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おばあちゃん

夜空には、雲ひとつなかった。


満月がぽっかりと浮かび、静かな光を地上に落としている。

こんなにも明るいのに、どこか寂しい光だった。


俺は丘の上の一軒家を見つめていた。


かすかに傾いた屋根、古びた木の門、錆びたポスト。

昨日、遠くから見かけた家だった。

──あそこなら、まだ何か残ってるかもしれない。

そんな期待はもう何度も裏切られてきたはずなのに、今夜だけは、信じたかった。


門を押し開けると、軋んだ音が夜に響いた。


俺は息を詰めた。

誰かが目を覚ますかもしれないけれど、静寂は破られなかった。


玄関の引き戸も鍵がかかっていなかった。


俺は、音を立てぬように中へと忍び込んだ。

台所は月明かりだけが頼りだった。


棚を開け、中を覗く。

わずかに残った乾物と、封の切られていないパックのご飯、俺は手を伸ばしそれをそっと鞄に入れようとした時だった。


「……それ、持っていくのかい?」


背筋が凍った。


背後から、静かな、しかし年齢を感じさせる女性の声がした。

振り向くと、扉の奥から一人の老婆がこちらを見ていた。


小柄で、腰は少し曲がっていたけれど、その目はまっすぐで、優しさと厳しさを併せ持っていた。

「……ごめんなさい」

俺はそう言って、すぐに手を離した。

鞄も下ろし、棚の前に正座するように座り込む。


「妹たちが……いるんです。もう何日も……ろくに食べてなくて……」


老婆は何も言わずに、ゆっくりとこちらに歩いてきた。

その足取りは、年齢のわりにしっかりしていた。

俺は立ち上がることもできず、ただその場でうつむいていた。


「ご飯……作るよ。ちょっと待ってておくれ」


「え……?」


「誰かが困ってるときには、できることをするのが年寄りの仕事だよ」


その言葉が、胸に刺さった。

老婆は慣れた手つきで棚を開き、古い米びつから米を取り出し、鍋に火をかけた。

包丁の音がまな板にトントンと心地よく響く。

やがて、湯気の立つ台所には、炊き込みご飯とわずかな味噌汁、それに浅漬けが並んだ。

どれも香ばしくて、あたたかくて、どこか懐かしい匂いがした。


「持っていくといい。三人分あるよ」


「……でも……それじゃ、おばあさんが……」


「大丈夫。私はもう、そんなに食べないからね」


笑ってそう言った顔には、深い皺が刻まれていたけど、優しい光が宿っていた。


「私もね、昔は三人家族だったんだよ。夫と息子とね。

でも、事故でふたりともいなくなってしまって。……もう、五十年くらいになるかな」


その声は、まるで夢の話をしているようだった。

語る言葉には涙はなかったが、その背中には長い孤独の時間が乗っていた。


「その日から、私はずっとここで一人で暮らしてきた。

誰かに何かをあげる機会なんて、なかなかないからね……。

今夜は、ありがとうね。私にも誰かの役に立てる時間をくれて」


俺は、もう何も言えなかった。

お礼も、謝罪も、どちらの言葉も喉につかえて出てこなかった。


「困ったときは、また来なさい。今度は声をかけて、ね。

ちゃんと開けて待ってるから」


老婆は小さな包みにご飯を詰めて、鞄に入れてくれた。


最後に「気をつけて」と小さく微笑みながら、玄関まで送ってくれた。

扉を閉めて振り返ったとき、胸が張り裂けそうだった。

あれほど優しくされたのにそれが、かえって苦しかった。

俺は盗みに来たのにもかかわらず、あんなにも、あたたかく迎えてくれた。


「……最低だ、俺……」


月の光が、涙でぼやけた。

そのときだった。


「……あなた、力が欲しい?」


その言葉に、俺は顔を上げた。


目の前には、少女のようにも、大人の女性のようにも見える存在が立っていた。

黒いドレスの裾が月明かりに揺れ、背中からは真っ白な羽が音もなく広がっている。


金色の長い髪が光を集め、瞳は宝石のように輝いていた。

右目は深い青。左目は、金色。

まるで夜空と太陽を一つに閉じ込めたような、不思議な光だった。


「……あんた、誰だ……?」



「私はレイ。願いを叶える者よ」


「……願い?」


レイは一歩だけ近づいてきて、そっとしゃがみ込んだ。

視線の高さが揃った瞬間、彼女の声が一層やわらかくなる。


「あなたの空腹も、妹たちの痛みも、今日の涙も……全部、見ていたわ。

あなたは、本当に強い子ね。こんなにも傷だらけで、なお“誰かのために”動けるなんて」


そう言われて、少しだけ息が詰まった。


「でも、もう限界でしょう?」


……限界なんて、ずっと前に過ぎていた。

気力で、責任で、自分を動かしてきただけだった。


「だから、あなたに“力”をあげる。――“食べ物を出す力”。

あなたの記憶にある食べたことのある料理を、匂いも味も、そっくりそのままに出現させることができる力」


俺は目を見開いた。

今、なんて言った?


「本当、なのか……?」


「ええ。本当よ」


レイは微笑んだまま、そっと指を差し出してきた。

その指先が、俺の胸のあたりに触れる。


「でもね――この力には、“代償”があるの」


指先が少しだけ熱くなった。


「この力は、あなたの“記憶にある飲食物”を実体化させるもの。

おにぎりでも、スープでも、ジュースでも。あなたが味を知っていれば、それは現れる。

けれどそのたびに、あなたの寿命は削られるわ。どれだけ削れるかは、あなたの中の“その味の記憶”次第」



俺は黙った。


命を削って、食べ物を出す。


その力で妹たちを救える。

けれど、俺は……確実に、早く死ぬ。


「それでも、欲しいの? その力が」

レイは俺の沈黙を見守っていた。

急かすことも、促すこともなく。


「……それでいい。構わない。

あいつらを飢えさせるくらいなら、俺の命なんて、安いもんだ」




レイの微笑みが、わずかに深くなった。


「ふふ……やはり、あなたは優しい。

その優しさが、あなたを殺すかもしれない。

でも、それでもいいのなら……契約は成立よ」


彼女が指を鳴らすと、温かい光が俺の胸を貫いた。

一瞬、胸の奥がきゅっと痛んだ。

呼吸が浅くなって、膝に力が入らなくなる。

目の前が揺らいだが意識は、はっきりしていた。


レイが静かに言った。


「力はあなたの中にある。けれど、使うかどうかはあなたの自由よ

じゃあね…また近いうちにあなたに会いに行くよ」


そう言い残しレイは何処かに消えた。


――俺はまだ力を使わなかった

だって、まだ……おばあちゃんにもらった料理が、あるから。


日付が変わった頃

空き家に戻ると、美咲が玄関まで出てきた。

俺の顔を見た瞬間、ぱっと目を見開いて、それから少しだけ笑った。


「おにいちゃん……遅かったね」


「ごめん。でも、ちゃんとあるよ。……ほら」


俺は、タッパーに入れられた料理を取り出した。

重みがしっかりあって、まだほんのり温かく

良い匂いが漏れていた。

炊き込みご飯のおにぎりと味噌汁そして浅漬け


「すごい……どうしたの、これ……」


「……ちょっと、分けてもらった。優しい人に、助けてもらった美雪を起こして来て」



美咲は頷いて、そっと奥へ入っていった。

寝ていた美雪は目をこすりながら現れ、俺の姿と料理の匂いにすぐ目を丸くした。


「にいちゃん……それ、ごはん?」


「ああ。炊き込みご飯だ。ちゃんと、味噌汁もある」


俺は新聞紙の上にタッパーを並べて、三人分の箸を割った。


美雪はパッと笑って、すぐに毛布の上に座る。


「わぁ……おにぎり、すごい……」



三人で、手を合わせる。


「いただきます」


炊き込みご飯は、ふわっと甘く、だしの香りが口の中に広がった。

味噌汁も、野菜がやわらかく煮えていて、体の奥まで染みわたるようだった。

浅漬けは少ししょっぱくて、それがまた、涙が出るほど懐かしかった。


美雪が笑いながら口いっぱいにご飯をほおばる。


「……ねえこれ、お店のよりおいしい」


「おばあちゃんの味……なんだろうな」


俺の言葉に、美咲がそっと目を伏せて頷いた。


「きっと、誰かのために作った味だね」


ああ、きっとそうだ。

たった一人になったのに、それでも誰かのためにご飯を炊く、その手間と時間。


その優しさを、俺達は、食べている……


作品を読んでいただきありがとうございます。

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