曇天
曇天。
空は重たく、湿った空気が肌にまとわりついた
どこか嫌な予感を孕んでいるようだった。
鍵をかけ、バッグを肩にかけて階段を下りる。
ポストの前を通り過ぎる時、一瞬、視線を感じた気がしたが──気のせいかもしれない。
今日の目的地は、手帳に記されていた「K.T」の住所。
“303号室”という文字とともに、時間だけが書かれていた。
連絡手段はない。だが行くしかなかった。
電車に揺られながら、ぼんやりと窓の外を眺める。
このまま、何もかも忘れたままでいられたら──
ふと、そんな考えがよぎったが、すぐに頭を振ってかき消した。
約束の時間が迫ってきたころ、目的の駅に到着した。
改札を抜け、地図も見ずに足を進める。
手帳の走り書きとビルの看板を照らし合わせながら、ようやく古びた雑居ビルにたどり着いた。
「△△ビル」──エレベーターはなく、階段を使うしかない。
重い足を引きずりながら、一段ずつ昇っていく。
その途中だった。
背後から、コツン……と、硬いヒールの音がした。
誰かが階段を上がってきている。
嫌な気配が、首筋を這い上がってきた。
反射的に振り返った、その刹那──
「動かないで」
女の声だった。
静かで、低く、抑えた声。それなのに、氷のような鋭さがあった。
何が起きたのかわからない。
背中に何かを押し当てられたような感触と、壁に叩きつけられるような衝撃が走った。
「知ろうとしない方がいい。あなたは、忘れていた方が幸せだったのよ」
至近距離から囁かれる声。
女の顔はフードの陰に隠れて見えなかった。
「これ以上、踏み込まないことね……“良太さん”」
俺の名を知っている──。
だが、声も顔も思い出せない。
何かを言おうとしたときには、すでにその女の姿は階段の下に消えていた。
残されたのは、鈍く疼く肩の痛みと、背中を冷たい汗が流れる感覚だけだった。
胸がざわついていた。
言葉にできない恐怖と、確かな確信が入り混じる。
――誰かが、俺の行動を監視している。
それでも俺は、階段を昇った。
このまま引き返すわけにはいかなかった。
そして、303号室の前に立つ。
インターホンは沈黙している。
何度ノックしても、応答はなかった。
「……いないのか……?」
壁に手をついて、深く息をつく。
階段での出来事のせいで、鼓動は未だに乱れていた。
女の声と、背中に感じたあの感触が、頭の中にこびりついて離れない。
(“良太さん”って……どういう意味だ)
誰だったのか。
なぜ、俺の名前を知っている?
なぜ「忘れていた方が幸せ」なんて言った?
考えても、答えは出なかった。
記憶のない俺には、過去に何をしていたのかすらわからない。
だが確かに、俺の行動は“何か”に触れようとしている。
そして、それを邪魔したい者がいる。
その現実だけが、静かに俺の中に残った。
(やっぱり……あれは偶然じゃない)
ポケットの中に入っていたUSB。
誰かが俺に、それを届けた。
いや、“押しつけた”。
そして今朝、襲われた。
俺は、知らないうちに何かの中心に立っている。
記憶を失う前の俺が、きっと手を伸ばしてしまった何かに。
沈黙の303号室をもう一度見つめたあと、俺は引き返すことにした。
ただ待っていても、何も起きない。
階段を下りながら、ふと背後を振り返る。
……誰もいない。だが、視線だけは、肌に焼きついていた。
外に出ると、空はさらに曇っていた。
ざらりとした風がビルの隙間をすり抜け、首筋に冷たくまとわりつく。
帰り道、重い足を引きずるようにして、駅から少し外れた小さな公園に立ち寄った。
夕方が近づくにつれ、人影はなく、滑り台もブランコも、錆びついたまま沈黙している。
曇天の空の下、まるで時間そのものが止まったような空間だった。
ベンチには座らず、ただ、うつむきながら立ち尽くしていた。
そのときだった。背後から、かすかな足音が近づいてくる。
――コツ……コツ……。
さっきの階段で聞いた、あの音と同じ。
背中に冷たい汗が流れる。
振り向くより先に、声が落ちた。
「やっぱり……来ると思ったわ」
女の声。静かで抑揚のない、なのにどこか芯に冷たさを宿した声。
ゆっくりと振り返ると、フードを目深にかぶった女が立っていた。
手には、鈍く光るナイフが握られている。
「お前……誰なんだ……!」
声は震えた。怒りでも恐怖でもなく、ただ、答えが欲しかった。
だが女は何も言わず、ふっとフードを下ろした。
見覚えのある顔だった。
あの日、退院前に声をかけてきたあの女医。
やさしい微笑みと穏やかな口調で「無理せずに」と言っていた、あの人。
その人が、今、無言のままナイフを構えている。
「……なんで……っ」
言葉の途中で、鋭い痛みが腹部を走った。
一度。二度。三度。刺された。意味も理由も告げられないまま。
「やめろ……っ……やめ……っ」
声にならない叫びと共に、視界が歪む。
倒れ込んだ俺の体に、さらに容赦なく刃が突き立てられる。
「知ってはいけないものを、あなたは掘り返そうとしてるの」
女医の目は、冷たいままだった。
感情があるようで、何かが壊れている目。
(なんで……)
意識が遠ざかっていく。
世界の色がぼやけ、音が遠のき、最後に見たのは女医の唇が何かを動かす様だった。
だがそのとき。
突然、すべての音が止まった。
ナイフも、血も、痛みさえも、全てが静止した。
空気の振動が消え、世界が灰色に凍りついたようだった。
風も、空の雲も、すべてが一枚の絵のように止まっている。
「……痛いでしょう?」
聞いたことのない声が、背後から落ちてきた。
女の声。それなのに、どこか異質で、透き通るような響き。
振り返ると、白い羽のような装飾を肩にまとった黒いドレスの女が、静かにこちらを見ていた。
金色の長い髪、右が青、左が黄の宝石のような瞳――
非現実的な美しさ。その存在そのものが、常識から逸脱していた。
「……誰だ……?」
すると彼女は、静かに微笑んだ。
「私はレイ、あなたの“選択”を見届ける者よ」
作品を読んでいただきありがとうございます。
評価、レビュー、アドバイスをいただけたら
励みになるのでよろしくお願いします。
https://x.com/Key__1210
Xにて最新話投稿のお知らせをしていますので
フォローして頂くとすぐに読めます。




