理想
─それは、まるで夢のようだった。
クリスマス以降、
仕事の連絡は、すべて私が確認するようになった。
友達とのやり取りも、彼の代弁者として私が返すようになった。
SNSもアカウントも、もう彼には不要なものになった。
拓実は、笑顔で従った。
最初こそ少し戸惑っていたけれど、今はもう疑問すら口にしない。
まるで、“考える”こと自体をやめてしまったみたいに。
朝、「行ってきます」のキスをする。
夜、「おかえりなさい」と笑顔で迎える。
拓実は、私の差し出す食事を食べ、私の言葉に頷き、私のために働く。
(そう、これでいいの。これが、“正しいかたち”)
彼のスケジュールは、すべて私が管理している。
通勤ルートも、誰と話すかも、何時に何を食べるかも──
すべて、私が決める。
だって、拓実はもう、「私の中」で生きているのだから。
自由なんて、苦しみの種でしかない。
選択なんて、不安と疑念を生むだけ。
私が与える“幸せ”の中にいれば、彼は傷つかない。
迷わない。壊れない。
そして今日、私はひとつの“証”を手に入れた。
「……拓実、これ、署名して」
差し出した紙は、婚姻届だった。
「私たち、もっと一緒にいたいでしょ? だから、全部ひとつにするの。
名前も、暮らしも、人生も──結婚しよ」
「そうだね。俺も由香と結婚したい」
拓実はそう言って、笑顔のままペンを走らせた。
──その瞬間、私の中で、何かが静かに“完成”した音がした。
(これで、あなたはもう……完全に、私のもの)
彼の過去も、未来も、選択も、居場所も、他人との繋がりも──
すべて、私が握っている。
もう、誰にも奪わせない。
もう、何も失わない。
この世界で、彼と私だけが呼吸をしている。
それが、何よりの幸福。
私は──
この手で、“理想の愛”を創ったのだ。
布団に入り、隣で眠る拓実の寝顔を見つめていた。
その表情は穏やかで、まるで何もかもが満たされているようだった。
窓の外には、満月が凍りついたように浮かんでいた。
(これで、すべてが手に入った)
(名前も、生活も、心も……全部、私だけのもの)
──そのとき、窓辺から柔らかな声がした。
「──ずいぶん、満足そうね」
振り返ると、レイがいた。
黒のドレス。金の髪。オッドアイの瞳。
あの時と同じように、静かにそこに立っていた。
「どう? あなたの望んだ世界は、手に入った?」
私は頷いた。少し微笑んでさえいた。
でも、どこかで胸がざわついていた。
「……来てくれたんだ。レイ」
レイは何も言わず、ただゆっくりと近づいてくる。
「ねぇ……“現実”と“妄想”の違いって、何かしら?」
「……え?」
「あなたが見ているこの部屋。
隣で眠っている彼。灯る明かり。婚姻届。
すべて、本当に“あった”ことだと思ってるの?」
私は首を振ろうとした。
けれど、体が動かない。
──いや。違う。
レイが微笑むたびに、景色がゆっくりと滲み始めていた。
「あなたに与えたのは、“嫉妬の力”。
でも、その本質は、“願望を現実と錯覚させる力”よ」
レイの声は優しく、けれど、どこか冷たい。
「あなたが強く願えば願うほど、世界はその形に歪む。
あなたが愛を欲しがれば、“愛されている幻想”が構築される。
あなたが独占を望めば、“支配している妄想”が肉付けされる」
「……じゃあ、拓実は……ずっと……?」
レイは頷いた。
「あなたに優しい言葉をかけたのも、
署名したのも、笑って食事をしていたのも──
すべて、あなたの中の“理想の彼”」
「……じゃあ……今までの生活は……」
「そう、妄想よ。あなた自身の執着。独占欲。
私だけを愛してもらいたいという渇望。
それを現実と思い込んでいたのよ。
言ったでしょ? 力を欲したら『世界が変わる』って」
「……うそ、やめて……やめてよ……」
私は顔を横に振る。何度も、何度も。
滲む景色の中、隣で眠るはずの拓実の姿が、まるで蜃気楼のように揺らいでいた。
「だって……ほら、ここにいるよ? 拓実は。ちゃんと息してる。私の名前を呼んでくれる……!
ねぇ、拓実、起きて……!」
私は拓実の肩に手を伸ばし、揺さぶろうとする。
でもその身体は──冷たく、動かない。
いや、“最初から”動いたことなんて、なかったのかもしれない。
「違う……こんなの、違う……私は……幸せだった。ちゃんと、あの人と生きてた。朝も夜も、一緒に過ごしてたの。現実だったの……!」
レイは何も言わない。ただ、静かにこちらを見つめている。
その瞳が、まるで全てを映しているようで、私は視線を逸らした。
「違うの……私が全部、作ったなんて……そんなはずない……!
だって、あんなに笑ってた……! プレゼントだって、一緒に開けたのに……」
手にした婚姻届を握りしめる。
震える指先で拓実の署名をなぞる。
でもそのインクは、気づけば滲み、名前すら読めなくなっていた。
「やめて……壊さないで……これは、私の幸せなの……! 誰にも、壊させない……!!」
「そう。だからこそ、“代償”が必要なの」
レイが静かに言う。
その声はどこまでも優しく、それなのに酷く冷たい。
「あなたが欲しがったものは、“すべて”手に入った。
でも、その代わり……あなたはもう、妄想の世界には戻れない」
「……え?」
「もう、“思いどおりの拓実”は、あなたの世界には存在しない。
あなたがこれから生きるのは、“理想郷”ではなく、“孤独な現実”だよ」
私は口元を震わせた。
「……嫌。そんなの、嫌。私は……あの人といたかっただけなのに……」
「あなたは、拓実に愛してもらいたかった。
でも、綾乃の存在が許せなかった。そこに偽りはない。でも、その気持ちが強すぎたからこそ、こうなったんだよ」
「お願い……戻して……妄想でもいいから……帰らせてよ……!」
涙が溢れた。止まらなかった。
でも、レイはそっと目を伏せて、首を横に振る。
「もう戻れないよ。だってあなたは、“力を手に入れる道”を選んだ。
その力の代償は、“あなたの幸せな日常”だよ。
あなたに渡した力を、返してもらうね」
レイはそう言って、私の胸元にそっと手をかざした。
まるで何かを引き抜くように、その指先が私の中に沈み込んでくる。
次の瞬間──
息を呑むほどの寒気が、背筋を駆け上がった。
胸の奥がえぐられるような感覚。
熱も、光も、色も、感情さえも──
何もかもが、ごっそりと抜け落ちていく。
「……あ……っ」
膝から力が抜け、私はその場に崩れ落ちた。
視界が、ぐにゃりと歪む。
部屋が──家具が──布団が──拓実が──
すべて、灰色の霧に溶けていくように、音もなく消えていく。
滲んでいた景色が、静かに、確実に、剥がれ落ちていく。
「やめて……やめてよ……拓実……っ……!」
必死に手を伸ばすけれど、その指先は何も掴めない。
婚姻届も、クリスマスのイルミネーションも、笑い声も──
すべて、夢違う、ただの――私の欲望が形をとった、幻想にすぎなかったのだ。
──やがて、すべてが消えた。、、
重苦しい沈黙が降りてきた。
そして次に、私の目の前に現れたのは──
真っ白な天井。
乾いた蛍光灯。
冷たいシーツ。
……そして、誰もいない。
病室だった。
私は、一人きりだった。
点滴の管が手首に繋がれている。
隣にあったはずの拓実の寝息は、どこにも聞こえなかった。
「……あ……あれ……?」
声が震える。
何度も辺りを見回すけれど、あの部屋はどこにもなかった。
彼もいない。婚姻届もない。
あるのは、病院の白と、私の手のひらにこびりついた空虚だけ。
「……拓実……?」
呼びかけても、答える者はない。
レイの姿も、もうなかった。
けれど、ふと窓の外を見ると、
満月だけは、そこにあった。
凍てついたように青白く、静かに、夜の空を漂っていた。
まるで、
私がここにいることを、見下ろすように──。
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