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幸せ

──それは、崩壊の始まりだった。

無機質な病室の天井を見つめながら、私は静かに思い出していた。

あの瞬間から、私の心は音を立てて崩れ始めていたのだと──

──告白は、曇り空の日だった。

勇気を振り絞って伝えた想い。

カフェで何度か言葉を交わし、目が合うたびに高鳴った鼓動。

それはきっと、運命の始まりだと信じて疑わなかった。

だけど拓実は、柔らかく笑って言った。

「ごめん。……俺、付き合ってる人がいるんだ」

その瞬間、心の奥で何かがひび割れる音がした気がした。

笑ってごまかしたけど、視界の端がぼやけていた。

家に帰る道のりが、異常に長く感じた。

気づいたら、何度もスマホを見ていた。

──彼のSNS。

タグ付けされた写真。

そこに映るのは、私じゃない“誰か”と笑い合う拓実だった。

(……誰?)

白いマフラーを巻いた女。

彼の隣で自然に笑い、腕を組み、同じコーヒーを分け合っていた。

(私といたときは、そんな顔してなかった……)

心の奥で何かがぶつりと切れた。

何度も画像を拡大して、女の顔を確かめた。

勤務先も、名前も、すぐに突き止めた。

その日のうちに、女の職場を見に行った。

拓実が迎えに来た。

女は嬉しそうに笑っていた。

手を繋いで歩いていた。

その姿を見た瞬間、全身の血が凍るように冷たくなった。

(なんで……あの女なの? どうして、私じゃないの?)

気づけば、吐きそうなほど胸が締めつけられていた。

その夜、部屋の電気をつけずに、布団の中で声を殺して泣いた。

何時間も、眠れなかった。

──そして、声がした。

「ねぇ、由香。力が欲しい?」

カーテンの隙間から、夜風が冷たく入り込む。

部屋の隅に、黒いドレスに金色の髪と、宝石のように美しい瞳、そして天使のような白い羽が生えている女が立っていた。


「私は、レイ。

あなたは間違ってない。想いが強かっただけ。愛が深かっただけ。

でも……報われなかった。だから、力を手に入れるの。

そうすれば、世界は“あなたのもの”になる」

その時、私はもう壊れていた。

現実が、音を立てて崩れ落ちていくのを、ただ見ているしかなかった。

「……ちょうだい、その力を。全部。彼も……世界も……私のものにするの……!」

願った瞬間、心の底に黒い火が灯った気がした。

それが“妄想の始まり”だった。


……あの夜、私は確かに力を受け取った。


冷たい部屋の中で、レイの声に応じたのは紛れもない現実。

あの赤黒い何かが胸に入り込んできた感触も、忘れられないほど鮮明に覚えている。

なのに──

なぜか、私の記憶はその瞬間を“違う形”に書き換えていた。

私が、妄想の中でも嫉妬の炎に包まれそうになった時にまるでレイが救いの女神だと錯覚するように

私が、現実世界での力の授与を、自分に都合がいいように“幻想の中での記憶”として再構成したのだ。 それが私の願望でもあったからだ


でも、当時の私は気づいていなかった。

それが救いではなく、墜落だったことに。


私は、病室を出るため点滴の針を抜いた。

腕から薄く血が滲んでいたけれど、痛みは何も感じなかった。

本当に痛かったのは、もっと奥――

もう何も、救えなくなった心そのものだった。

(どうして……どうして、こんなことに……)

私は、ただ好きだっただけ。

ただ、そばにいたかっただけ。

笑い合って、一緒にいられるだけで、よかったのに。

けれど、叶わなかった。

何一つ、報われなかった。

私は選んだのだ。

レイに言われるままに、力を受け取り、自分だけの世界を作った。

あの妄想は、確かに幸福だった。

けれど、それは最初から“現実”ではなかったのだ。

(全部……私が壊したんだ)

もし、あのとき踏みとどまっていたら。

もし、受け取らなければ。

もし、あの“嫉妬”に抗えていたなら。

後悔が、心を鋭くえぐる。

それでも遅すぎた。

現実に戻った私は、あまりにも空っぽで。

もはや、立ち直れる場所なんて、どこにもなかった。

(もう、終わりにしてもいいよね……?)

そう自分に問うと、誰も反論してくれなかった。

誰も、止めてくれなかった。

だって――最初から、誰もいなかったのだ。

あの幻想の拓実すら、所詮は私の妄想だったのだから。

足を引きずるようにして病室を出た。

誰にも見つからぬよう、静かに非常階段を上がる。

屋上の扉は、わずかな抵抗もなく開いた。

冷たい風が吹き抜け、髪が揺れる。

空は重たく曇り、どこまでも灰色だった。

私はゆっくりと、柵の前まで歩いた。

(本当は、こんな終わり方……望んでなかった)

最後の景色を見渡す。

だけど、そこにあの笑顔はなかった。

あの温もりも、声も、すべて――どこにもなかった。

胸の奥がぎゅっと痛んだ。

ようやく、涙が流れた。

「……バカだよ、私……」

声が震える。

足も、心も、すべてが震えていた。

「どうして……どうしてあんな夢を……信じちゃったの……」

嗚咽が、堰を切ったようにあふれた。

「好きだったのに……拓実が……全部……欲しかったのに……!」

それは、もはや叫びだった。

誰にも届かない、誰にも響かない、ただの空虚な慟哭だった。

「助けてよ……誰か……」

叫んでも、レイは来なかった。

幻想の手は、もう差し伸べられなかった。

(……わかってる。誰も……来ないんだ)

涙を拭うこともできず、私は柵の上に手をかけた。

最後の一歩を踏み出せば、すべてが終わる。

もう、苦しまなくていい。

もう、何も思い出さなくていい。

でも、足を上げた瞬間――

胸の奥から、ふと湧き上がった感情があった。

(戻りたい。あの幸せな夢の中に)

死を、恐れているわけじゃない。

ただ、もう一度だけ、あの拓実に会いたかった。

微笑んで、名前を呼んで、抱きしめて――

それが叶わないと知っていても、願ってしまうほど、私は弱かった。

「……ねぇ……せめて夢の中で、会いに来てよ……」

それが、最期の願いだった。

風が、冷たく吹き抜ける。

私は、ゆっくりと目を閉じた。

そして、静かに――身を預けた。

落下の感覚も、冷たい空気も、

何もかもが、ただ静かで優しかった。

まるで、最初からそこが、

私の“帰るべき場所”だったかのように。

──ビルの屋上から、音もなく消えていく影。

落ちていく由香を、レイは遠くからただ静かに見つめていた。

風が髪を揺らし、その瞳が夜を映す。


「ふふ……ほんと、滑稽ね」


レイはひとりごとのように呟いた。


「“拓実が他の女と連絡を取るのが嫌”、“他の女のが目障り”、“私以外いらない”とか……全部、あなたの頭の中の出来事、妄想でも嫉妬をするなんて」


揺れる金髪をかき上げながら、レイはくすりと笑った。


「見ていて退屈しなかったわ。あなた、自分が一番彼に愛されてるって思ってたものね。

“彼が愛してるのは私だけ”って、自信満々に……

すべてが偽りだと気づかないまま」


瞳に映るのは、夜の闇と、それに沈んでいった一つの命。


「……面白いのよ、人間って。間違いだらけの妄想でも、それが“真実”だって信じられる。

信じてる間だけは、幸せになれる。たとえ世界全部が嘘でも、自分だけが幸せであれば、それでいいのよね」



「まぁ……結局、どっちにしても、あなたは死を選んでいたのよ」


レイはそう呟いて、ふっと微笑んだ。

それは、慰めとも、皮肉ともつかない、どこか人間的な笑みだった。


「力を選んだあなたは妄想の中で幸せを得るが、その代償で死ぬ。


仮に力を拒んだとしてもあなたは現実の嫉妬に押し潰されて、死んでいた。」


夜空に溶けるように、レイの声は柔らかく響く。


「でも……力を得たおかげで、あなたは少しだけ救われた。

現実じゃなかったけど、幸せだと“思えた”。

それだけでも、ね。生きてるうちに笑えたなら──きっと、それでよかったのよ」


レイはそっと、瞳を閉じた。


「……哀れで、愚かで、それでも一途な女の子だった。

でも少なくとも、誰よりも真っ直ぐに、彼を愛した。

たとえそれが、すべて嘘の世界だったとしても」


冷たい風が吹き抜ける。

レイの姿は、空気に滲むようにかき消えていった。

そして、由香の物語は、静かに幕を下ろした。

──終。

これにて由香編完結です。

作品を読んでいただきありがとうございます。

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