封筒
佳奈に案内されて編集部の奥にある一室の前で足を止めた。
「……編集長の部屋。話してみて。あたしは外で待ってる」
そう言って彼女は無言で背を向ける。
俺は一度深呼吸し、軽くノックをした。
「……入れ」
低く掠れた声が返ってくる。ドアを開けると、古びた部屋に紙と資料が積まれていた。中にいた男──年配で無精髭を生やした男が、椅子に深く沈みながら俺を見た。
「……良太、か」
「はい。……俺のこと、知ってますか?」
男はわずかに頷いたが、それ以上は言葉を続けなかった。
「俺は……ここで働いていたんですか?」
「そうだ。フリーとしてうちと関わっていた」
「あの……俺が書いてた記事のこと、覚えてますか?」
そう尋ねると、編集長は煙草の箱を指先で転がしながら、ゆっくりと視線を外した。
「……そうか。何も覚えてないんだったな」
「はい。だから……自分が何を書いていたのか、何をしていたのか、知りたいんです」
編集長はしばらく黙っていた。
だが──そのまま何も答えなかった。
記事の内容についても、それにまつわる過去についても、言及しようとはしなかった。
まるでその問いそのものが存在しなかったかのように、編集長は無言のまま煙草に火をつける。
「……」
部屋には煙の匂いだけが漂い、俺の問いは空気の中に溶けていった。
「……何か、資料とか、残ってませんか? 俺のデスクとか……」
ようやく発した言葉に、編集長は立ち上がり、部屋の隅のキャビネットを開ける。
黙ったまま、古い茶封筒を一つ取り出して、俺の前に置いた。
「ここにある」
それだけを言って、再び椅子に腰を下ろした。
中身を見ようとしたが、手が止まった。
封筒には「私物・整理済」と書かれている。
「これ……見ても?」
「ああ。持っていけ」
編集長はそれだけを言うと、もうこちらを見ようともしなかった。
何かを知っているはずだという確信が胸の奥で強くなる。
だが、彼は何一つ語らない。
──知らないフリをしているのか、それとも、語らないと決めているのか。
「……ありがとうございました」
封筒を抱えたまま、俺は頭を下げて部屋を出た。
ドアを閉める直前、微かに聞こえたのは──編集長の、低いため息だった。
編集長室を出ると、佳奈が廊下の隅に立っていた。
俺が手にした封筒に視線を落とし、すぐに目を逸らす。
「……何か、言われた?」
「……特には。これを渡されたくらいだ」
俺は封筒を軽く持ち上げて見せた。
佳奈は小さく頷き、ため息をひとつ吐いた。
「外、出ましょうここ、息が詰まるでしょ」
その言葉に従い、俺たちは編集部のビルを出て、近くの小さな公園のベンチに腰を下ろした。
平日の午後、人通りはまばらで、セミの声だけが耳に残る。
封筒を開けると、中には数枚の資料と、記事の下書きらしきものが入っていた。
その一つを手に取り、目を走らせる。
──『人気キャスター・堂本沙織、不倫疑惑の証拠写真』
──『大手企業の若手社長、秘書との愛人関係を認める』
見覚えのない名前、見覚えのない文字。
だが、紙に綴られた文章の運び方や構成に、どこか“自分が書いたものだ”という奇妙な納得感があった。
「……これ、俺が書いたのか?」
「そう。あなたは……こういう記事ばかり書いてた」
佳奈の声は、どこか突き放したようだった。
俺は別の紙を手に取る。そこには“自殺者1名”と走り書きがあった。
「……まさか、これが原因で?」
「わからない。でも、そう言われたことはある」
言葉が詰まる。
暴いた真実が、誰かの人生を終わらせた──そんな現実を、知らずに積み上げてきたのか。
「……俺、最低なことしてたのか?」
「……最低、ってのが何を指すかは人それぞれ。でも──少なくとも、“真実”ではあったよ」
「それが、慰めになるのか?」
「ならない。でも、逃げ口にはなる」
彼女の目は、真っ直ぐだった。
「……なあ、佳奈。あんたは、なんでそんな俺に関わってたんだ?」
少し間が空いて、佳奈はぽつりと答えた。
「さあ……なんでだろうね。ただ──嘘を嫌って、本音で書く人間だったからかも」
俺は再び封筒の中を覗いた。
過去に書いた記事の断片が詰まっている。
それは名誉ではなく、人を傷つけた“武器”の記録だった。
「……今でも、これを書けって言われたら、書くと思うか? 俺が」
「……わかんない。記憶のない
“今のあなた”は、優しい人に見えるよ。でも──昔のあんたなら、迷わず書いてたと思う」
その言葉が胸に刺さった。
たとえ記憶を失っても、過去の“俺”は確かにここに存在していた。
誰かの秘密を暴き、人生を壊す代わりに、真実を世に出すことを選んだ人間。
……それが、俺の正体だったのか。
俺は空を見上げた。曇り空の向こうに、かすかに光が差していた。
「……まだ全部は、思い出せそうにない。でも──少しずつ、向き合ってみるよ」
「うん。それでいいと思う」
佳奈はそう言って、立ち上がった。
「それじゃ、私は仕事に戻るね。また来ればいい。……覚えてなくても、あなたの席は残ってるから」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
俺は頷きながら、再び手元の資料を見下ろした。
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