった。


「誰にも言えない診察室──俳優・成瀬翔太の夜」と題して──。その内容を記事にした。


話題性は十分だった。


記事は週刊報道ライフのトップに掲載され、ネットでも大きな反響を呼びテレビにも取り上げられ編集長も満足げだった


けれど──その数日後。


編集長からのメール。


「翔太が……自殺したらしいぞ」


文字を見ても、最初は信じられなかった。


俺の記事が、引き金だったのか──?


(まさか……そんなわけがない……)


意識が戻ると、レイは相変わらず俺のそばに立っていた。


時間は、まだ止まっている。



「……思い出した、のね?」


俺はゆっくりと頷いた。


「復讐のつもり、でしょうね」


レイの声は静かだったが、その言葉の奥には、確かな確信があった。


「……復讐……」


俺は呟いた。 唐沢知世──あの女医の名前が、記憶の中で確かな輪郭を持ち始める。


「あいつは、俺の記事のせいで翔太が死んだと思ってる」


「ええ。彼女にとって、あなたは“殺した”のよ。言葉と事実で、彼を追い詰めた張本人」


レイの目は真っ直ぐだった。 一切の感情を排除しながらも、そこには“真実”だけが宿っている。


「でも……」


言いかけて、俺は言葉を詰まらせた。


メールが来た日俺は外に出た。息が詰まるような空気だった。 そして、ふらふらと歩き出し……

赤信号を見逃し、黒いトラックが目の前に迫って──


あの事故は、現実から目を逸らした俺自身の“罰”だった。


それでも、当時の俺は、こうも思っていた。


(記事にしたからって、死ぬ方が悪い)


そう、どこか冷めた視点で、自分を正当化していた。


「それでも、本当は……」


苦しげに漏れる言葉に、レイは小さく首を傾けた。


「あなたは、知ってしまった。現実に“死”が起きた時、言葉では覆いきれない“痛み”があることを」


「……わかってたら……」


俺は、震える拳を握りしめる。


「わかってたら……あんな記事、書かなかったかもしれない……!」


「いいえ」


レイは、静かに断言した。


「当時のあなたは、“書いた”。そして“結果には責任はない”と、そう思っていた。人の弱さや愚かさを、“記事”という名で世に晒すことに、躊躇いがなかった」


レイの言葉が、鋭く心に刺さる。


「けれど今のあなたは、“傷ついた側”の痛みを知ってしまった。だからこそ、ここにいる」


「……唐沢は……俺を殺そうとしている……」


「彼女は、愛していたのよ。歪んでいても、執着でも。それが彼を失った喪失と怒りに姿を変えた。彼女は、あなたを罰したいだけじゃない。“記憶のままのあなた”を消したかったの」


レイの瞳は、少しだけ哀しげだった。


「“過去を思い出さないあなた”なら、罪のないただの被害者。でも、記憶を戻せば、彼女の“仇”となる」


俺は何も言えず、ただ空を仰いだ。


空は灰色。鈍く、沈んでいる。


唐沢の気持ちは理解できない。けれど── あのとき、俺が記事にした一つの“真実”が、人の命を奪ったのは事実だった。


「……俺は……」


喉が渇いていた。けれど、言葉は続いた。


「償うべきなんだろうか」


「それを決めるのは、あなた。償うも、逃げるも、戦うも──記憶を取り戻した今なら、選べる」


そう言って、レイは微笑んだ。


「さあ、良太。あなたは、どうする?」


俺はしばらく黙っていた。

頭の中では、記憶と現実と恐怖が渦巻いていた。


償うことも、戦うことも──怖かった。

過去を思い出したことで、俺はもう、自分が何者だったのかを知ってしまった。


誰かの人生を壊し、

誰かの命を奪い、

その結果からも目を背けてきた。


(そんな俺が、何を償える……?)


「……俺は……」


言いかけて、唇を噛む。


レイは、微動だにせずこちらを見つめていた。

まるで、最初から俺の答えを知っていたかのように。


「……逃げたい」


そう口にした瞬間、胸の奥に何かがきしんだ。


「真実も、責任も、戦うことも、耐えられそうにない。……俺は、ただの人間だ。もう、これ以上……無理なんだよ……」


レイはゆっくりと瞬きをした。

風が止んでいる。世界はまだ凍りついたまま。


やがて、彼女は静かに言った。


「──そう。なら、“逃げる”という選択を、受け入れましょう」


その言葉とともに、時間が──世界が、動き出した。


空気が震え、止まっていた風が首筋をなでた。


遠くで、鳥の声が聞こえる。


血の匂いが戻る。


「……ただし」


レイは、背を向けかけたその瞬間、言葉を残した。


「記憶を取り戻した“あなた”が選んだ結末は、すべて“死”へと至る」


俺の心臓が、一瞬だけ跳ねた。


「……なんだって……?」


「逃げようとしたあなたも、戦おうとしたあなたも、償おうとしたあなたも──どの道も、最後は同じ場所にたどり着く」


レイは微笑んでいた。


やさしく、哀しげに。

まるで、それが“祝福”でもあるかのように。


「ただ……どう死ぬかを選ぶことはできた」


俺は立ち上がろうとした。

だが、その前に──胸に、鋭い痛みが走った。


見下ろせば、唐沢知世のナイフが、深く突き刺さっていた。


彼女の目が、俺を見ていた。

泣いているわけでもない。怒っているわけでもない。


ただ、そこにあったのは──虚無。


「ごめんなさいね……でも……あなたが、あの人を“殺した”の」


再び、刃が振り下ろされた。

視界が赤く染まる。


耳鳴りの奥で、レイの声が静かに響く。


「これが、“あなた”という存在が選んだ結末」


「責任を知らなかったあなたは、もういない。

記憶を取り戻したあなたは──逃げることを選んだ。

そして、“現実”は、それを許さなかった」


倒れた俺の体に、冷たいアスファルトの感触が広がっていく。

血が滲む音さえ、遠く感じた。


空は、どこまでも灰色だった。

重く、低く、世界ごと潰れていくような空だった。


「……これでいいのか……俺は……」


呟いたその声も、もう誰にも届かない。


やがて、瞳に映る世界が、音も色も輪郭も──すべて、静かに消えていった。


 


──その選択の名は、「逃避」。

そして、その結末は「死」だった。


血の海に沈む良太の体から、ゆっくりと命の熱が消えていく。


レイはその傍に、静かに立っていた。

風が、再び止んでいた。


空は、今にも泣き出しそうな灰色。

街の喧騒も、世界のざわめきも、この一角だけは別世界のように沈黙していた。


彼女は一歩、良太の傍へと近づき、膝を折った。


その顔に宿っていたのは、慈しみとも、冷笑とも取れる微笑みだった。


やがて、そっと目を閉じた良太の髪に指を滑らせるように触れ、

低く、けれど確かに、こう囁いた。


 


「──人はね、“知らないまま”の方が幸せなこともあるのよ。

でもあなたは、“知る”ことを選んだ。

ならば、その重さから逃れることはできないわ」


 


レイは立ち上がる。


黒いドレスの裾が静かに揺れ、白い羽が無音の風に舞う。


その背に差す光も影も、誰にも届かない場所で。


レイはゆっくりと歩き出す。

灰色の世界に、ひとひらの沈黙を残して──

音もなく、その姿を霞ませていった。


 終


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