空腹
朝。
毛布の下では、美咲と美雪が小さく体を寄せ合って眠っていた。
空腹のせいか、動きは少ない。
でも二人とも、まだ笑えている。まだ、大丈夫だ。
俺は静かに立ち上がり、鞄を背負った。
中には水の入ったペットボトルと、火をつけるためのライター食料を探しに行く。
昼間じゃ見つからないと分かってはいるけど、何もしないわけにはいかない。
昨日は何も食べてない。今日も同じなら、あいつらの笑顔が消える。
午前。
崩れかけた住宅地を歩いた。
庭の物置、郵便受け、冷蔵庫の中。
どれも空っぽだった。あるいは、腐っていた。
昼。
郊外の倉庫を見に行った。
段ボールが山積みになった倉庫の奥には何も残ってなかった。
床に落ちていたのは、かつて何かが入っていた袋の切れ端だけ。
午後。
裏通りの古い建物に目をつけた。
搬入口が少しだけ開いていたから、希望を持って中に入った。
「誰だ!」
怒鳴り声に、心臓が跳ねた。
反射的に走り出す。
通路を駆け抜け、足音を引き離しながら裏口から外に飛び出した。
何も、盗れなかった。
いや、今日一日、何も見つけられなかった。
夕方。
空き家に戻ると、戸の隙間から夕日の光が差し込んでいた。
玄関を開けると、美咲が顔を上げた。
何も言わない。それで十分だった。
「……おかえり」
「……ただいま」
鞄を置く。中身は朝と変わらない。
ライターと、水。それだけ。
美雪は眠ったままだ。
額には少し汗がにじんでいるけど、顔に苦しさはない。
それが唯一の救いだった。
美咲は黙ったまま、毛布の端をぎゅっと握っていた。
俺と目が合うと、少しだけ笑った。
――無理してるのがわかる。
でも俺も笑い返した。
誰かが悲しんだら、きっと全員が壊れる。
だから、三人でいるときは、笑っていたい。
夜が来る。
月明かりが割れた窓から差し込み、床の上にうっすら影を落としていた。
寒くはない。けど、腹が減っている。
布団に横たわる美雪が、ぽつりと呟いた。
「ねぇ……にいちゃん、今日って何曜日?」
唐突な質問に、美咲が小さく笑った。
「さあ……カレンダーなんて、もう見てないし」
「じゃあ、今日のごはんはなあに?」
いたずらっぽい声色だった。
もちろん、本気で聞いてるわけじゃない。
「……今日は、水。特別に、にいちゃんが拾ってきたやつ」
俺がそう答えると、美雪は「やったぁ」と声を上げた。
明るく笑ってくれた。それだけで、少し救われる。
「じゃあ私は、お水カレー食べたいな」
「私は水ハンバーグで」
「おい、うちの水は高級品なんだぞ」
そんな冗談を言い合いながら、三人で静かに笑った。
その笑いの中には、ほんの少しだけ本音が混ざっていた。
皆で笑っている間だけは、空腹も、現実も、少しだけ遠くなる。
それがわかっているから、誰も泣こうとしない。
明日もこうしていられるかわからない。
それでも今だけは、少しでも“ふつう”を演じたかった。
俺たちは今日、何も食べていない。
けれど、会話だけは――胸の奥まで染みていった。
「明日こそは食べ物を見つけないと」
朝が来た。
と言っても、空は灰色だった。
太陽は雲の奥に隠れていて、時間の感覚が曖昧になる。
俺は目を覚ますと、まず美咲と美雪の顔を見た。
ふたりとも眠っていた。
静かな寝息、毛布の下からのぞいた小さな足は、少し冷たそうだった。
美咲の唇が、かすかに動いた。
名前を呼ぶような、声にならないささやき。
夢の中で、両親に会っているのかもしれない。
水を一口だけ飲む。
口に含んで、すぐに飲み込まず、しばらく舌の上で転がしてから、喉に流す。
そうすると、なんとなく“飲んだ気”になる。
腹の音が鳴った。
それを消すように、息を吐いた。
火もある。水も、まだ残っている。
あとは……運だけだ。
今日は別の場所を探そうと思った。
今まで避けてきたエリア。
人が多く集まる場所は危険だからと、足を向けなかった地域。
でももう、安全なんて言っていられない。
このままじゃ、誰かが倒れる。
その前に、何かを見つけないと。
廃れた商店街を抜けて、川沿いに出る。
流れる水は濁っていて、とても飲めそうになかった。
昔、釣り堀だったらしい場所は、今では水も干上がり、底に泥が固まっているだけだった。
一歩進むごとに、靴の裏が重くなる。
泥と砂埃が貼りついて、歩きづらい。
そのときだった。
視界の端で、何かが動いた気がした。
立ち止まり、耳を澄ます。風の音、鳥の羽ばたき。
それだけ……かと思ったら、小さな物音。足音のような気配。
誰かが、いる。
俺は身を低くして、建物の陰に隠れた。
音がする方を、そっと覗く。
男がいた。
ボロボロのリュックを背負って、地面に落ちた缶詰を拾い上げていた。
息を潜めながら、その手元を見る。
……缶は膨らんでいた。ガスが発生している。もう腐ってる。
けど、男はそれをリュックにしまった。
食べられるかなんて、関係ないんだ。
「ある」ことが大事なんだ。
その瞬間、男がこちらに気づいた。
目が合った。
俺は逃げた、走った何も盗っていないのに、ただ怖かった。人の目が、人の存在が。
通りの影に飛び込み、息を殺す。
追ってこない。足音もしない。
……静寂だけが戻ってきた。
膝に手をついて、ゆっくりと呼吸を整える。
そのとき、自分の手が震えていることに気づいた。
なんで、こんなに怖いんだろう。
誰も悪くないのに。
皆、生きたくて、必死なだけなのに。
でも、わかってる。
この世界で一番怖いのは、“奪い合い”じゃない。
“何もない”ってことだ。
空っぽのまま、ただ日が暮れていくことが、何よりも恐ろしい。
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