カレー
夜が更けていく中で、俺たちは、静かに最後の一口を噛み締めた。
食べ終わったあとの静寂は、どこか満ち足りたようで、けれど同時に――言葉にできない重さが胸に沈んでいた。
冷めかけていたのに、あんなに温かかった。
それはきっと、料理の味じゃない。
作った人の気持ちが、俺たちの身体に流れ込んできたからだ。
「おいしかったね……」
そうぽつりと呟いた美咲に、俺は小さく頷いた。
「うん……ありがとう、って言いたい」
美雪もこくりと頷く。
嘘じゃなかった。
今度会ったら、「ありがとう」を伝えたい。
けど、その言葉の重さが俺の胸をまた締めつける。
「……おにいちゃん、泣いてる?」
「……泣いてねえよ」
俺は目を伏せて笑った。 本当は涙が止まらなかった。
今この瞬間があまりにも尊くて、怖かった。
もし――また手に入らなかったら、と思うと。
夜は静かに、明けていった。
朝になっても、眠気は来なかった。
二人は満腹で静かに眠っていたが、俺だけはずっと目を閉じることができなかった。
鞄の中、空になったタッパーを見つめる。
――もう、あの料理はない。
今度、腹を空かせたら。
今度、倒れそうになったら。
今度、笑わなくなったら。
俺は、もう――盗みに行くことはできない。
おばあちゃんの、優しさを、裏切りたくなかった。
あんなふうに優しさを受け取ってしまった以上、誰かの物を盗むことなんてできるはずがない。
(……だから、使うしかない)
胸元に手を置くと、温かさがそこに残っていた。
あの夜、レイに与えられた力。
食べ物を生み出す力。
その代わりに、命が削られるという力。
これは、俺が生き延びるための力じゃない。
誰かの優しさに、もう甘えないための“責任”だ。
「……おばあちゃん、ごめんなさい」
俺は声に出して呟いた。誰に聞かれるでもない、小さな謝罪。
そして、深く息を吸い込んだ。
「俺は……使うよ」
妹達を守るために。
あの優しさを、無駄にしないために。
寿命なんて、いい。
どうせ、もうすり減らして生きてるんだ
俺の命一つで二人にはお腹いっぱいになって欲しい。
俺は、立ち上がった。
覚悟だけは、もう決まっていた。
あとは――実行するだけだ。
音を立てないように扉を開け、冷たい朝の空気の中に出る。
辺りはまだ灰色に沈んでいて、人の気配はない。
まるで、世界そのものがまだ眠っているような静けさだった。
俺は手に持っていた鍋を、静かに地面に置いた。
そして、目を閉じる。
頭の中に、あの味を思い浮かべる。
――カレー。
甘くて、少しとろみがあって、母さんがよく作ってくれたやつ。
にんじんとじゃがいもは大きくて、ルウは市販のやつを混ぜて使ってた。
一晩置いた次の日の、ちょっと濃くなった味が好きだった。
胸元に手を当てると、微かに熱が灯るような感覚があった。
まるで、そこに火がともったみたいに。
「……出てくれ」
そう呟いた瞬間、手の中がふっと重くなった。
見ると、鍋の中にカレーが満ちていた。
湯気が立ちのぼり、スパイスの香りが風に流れていく。
嘘みたいに自然で、だけど、現実じゃないような感覚。
足が少しふらついた。
胸の奥が、少しだけ痛い。
……これが、命を削るってことか。
でも、それでも構わない。
鍋に蓋をして、溢さないように慎重に運び。
そして、また静かに扉を開けて中に戻る。
まだふたりは眠っていた。
俺はそっと新聞紙を広げ、タッパーの代わりに鍋をその上に置いた。
やがて、窓から差し込む光に目を細めながら、美咲が目を覚ます。
「……おにいちゃん、おかえり」
「ただいま。……ちょっと外、行ってた」
美雪も少し遅れて目を覚まし、まだ眠たそうに目をこすっていた。
「いい匂い……する……」
「ああ、恵んでくれた。優しい人が」
また、嘘を重ねる。
だけど、これでいい。
「今日は、カレーだよ」
俺が鍋の蓋を開けると、ふたりの顔がぱっと明るくなった。
「カレー!? ほんとに? すごい……!」
「おかわりある?」
美雪の声に、思わず笑いそうになる。
「たぶん、ある。いっぱい、くれてたからな」
ふたりの笑顔を見て、胸が熱くなった。
「いただきます」
三人の声が、同時に重なった。
木のスプーンで、まだ湯気の立つカレーをすくう。
ふたりは、それを口に入れると――目を丸くして動きを止めた。
「……すごい……」
最初に声を漏らしたのは美咲だった。
次いで、美雪が「おいしい……!」と、小さな声で叫ぶように言った。
俺は何も言わず、黙ってひと口、口に運ぶ。
舌の上に広がる味は、間違いなく、記憶の中の母さんのカレーだった。
あの懐かしい甘さ、ほんの少しの辛さ、そしてとろとろのじゃがいも。
間違いなく、あの日、家族で囲んで食べた味。
「ねえ……おにいちゃん、これ……ほんとに分けてもらったの?」
不意に、美咲が顔を上げて、俺を見た。
一瞬、答えに詰まった。
けれど、俺は笑ってごまかした。
「たまたまな。運が良かったんだよ。……ちょっとだけ、特別だった」
「そっか……。でも、ほんとにすごいね……」
美咲はそう言って、またカレーをすくった。
「にいちゃん、これ……ずっと食べたい。おかわり……していい?」
「あるだけ、食べな。今日はいっぱいあるから」
その言葉に、美雪は嬉しそうににっこりと笑い、もう一杯よそってくれと催促してきた。
俺は鍋の中からご飯の上にたっぷりとカレーをかけてやる。
ふたりの笑顔は、ほんの数日前までじゃ考えられなかったくらい、明るかった。
でも――俺の胸の奥では、なにかが静かに冷えていくのを感じていた。
今、こうして笑っているふたりを見て、嬉しいはずなのに。
それでも、どうしようもなく――怖い。
この先、何度もこの力を使うたびに、俺は少しずつ消えていく。
けれど、それでもいいと思った。
ふたりがこうして笑っていられるなら、それでいい。
この笑顔を、何よりも守りたい。
それが、俺が“もらった命”の使い道なんだ。
「おにいちゃんも、食べなよ。冷めちゃうよ?」
美咲の言葉に俺は、はっとして頷いた。
「ああ。……いただきます」
俺たちは、またスプーンを動かした。
沈んでいた部屋の空気が、少しずつやわらいでいく。
外では、風が通りすぎていく音が聞こえていた。
でも、ここには――温かさがあった。
たとえ、命を削って生み出したものでも。
作品を読んでいただきありがとうございます。
評価、レビュー、アドバイスをいただけたら
励みになるのでよろしくお願いします。
https://x.com/Key__1210
Xにて最新話投稿のお知らせをしていますので
フォローして頂くとすぐに読めます。




