USB
帰り道、曇った空の下、俺はまっすぐ家へと歩いていた。
少し風が出ていて、駅前の街路樹が揺れていた。
どこかで見たことがあるような景色だが、はっきりと思い出すことはできない。
ただ、肌が覚えているような妙な感覚だけが残っていた。
部屋に戻ると、俺は無言のまま机に向かい、また書類の山を漁り始めた。
手がかりは少ない。けれど、あきらめる理由もない。
資料の束は相変わらず雑然としていて、雑誌名や日付のないコピー、
断片的なメモ、誰かの証言のような文章が混ざっていた。
──内容は、誰かの浮気、不倫、家庭崩壊、企業内部の暴露……
どれも、他人の秘密を暴くような記事ばかりだった。
そのどれかに、自分の過去の一部があるはずなのに、
ページをめくっても、胸の奥には何の反応も起きない。
“本当に、俺がこんなものを書いていたのか……?”
不意に、ポストの投入口の音がした。
確認に行くと、無記名の白い封筒が一通、無造作に差し込まれていた。
差出人なし。宛名も印刷されただけのもの。
中には、一枚の紙──雑誌から切り取ったような記事の一部が入っていた。
タイトルは、
「倫理なき告白──あの夜、彼女は何を語ったか」
記事の内容は、ある女の証言を元にしたものだった。
愛人関係、隠された密会、崩壊する家庭──
現実味があるのに、妙に作られた匂いのする内容だった。
その端に、赤いペンで乱雑にこう書かれていた。
「楽しい? それとも、まだ足りない?」
胸がざわついた。
何かが、俺に向けられている気がしてならなかった。
だが、その“誰か”が誰なのか、見当もつかない。
そして、そうした出来事は、それで終わりではなかった。
次の日、夜道を歩いていると、何度も背後に視線を感じた。
足音。振り返れば誰もいない。
だが確かに、誰かが俺を見ている気配があった。
その翌朝、またポストに白い封筒。
中は空だった。ただの紙切れ一枚さえ入っていない。
意味はわからない。
ただ、これは偶然ではない。
記憶を取り戻そうと動き出してから、何かが“起こり始めた”のだ。
まるで、過去に触れようとするたび、それを阻むような影が近づいてくる。
「……誰なんだ……何があったんだ、俺に……」
声に出しても、部屋の壁は何も答えなかった。
俺はまた机に戻り、手帳を手に取った。
次の日の予定欄には、見覚えのない文字でこう書かれていた。
――「○○駅前 19:30」
なぜそこに行こうとしていたのかはわからない。
だが、今はそれだけが“次の手がかり”だった。
翌日
○○駅前の広場は、夕方を過ぎても人の流れが途切れることはなかった。
会社帰りのスーツ姿、友人同士で笑い合う学生、スマホを見ながら歩く若者たち。
誰もがそれぞれの目的地へと急ぐ中、俺は一人、立ったまま人波を見つめていた。
手帳に書かれていた「○○駅前 19:30」というメモ。
それが何を意味するのかもわからないまま、ただ時間だけを信じてここに来た。
ポケットに突っ込んだ手が、じんわりと汗ばんでいく。
待ち合わせなのか、それともただの予定だったのか――。
そもそも、この広場のどこで、誰と会うつもりだったのかさえ分からない。
それでも、何かが起きると信じたかった。
何か、記憶へと繋がる手がかりが現れると。
しかし──時計の針が19時30分を過ぎても、誰も俺に声をかける者はいなかった。
目の前を通り過ぎる顔も、そのどれもが見知らぬものだった。
──そして。
「……あっ、ごめんなさい!」
突然、誰かが強く肩にぶつかってきた。
反射的に身を引くと、ぶつかった人物は軽く頭を下げて、そのまま人混みに紛れていった。
顔は見えなかった。
ぶつかる瞬間のわずかなぬくもりだけが、妙に鮮明に残っていた。
「……なんだよ」
小さく呟きながら、もう一度腕時計を見る。
時間は、完全に過ぎていた。
誰も来ない。
それが答えだった。
諦めて帰ろうとしたそのとき──
ふとポケットに違和感を覚えた。
何か、固いものが押し込まれている。
「……」
ゆっくりと取り出すと、それは黒いUSBメモリだった。
無機質で、どこか古びた質感。側面には油性ペンで、白い文字が殴り書きされている。
《開くな》
たったそれだけ。
それを入れたのは──さっきの誰か。
ゾクリと、背筋を冷たいものが這い上がった。
ポストに届いた差出人不明の封筒。
編集部での不可解な空気。
そして今、このUSB。
偶然とは思えない。
「……何が起きてる……?」
不安、焦燥、疑念。
それらが混じり合い、胸の奥でざわめいていた。
USBを再びポケットに押し込み、人波の中へと歩き出す。
夜の街はいつもと変わらぬ喧騒をまとっているのに、まるで自分だけが、異質なものに取り囲まれている気がした。
自宅に戻ったのは、21時を回った頃だった。
エレベーターの中、ポケットに入れたUSBの存在がじわじわと圧をかけてくる。
誰かに押し込まれたそれが、俺のポケットに今も潜んでいる。
開くな、と書かれたラベルが頭にこびりついて離れない。
玄関を開けて部屋に入る。電気をつけた瞬間、無人の部屋がいつもより冷たく感じられた。
ソファに腰を下ろし、USBを机に置いた。
小さな黒い物体は、どこか不穏で、妙に存在感があった。
翌朝、目が覚めると、外は灰色の空だった。
湿った風が窓の隙間から流れ込み、じっとりと肌をなぞる。
俺は手帳を開いた。
昨日の一件を整理するように、何度も同じページを読み返す。
――「高橋佳奈 週刊報道ライフ火曜打ち合わせ」
――「○○駅前 19:30」
――「K.T △△ビル 303」
この「K.T」という人物が誰なのか、まったく記憶にない。
連絡先も書かれていない。だが、「△△ビル 303」という部屋番号まである。
予定として書かれている以上、かつての俺はそこへ行くつもりだった。
なら、今の俺がそれをなぞるのも、不自然ではないだろう。
昨日のUSBといい、この「K.T」という存在といい、すべてが過去へと続いている。
だがそれが、真実なのか、罠なのかはわからない。
それでも、行くしかない。
何もしなければ、何も変わらない。
俺は立ち上がり、バッグに手帳と水のペットボトルを入れた。
USBは、机の上に残したままにしておく。今はまだ、触れるべきじゃない。
玄関のドアノブを握った時、一瞬、何かの気配を感じて振り返った。
だが、部屋の中はいつも通りの沈黙に包まれていた。
「気のせいか……」
そう呟いて、俺は玄関を開けた。
今日は、△△ビル303号室の「K.T」に会いに行く。
過去の俺が記したその予定が、今の俺をどこへ導くのか──まだ、知る術はなかった。




