あと少し
朝食を食べてから少し時間がたった頃
妹たちは部屋の隅で、小さな声でじゃれ合って遊んでいた。
古いトランプを並べて、神経衰弱をしているらしい。
笑い声が響いている。
俺は、そっとタッパーを手に取った。
「おにいちゃん、どこ行くの?」
美咲がこちらを振り向く。
「ちょっと昼ご飯探してくる。」
何気ないふりで笑う。
「いってらっしゃいー」
美雪がトランプを掲げた。
俺は頷いて、扉を開けた。
人気のない道を選びながら歩き出す。
なるべく遠回りして、ゆっくりと足を進める。
家の近くではもう、ごまかしきれない。
料理を出すには、妹たちの目の届かない場所が必要だった。
そして、時間も。
人の気配のない裏道を抜け、誰にも見られない場所まで来ると、俺はしゃがみこんだ。
草の影にタッパーを置き、胸元にそっと手を当てる。
(……オムライス)
浮かべたのは、母さんが昔よく作ってくれた、優しい味の記憶。
ふんわりした卵、少し甘めのケチャップライス。
卵の上にかかったケチャップの線まで、はっきりと思い出せる。
タッパーの中に、ふわりと香りが広がった。
(……よし)
中身を確かめて、そっとふたを閉める。
指先が少し震えていた。
息を吐くと、胸の奥がうっすらと痛む。
「……大丈夫だ」
誰にも聞こえない声で、自分に言い聞かせた。
そのまま草むらの陰にしばらく腰を下ろし、少し時間を潰す。
戻るには、早すぎる。
いつも通りに見せるには、ある程度の“外出時間”が必要だった。
時間が過ぎていく。
少ししてから、ようやく立ち上がる。
俺はゆっくりと帰路についた。
扉を開けると、ふたりはまだトランプで遊んでいた。
俺の姿を見つけると、美雪がぱっと顔を上げた。
「にいちゃん、おかえり!」
「何してたの? 遅かったよ」
美咲が口をとがらせる。
「……またいつもの人に会ってな。これ、もらった」
俺はタッパーを掲げて見せた。
「えっ、なになに?」
「わー! いいにおいする!」
テーブルの上にタッパーを置いて、ふたを開ける。
ふわりと卵の香りが広がった。
「オムライスだ!」
「ほんとに、くれたの? すごい……!」
妹たちはスプーンを持って、嬉しそうに顔を見合わせた。
「にいちゃん、すっごくおいしい!」
「たまご、ふわっふわだよ!」
「そうか。よかった」
俺は笑って応えた。
スプーンを持つ手が、少しだけ重かったけれど、見せなかった。
妹たちの笑顔だけを見ていた。
(……あと、何回出せるだろう)
その不安も、今はしまっておく。
この時間を守るために、俺は、また明日も外に出る。
夕方、部屋の中はうっすらと暗くなり始めていた。
美咲と美雪は、古い毛布を敷いた床の上で、まだトランプをしていた。
神経衰弱らしく、「あー」とか「やったー」とか、かすかな声が聞こえてくる。
けれど笑い声は、昼よりも少しだけ小さくなっていた。
たぶん、遊びに飽きたのと、空腹のせいだ。
俺は、壁にもたれた身体をゆっくりと起こし、立ち上がろうとした。
……が、思うように力が入らなかった。
「……っ」
膝がぐらつき、立つのに時間がかかる。
胸の奥がじんわりと痛み、指先がかすかに震えていた。
(……もう、こんなにきてるのか)
気取られないよう、腰に手を当てて体勢を整える。
顔を上げ、無理に笑った。
「ちょっと、夜ごはん探してくる。すぐ戻るよ」
「えっ、今から? おにいちゃん、なんか変じゃない?」
美咲が心配そうに顔を上げる。
「ちょっと疲れてるだけ。大丈夫だよ」
「……ほんとに?」
「ほんと、ほんと」
そう言って、笑顔を貼り付けたまま、タッパーを袋に入れて背負う。
「いってらっしゃーい」
美雪がのんきに手を振ってくれる。
俺は軽く頷いて、扉を開けた。
人気のない裏道を選んで、街の外れに向かう。
時間がかかっても構わない。今は、妹たちの目の届かない場所に行くことの方が重要だった。
途中、何度か足を止める。
息が上がる。
背中が熱を持つように重く、腕に力が入らない。
それでも、俺は歩き続けた。
数十分後、街の奥にある雑草だらけの空き地へとたどり着く。
誰も通らない、小さな斜面の陰にしゃがみ込んだ。
タッパーを膝の前に置く。
胸にそっと手を当てる――が、頭がぼんやりとしていた。
(……今日は、何にしよう)
考えがまとまらない。
浮かんでくる料理の映像が、どれもぼやけていた。
空腹なのは自分のはずなのに、味のことが想像できない。
気づけば、最初に思い浮かんだ料理を、ぼんやりと心の中でつぶやいていた。
(……カレー)
母さんがよく作ってくれた、あのカレー。
最初に力を使ったときに出した、あの味。
無意識に、それを選んでいた。
(……ごめん、同じで)
そう思いながら、静かに手を重ねる。
次の瞬間、タッパーの中にふわりと香りが立ちのぼる。
安堵と同時に、鋭い痛みが胸を走った。
「……っ……はっ……」
体を折り曲げ、息を吐く。
内臓の奥がひきつれるような感覚に、思わず地面に手をつく。
手が、少しだけ震えていた。
けれど、それでもまだ――立てる。
(……あと、もう少し)
タッパーを袋にしまい、なんとか姿勢を整えて、またゆっくりと歩き出す。
家に戻ると、ふたりはもうテーブルについていた。
「おかえりー! にいちゃん!」
「おにいちゃん、今日のごはんは?」
「うん……今日は……もらってきた。カレー」
袋からタッパーを取り出して、ふたを開ける。
湯気と香りが、部屋の空気を変える。
「カレーだ! にいちゃん、やったー!」
「わー……すごい、ほんとにもらってこれるんだね!」
ふたりは目を輝かせて、スプーンを手に取った。
「いただきます!」
「おいしーい!」
笑う妹たちを見て、俺も笑った。
正直に言えば、同じ料理を出すことに迷いはあった。
でも今、この笑顔を見ていると、それでよかったと思えた。
(……あと、何回……出せるんだろう)
スプーンを握る手に、力が入らなかった。
でも、それを見せるわけにはいかない。
笑顔のまま、俺は頷いた。
「よかった。おいしいなら、それで十分だ」
夜。
妹たちが眠ったあと、ひとり静かに窓辺に立った。
外は静かで、遠くの空に月が浮かんでいた。
(……そういえば)
思い出す。
――もうすぐ、妹たちの誕生日だ。
(よし)
ケーキとふたりの大好物を出そう
ふたりの笑顔を、ちゃんと見届けるために。
寿命なんて、もう惜しくなかった。
この命を、全部妹たちのために使い切る。
そっと胸に手を当てた。
夜風が、窓の隙間から冷たく吹き込んでいた。
作品を読んでいただきありがとうございます。
評価、レビュー、アドバイスをいただけたら
励みになるのでよろしくお願いします。
https://x.com/Key__1210
Xにて最新話投稿のお知らせをしていますので
フォローして頂くとすぐに読めます。