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火曜日

退院して数日が過ぎた。


俺は、まだ自分が何者なのかを知らないままだった。


部屋の片隅にあった携帯電話は、事故のせいで完全に沈黙していた。


ひび割れた画面は暗く、何度ボタンを押しても反応はない。


壊れたそれを手に取るたび、まるで断絶された過去を象徴しているように感じられた。


自宅に置かれていたノートパソコンにも期待をかけた。


電源を入れ、ゆっくりと立ち上がる画面に希望を抱いた。


だが、それも長くは続かなかった。


「パスワードを入力してください」


そこには冷たい文字列だけが浮かんでいた。

手は自然にキーボードへ伸びた。なにか、指が覚えていないかと願った。


誕生日か? 名前か? 思いつく限りを入力してみる。


……何度やってもエラー音が響くだけだった。


「くそ……」


吐き出した声は、部屋の中で乾いた空気に吸い込まれていった。


過去へと繋がるはずの道具たちは、すべて沈黙していた。


扉の鍵は、どこにも見つからなかった。



静かな部屋。


時計の針だけが、カチ、カチ、と機械的に刻みを続けている。

俺はベッドに腰を下ろし、天井を見上げた。


空っぽの心と、塞がれた過去。


まるで、自分という存在がこの世界に浮いているようだった。


テレビのスイッチを入れると、朝の情報番組が流れていた。


どこか作られたような笑顔、明るい声、流れてくる天気予報。


そして、突然画面が切り替わった。


「速報です。人気俳優の〇〇翔太さんが、今朝未明に自宅で死亡しているところを発見されました――」


アナウンサーの声は淡々としていた。


画面には、遺影のような笑顔の写真が映し出されている。


俺はただ、その映像を見つめていた。


心は何も動かない。


哀しみも驚きもなく、ただ、空っぽなまま

俳優の名前にも顔にも、何の感情も湧いてこない。


生きている実感だけが、ひどく希薄だった。

ふと、窓の外を見た。


空は重く、鈍い雲が空一面を覆っていた。


遠くで雷の音が、ぼんやりと響いている。


雨が降り出す前の、じっとりとした空気が部屋にまで入り込んでくる。


湿気を帯びた空気が、窓の隙間から忍び込んでくる。


部屋の中は静かで、けれどその静けさの裏には、言いようのない重さが漂っていた。


俺は立ち上がり、カーテンを少しだけ開いた

曇天の下、街は灰色に沈んでいる

通りを歩く人々は、それぞれの目的地に向かって足早に過ぎ去っていく。


誰一人、俺の存在に気づかない。


それが、少し羨ましかった

自分も、ただの通行人になれたら。

記憶なんてものに縛られずに、まっさらなまま、この街に溶け込めたなら。


だが現実は違う。

俺には「過去」がある。

それを知らなければ、どこにも進めない。

たとえ、その過去がどれほど醜いものだったとしても。


冷蔵庫を開けて、無造作に入っていたミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。


一口飲んで、喉を潤す。


味はしない。ただ冷たい液体が、喉を通っていくだけ。


机の上には、病院から渡された紙が置かれていた。

そこには「解離性健忘」「定期検査の案内」「カウンセリングの推奨」といった、無機質な言葉が並んでいる。

だが、それが俺の今の立場を確かに示していた。


ふと、机の引き出しに目を向ける。

無意識のまま、手が動き、取っ手を引いた。

中には、書類の束、ボールペン、そして──一冊の手帳。


黒いカバーの、手になじむサイズの手帳。

どこか、見覚えがある気がした。

けれど、それも幻のようにすぐ消える。


ゆっくりと開いてみると、中にはびっしりと文字が書かれていた。

だが、日記ではない。

何かの会話の記録、箇条書きの情報、連絡先らしきメモ、そして──見覚えのない名前たち。


その中の一つに、目が留まった。


――「高橋佳奈 週刊報道ライフ 火曜打ち合わせ」――


週刊報道?

ライフ?

打ち合わせ?


心の奥で、何かがかすかに引っかかった。


「俺……何をしてたんだ……?」


手帳を閉じると、再び静寂が部屋を支配した。

窓の外では、いつの間にか雨が降り始めていた。


ポツ、ポツ、と窓を打つ音が、徐々に強くなっていく。


過去は、すぐそこまで来ているのかもしれない。

だが、それを迎えに行く覚悟が、自分にあるのかどうかは──まだわからなかった。


俺はゆっくりと、またソファに身を沈めた。

雨の音に身を委ねながら、手帳を胸に抱えたまま、目を閉じた。


明日になれば、少しは何かが動き出すのだろうか。


翌朝、目を覚ました時には、雨は止んでいた。

代わりに、薄曇りの空が窓の向こうに広がっていた。

眠りは浅く、夢も見なかった。ただ、身体が重く沈んでいる。


昨日のまま、手帳はソファの横に転がっていた。

表紙の黒革は薄く擦れていて、長く使い込まれた形跡があった。


俺はそれを手に取ると、昨日目にしたあのページを再び開いた。


――「高橋佳奈 週刊報道ライフ 火曜打ち合わせ」――


今日が何曜日かを確認するため、スマホの代わりに壁のカレンダーを見た。

火曜日だった。まるで、何かに導かれているように感じた。


「行ってみるか……」


思わず声に出た自分の言葉に、どこか現実味がなかった。

けれど、動かなければ何も変わらない。

記憶が戻らないなら、せめて足で過去を探すしかない。


手帳の裏表紙に、見覚えのないビル名と住所が走り書きされていた。

調べる術はないが、幸いなことに駅名だけは書かれていた。


電車に乗るのは退院後初めてだった。

雑踏の中、見知らぬ他人と肩を擦りながら歩くのは、妙に心細かった。

だがそれと同時に、「この空気を知っている」と思える微かな感覚もあった。


駅の階段を昇り、改札を抜け、地図もなしにビルの名を頼りに歩いた。

足はおぼつかないが、なぜか目的地に近づくたび、胸の奥がざわついていった。


ようやく見つけたビルは、古びていて、少し煤けた看板に「週刊報道ライフ編集部」の文字があった。

息を整えながら、エレベーターのボタンを押す

上昇する箱の中で、俺は自分の手のひらを見つめていた。

震えている。理由はわからないが、身体は確実に何かを覚えている。


編集部の扉の前に立つと、中からは人の声が聞こえた。

怒鳴り声、笑い声、電話のベル――混沌とした“現場”の気配。


扉を開けようとした瞬間、背後から声がした。


「……え?」


女性の声だった。驚いたような、小さな声。

振り返ると、一人の女性が立っていた。

茶色い髪を後ろで結び、ジャケットのポケットには数本のボールペンが刺さっている。

鋭い目元に、疲れと緊張が滲んでいた。


「……あなた、良太……さん……?」


俺は黙ったまま、彼女を見返した。


「まさか……生きてたなんて……本当に……」


彼女の声は震えていた。


名前を知っている。俺のことを知っている。


だが、俺には彼女の顔も、名前も、何一つ記憶がなかった。


「……あんた、誰だ?」


そう聞いた瞬間、彼女の目から光が消えた。

そして、ふっと笑った。


「そう……やっぱり、何も覚えてないんだね」


その笑みには、寂しさと、何かを押し殺すような痛みが混ざっていた。


彼女の名は、高橋佳奈。

手帳に書かれていた、あの名前。


俺は、いま、過去に手をかけようとしている。


その扉の向こうにあるのが、後悔か、真実か、まだ何もわからないまま――。


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