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喪失

雨が降るある日のことだった。


一人の男が、記憶の迷路の中で目を覚ます。

自分が誰なのか、何をしていたのか、何も思い出せないまま。


これは、彼が失われた過去のかけらを探しながら、静かに歩き出す物語。


――真実は、少しずつその姿を現す。


雨がしとしとと降っていた。

俺は信号も気にせず、ふらふらと歩いていた。


周りの人間たちの声がざわついているのが聞こえた。


でも、何を言っているのか、耳に入らなかった。


ぼんやりとした頭の中に、焦りや不安はなかった。


ただ、足が勝手に動いているだけだった。


交差点の向こうから、黒いトラックが近づいてくるのが視界の端に入った。


だが、身体が思うように反応しなかった。


轟音とともに、衝撃が俺の身体を襲った。


身体が宙に浮き、次の瞬間、世界が真っ暗になった。


――気がつくと、白い天井が見えた。


病室のベッドの脇に、小さな名札がぶら下がっている。


そこに書かれているのは『良太』――これが俺の名前らしかった。


名前も過去も、何も思い出せなかった。


雨音だけが静かに響く中、俺は途方に暮れていた。


ベッドに横たわる俺の身体は、思ったよりも軽く感じた。


だけど、頭の中は霧の中をさまよっているみたいに、何もかもがぼんやりしていた。


「ここは……」


声に出してみたが、空っぽの頭は答えてくれなかった。


ふと視線をずらすと、窓の外はまだ雨が降っていた。


水たまりに映る街灯の明かりが揺れている。


周りの音がぼんやりと聞こえた。誰かの話し声、機械の音、歩く足音。


でも、何も覚えていない自分が、そこにいることだけはわかった。


起き上がろうとしたが、身体が言うことをきかなかった。


腕や脚は動くものの、力が入らなかった。


あきらめて、ただ目を閉じた。


記憶がなくても、日常の動作は覚えているらしかった。


食事の仕方、トイレの使い方、電話の掛け方。

でも、自分が何者なのか、なぜここにいるのか、何をしていたのかはまるでわからなかった。


その時、病室のドアが静かに開いた。


誰かが入ってきた気配に、目を開けた。


白衣の女医だった。

優しい笑みを浮かべながら、俺に声をかけた。


「良太さん、目が覚めてよかった」


俺はその名前が自分の名前だと確信した。


しかし、返事は出なかった。言葉がうまく出てこなかった。


「ゆっくりでいいんですよ。焦らずに、少しずつ思い出しましょう」


その言葉に、何か救われるような気がした。


俺がぼんやりと目を閉じていると、女医は静かに口を開いた。


「良太さん、今回の事故で頭を強く打ちました。脳へのダメージで一時的に記憶が抜け落ちている状態です」


俺はじっと彼女の言葉を聞いていた。


女医の説明が終わり、しばらく沈黙が続いた。


俺は意を決して、かすかな声で話し始めた。


「日常生活に必要なことは……覚えているんです。食事の仕方や歩き方、電話のかけ方とか。だけど、自分のことが全然思い出せない」


女医は静かに頷き、言葉を選びながら話し始めた。


「それは『解離性健忘』という症状かもしれません。精神的なストレスやトラウマが原因で、自分自身に関する記憶が部分的に失われることがあります」


俺は息を呑み、言葉を失った。


「事故の衝撃も関係していると思いますが、心の奥深くにある何かが記憶を遮断している可能性もあるんです」


女医の目は優しかったが、どこか覚悟を秘めているように見えた。


俺はゆっくりと息をつき、目の前の白衣の女性を見た。


「いつか、全部思い出せるんでしょうか」


女医は穏やかに微笑んだ。


「可能性はあります。焦らず、少しずつ時間をかけて取り戻していきましょう」


俺は小さく頷き、目の前の現実を少しずつ受け入れ始めていた。


病室のドアが静かに閉まる音が響くと、部屋の中は再び静寂に包まれた。


雨の音だけが外からかすかに聞こえてきた。


俺はベッドの上でゆっくりと目を閉じた。


頭の中の霧が少しずつ晴れることを願いながらも、何も思い出せない自分に焦りはなかった。


ただ、今はこの静かな時間を生きているだけだった。


ふと、自分の胸のあたりに小さな痛みを感じた。


それは確かな現実の証であり、俺がまだ生きている証でもあった。


「そうか……今は、ゆっくり進めばいいんだな」


呟くと、次第に重かった瞼が閉じていった。


遠くで聞こえる雨音が、まるで優しい子守唄のように俺を包み込んでいった。


時間がゆっくりと過ぎていく。


女医の言葉を胸に、焦らずゆっくりと取り戻せる日を待とうと思ったが、どこか自分が壊れてしまったような感覚に捕らわれていた。


病室の扉が再び静かに開いた。


今度は看護師がそっと入ってきて、水の入ったコップを持ってきた。


「お水、飲みましょうね」


優しい声が、心を少しだけ温めた。


俺はゆっくりと手を伸ばし、コップを掴んだ。


喉を潤す水の冷たさが、わずかに生きている実感を与えてくれた。


それからの時間は、病院のルーチンに沿って過ぎていった。


検査、リハビリ、食事。


身体は動くが、心はまだ取り戻せなかった。


俺は自分の中にぽっかりと空いた穴を抱えながら、これから何をすればいいのかも分からずにいた。


退院の一週間前。

病室の扉が静かに開き、女医が入ってきた。


「良太さん、退院の予定が決まりました。あと一週間で退院ですよ」


俺はその言葉を聞いて、心の奥に小さな希望の灯がともった。


「焦らず無理をせず、準備を進めましょう」

女医は優しく微笑みながら言った。


その日から、俺は自分で退院の準備を始めた。

少しずつ服を整え、必要な荷物をまとめていく。


日常に戻るための、小さな一歩を踏み出していた。


そして、退院の日。


退院許可が女医から正式に出されると、担当の看護師が病室にやってきた。


「良太さん、退院の準備が整いましたので、これから手続きについてご説明しますね」


俺は看護師の声に耳を傾けながら、これからの日常が始まる実感をじわりと感じていた。


看護師は丁寧に、退院後の生活で気をつけることや次回の外来受診の予約についても説明してくれた。


「無理せず、しっかり休んでくださいね」


説明を終えると、間もなく入院費の請求書が病室に届けられた。


内容を確認し、俺は指定された会計窓口へと向かった。


静かな廊下を歩きながら、これまでの時間を振り返った。


会計窓口で入院費の精算を済ませると、受付の人から退院証明書や薬、次回の外来受診の予約票を受け取った。


再び病棟に戻ると、看護師が手続きの最終確認をしてくれた。


「忘れ物はありませんか?」


荷物をもう一度確認し、準備万端だと頷いた。


病室のスタッフたちに挨拶をし、感謝の気持ちを伝えた。


帰り際、女医がそっと声をかけてきた。


「これからの生活は大変かもしれませんが、無理せずゆっくり進んでください。あなたならきっと大丈夫」


その言葉に微かに背中を押された気がした。


外に出ると、太陽が顔を出していた。


新しい一日の始まりを告げている。


これが、俺の新しい生活の第一歩だった。


作品を読んでいただきありがとうございます。

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