あなたの世界
特集が終わりテレビを消した。
部屋は闇に沈んだ。
湿った空気がじっとりと肌にまとわりつき、息苦しささえ感じた。
音も光も消え、ただ自分の荒い呼吸だけが耳に響いていた。
そのとき、静寂を裂く声が落ちた。
「……力が欲しい?」
女の声だった。
澄んでいて、やさしく、胸の奥にそっと触れるような響きだった。
その声がどこからともなく降ってきて、凍りついていた心がじんわりと溶けるようだった。
「……誰だ……?」
喉は乾ききり、声はかすれていたが、必死に問いかけた。
すると、闇の中に姿が浮かび上がった。
黒いドレスの女。
長い金色の髪が淡い光を帯び、左右の瞳──青と黄の宝石のような光が、やわらかく俺を見つめていた。
その瞬間、心の奥が震えた。
この部屋に似つかわしくない美しさ。
だけど、不思議と恐ろしさはなかった。
ただ、あたたかな安堵が胸に広がっていく。
「私はレイ。あなたに力を与えるために来たの」
女はやさしく微笑み、そっと名乗った。
その声も、瞳も、まるで長く孤独に沈んでいた心を包むようにあたたかかった。
「見たくないものを見ずに済む力。聞きたくない声を聞かずに済む力……そんなものが欲しいのでしょう?」
その言葉に胸の奥がざわついた。
母の気配、世間の視線、過去の罵声……
全部、消えてほしかった。ずっと……ずっと願っていたことだった。
「……本当に……そんなことが……できるのか……」
俺の問いに、レイはさらに優しく微笑んだ。
その微笑みはどこまでも穏やかで、心の奥を温めてくれた。
「ええ、あなたが望めばできるわ」
気づけば俺の手が伸びていた。
その手を、レイがそっと包み込んだ。
指先はひんやりとしていたのに、その優しさに胸が熱くなるのを感じた。
「欲しい」
「そう…いい子ね……和也」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥に灯がともるような感覚が広がった。
もっとこの声を聞いていたい。もっとこの瞳に見つめてほしい。
そんな想いが、自然に湧き上がった。
レイはそっと指先を動かした。
「……あなたの苦しみが少しでも消えるように」
その言葉とともに、部屋の隅のゴミ袋やペットボトル、腐った残骸たちが、まるで初めからなかったかのように音もなく消え去った。
目の前の光景に、息をのんだ。
ずっと邪魔だったもの、動かす気力もなく積み重ねていたものが、あっという間に消えていた。
「……すげぇ……」
呟いた声に、レイはやさしくうなずいた。
「あなたのためにできることなら、何でもしてあげたいわ」
その声に、胸の奥が温かさで満たされていくのを感じた。
不思議だった。
ただそばにいるだけで、こんなにも心が軽くなるなんて。
「……しばらくここにいて……見ていてくれるか……?」
自然に口をついて出たその願いに、レイはやわらかくほほえみ、うなずいた。
「ええ、和也。あなたが望むなら、そばにいてあげるわ」
そう言って、レイは部屋の隅に腰を下ろした。
黒いドレスの裾が床に広がり、まるで闇の中で一輪の花が咲いたように見えた。
その優しい視線が俺に注がれたまま、静かに時間が流れていった。
俺はそのぬくもりに、ただ救われるように息をした。
もう、この闇も、この空気も、この部屋も──この女がいてくれれば、それだけでよかった。
レイの手がそっと俺の肩に置かれていた。
その手はやさしく、ただそこにあるだけで、胸の奥のざわめきを静めてくれるようだった。
「和也……あなたは、その手ですべて消せるわ」
レイの声はあくまで柔らかく、甘く耳に届く。
「あなたが何を消すのか……それはあなた自身が決めて」
俺は震える指先を見下ろした。
この手で……この手ですべてを消せるのか。
「……本当に……俺に……?」
レイは頷いた。
その微笑みはどこまでも優しく、俺の迷いを包み込むようだった。
「あなたが選んでいいのよ。誰かに決められることじゃないわ。
あなたの世界を作るのは……あなた自身」
その言葉に、胸が熱くなった。
ずっと誰かに責められ、押しつけられ、否定されてきた。
でも、この女は違う。選んでいいと言ってくれる。
俺はゆっくりと立ち上がった。
足元は震え、喉は渇いているのに、心の奥は確かに何かに満たされていた。
しばらくするとドアの向こうに母の気配があった。
毎日のように俺を苛立たせる声、足音、ため息……
そのすべてが、消えてほしいと願っていた。
俺は手を伸ばし、ドアの方に指先を向けた。
「……消えろ……」
声はかすれていたが、心ははっきりしていた。
その瞬間、指先から淡い光がにじみ、空気に溶けて広がった。
そして──ドアの向こうの気配が、音もなく霧のように消え去った。
足音も、気配も、息遣いも……何もかもが消えた。
そこにいたはずの「存在」が、跡形もなく。
俺はしばらくその場に立ち尽くした。
静寂が、ただあった。
あまりの静けさに耳が痛くなるほどだった。
「……俺……本当に……」
「ええ、あなたは自分で選んで、そして消したの」
レイがそっとささやいた。
その声はどこまでも優しく、俺の心の底まで染み込んできた。
「和也、もう怖がらなくていい。これからは、あなたが世界を作っていけばいいのよ」
涙がにじんだ。
この力があれば、もう俺は……。
でも、胸の奥でわずかに残った震えは、まだ名前のない不安のようだった。
だが今は、それもどうでもよかった。
レイがそばにいてくれる。
この優しい声が、俺を肯定してくれる。
「ありがとう……レイ……」
俺の声はかすかだったけれど、レイは静かに微笑み、ただそばにいてくれた。
部屋には深い静寂だけが残り、ただその中に、俺とレイの存在だけが溶け合っていた。
1000PVありがとうございます。
作品を読んでいただきありがとうございます。
評価、レビュー、アドバイスをいただけたら
励みになるのでよろしくお願いします。
https://x.com/Key__1210
Xにて最新話投稿のお知らせをしていますので
フォローして頂くとすぐに読めます。