野菜
俺はゆっくりと立ち上がり、乾いた手で埃を払った。
まだ、終わりじゃない。
今日という日が、ただの“空腹な日”で終わらないように──もう少しだけ、歩こうと思った。
西へ向かった。
今まで避けていた地域道路沿いにぽつぽつと残る住宅の中に、一軒だけ、少し離れて畑が広がる家があった気がする。
かすかな記憶を頼りに、俺は足を進めた。
途中で何度も足が止まりそうになった空腹は体力だけでなく、意志までも削っていく。
それでも俺は、歩いた。あの子たちの顔を思い出すたびに。
やがて、草むらを越えた先に、それは見つかった。
柵に囲まれた、小さな畑。
昨日誰かが荒らしたような形跡もあったが、それでも、土の中にはまだ根を張った野菜がいくつか残っていた。
俺は祈るような気持ちで、柵の隙間から中へと入った、音を立てないように慎重に歩く。
誰もいないことを何度も確認してから、手を伸ばした。
土を掘り、根元を掴む。
(……よし。これで、今日は……)
「また来やがったな……この泥棒がッ!!」
怒鳴り声と同時に、背中に重い衝撃が走った。
地面に倒れ込み、息が詰まる。
振り向いた先には、農作業着を着た中年の男がいた。
「昨日と同じ手で来るとはな!」
「ち、違う……俺じゃない……っ」
声にならない言い訳が喉に詰まる。
次の瞬間、男の拳が飛んできた。腹を打たれ、声が漏れた。
「どいつもこいつも、自分のことしか考えてねぇ!」
「妹たちが……食べてなくて……っ、ただ、それだけで……!」
土に這いつくばりながら、そう絞り出すと、男は一瞬動きを止めた。
けれど、表情は怒りのままだった。
「知らねぇよ……こっちだって余裕なんかねぇんだよ!誰かが盗ったら、他の誰かが飢えるんだ! わかってんのか!?」
……わかってる。
そんなこと、とっくに。
けれど、他の方法なんて、どこにもなかった。
顔をもう一発殴られ頭が揺れて、視界が白くなった。
「二度と来んな……二度と、だ」
その言葉を最後に、俺の意識は薄れていった
次に目を開けたときには、空が赤く染まっていた。
太陽が沈みかけている。
気がつけば、畑の外れの道端に倒れていた。
どうやら、追い出されたらしい。
腹も、手も、ポケットの中も、空っぽだった。
空腹と痛みに軋む体を引きずりながら、俺は歩き出した。
夕暮れの空の下、食べ物が入ってない鞄だけもって。
空き家に戻るまでの時間は、よく覚えていない
ただ、ずっと同じことを考えていた。
──何も、盗れなかった。
──いや、食べさせることすらできなかった。
──こんな俺が、何の意味があるんだ。
戸を開けると、静けさの中に、温もりがあった。
美咲が顔を上げ、こちらを見つめていた。
言葉はなかった。ただ、それだけで十分だった。
「……ごめん。また何もなかった」
そう言いながら鞄を置く。
身体がじんわりと痛む。
それに気づいたように、美咲が少し眉を寄せた。
「……おにいちゃん、顔……どうしたの?」
「……ああ、ちょっと転んだだけ。川沿いの道、ぬかるんでてさ」
なるべく明るく言った。
ごまかす声色が、ほんの少し震えていたかもしれない。
「そう……」
美咲はそれ以上、何も言わなかった。
信じていないかもしれない。でも、追及はしなかった。
そのやさしさが、逆に胸に刺さった。
美雪はまだ眠っている。
額に手を当てると、少しだけ熱があるような気がしたでも、顔色は悪くない。呼吸も穏やかだ。
少しだけ、水を口に含む。
冷たさが喉を流れるのを感じながら、俺は思う。
(……夜は、見つけないと)
もう限界が近い。
自分も、妹達も。
深雪が、目を覚ましぽつりとつぶやいた。
「……おかえり」
「……ただいま」
そのたった二言が、今日の美雪との会話だった。
夜が来た。
空は深く、月は静かに輝いていた。
風が冷たい。けれど、それよりも空腹のほうが冷たく感じる。
毛布にくるまる二人の妹たちは、もう眠りについていた。
俺は立ち上がり、また鞄を背負った。
水は残り少ないから置いていく
火をつけるためのライターだけが、ポケットの中で軽く揺れる。
「……おにいちゃん」
美咲の声が静かに響いた。
振り向くと、毛布の中から上体を少し起こし、俺を見ていた。
「また行くの?」
「……うん。少し、歩いてくるだけ」
「もう遅いよ。危ないし……」
「大丈夫。人に見つからないようにする」
ほんとは、怖い。
でも、もう俺にはこれしかない。
何も見つからなかったら、せめて、あいつらが寝ている間に自分だけでも何かを──そう思っていた。
「……おにいちゃん」
その声には、どこか決意のようなものがあった。
俺が戸口に手をかけたとき、美咲は続けた。
「わたしね、本当は気づいてた。
おにいちゃん、転んだって言ったのが嘘だってことも……」
俺は、動けなかった。
振り向けなかった。
「でも……それでも、何も言わないって決めたの。
わたしが泣いたら、美雪が泣いちゃうから。
わたしが怖がったら、美雪がもっと怖がるから。」
「……」
「だから……ごめんね、ちゃんとありがとうって言えなくて。
がんばってね、なんて簡単に言えなくて……」
胸の奥に、重くて熱いものが落ちてくる感覚があった。
言葉が出なかった。出せなかった。
ただ、ひとつだけ、言えた。
「……いってくる」
「うん……気をつけて。……ずっと、待ってるから」
俺はその言葉を背中に受けて、戸を開けた。
冷たい空気が流れ込む。
そして、夜の街へと足を踏み出す。
何もない道。
誰がいるかわからない暗がり。
でも、俺は行く。
守るために。
罪を背負ってでも、生かすために。
足音が、静かに響いていた。
どこまでも続く静けさの中で──
どこか、違う世界の気配が、わずかにこちらを見ているような、そんな夜だった。
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