私だけ
日々、少しずつ。
けれど確実に、私の心はすり減っていった。
朝、拓実が眠っている間に、スマホのメッセージ履歴を見る。
職場で使うカレンダーアプリの予定、通勤ルート、勤務先の受付の女性の顔までも――。
私は、拓実の「すべて」を掌握しようとしていた。
一秒でも彼の行動に“空白”があると、不安が波のように押し寄せてくる。
彼が他の女に笑うと、胸が痛む。
私以外に向けた笑顔じゃないかと疑ってしまうから。
私に笑顔をくれないと、それもまた苦しい。
私に飽きてきたのではないかと、心が軋む。
彼が眠る時間、歯を磨く時間、食事を口に運ぶ仕草のリズムさえ――
そのすべてを知っていたい。狂おしいほどに。
(私の知らないあなたなんて、いらない)
そんな感情が、毎日、心を焼いていく。
そして、ある日の午後。
体調不良を理由に仕事を早退し、駅前で拓実の帰りを“たまたま”待っていたときのことだった。
──彼女が、いた。
コートのポケットに両手を突っ込んだまま、笑いながら彼に話しかけている女性。
髪は明るく、メイクは上品。
スーツ姿の拓実の隣に立つその様子は、どう見ても“ただの同僚”には見えなかった。
一瞬でわかった。
(綾乃……)
喉の奥で、黒い何かが叫んだ。
目の前の光景が、ガラスのようにひび割れて見える。
視界が赤く染まる。
(殺せばいい……)
心のどこかで、そう囁いた。
この女がいなくなればいい。
消えてしまえば、もう彼を惑わすこともない。
その手に持っているバッグ。
その笑い方。
その視線の向け方。
どれもこれも、全部、気に入らない。
足が、一歩、前に出た。
──そのとき。
拓実が、ふと笑った。
穏やかで、何も知らない笑顔。
綾乃に向けたものではない。
誰にも向けられない、私がよく知っている、いつもの優しい表情。
その表情を見た瞬間――
私の中で、何かが止まった。
(……拓実が、悲しむ)
彼の涙。
怒った顔。
私を見て、「どうして……」と呟く未来。
想像しただけで、胸の奥がズタズタに裂けるようだった。
(ダメ……そんなの、見たくない)
私は立ち止まった。
そして、深く息を吐いた。
──綾乃を消しても、意味がない。
彼が悲しむくらいなら、違う方法を考えなきゃ。
私の中で、思考が切り替わった。
あの夜、レイが現れたときのように、心の奥で“それ”が囁く。
「なら、心を縛ればいい。
拓実の世界を、私だけで埋めればいい」
彼の交友関係を減らす。
他人との繋がりを切る。
それは、きっと簡単なこと。
ほんの少し、彼の気持ちを揺らせばいい。
「君だけが必要なんだよ」
「他の人といると、疲れるんだ」
「由香とだけ話してると、落ち着くんだ」
そんな言葉を、私の口から自然に出させればいい。
そうやって、少しずつ、少しずつ、彼の世界を狭めていく。
──そして最後には。
彼の世界のすべてを、「私だけ」で埋め尽くせばいい。
もう誰もいらない。
友達も、職場も、未来も、夢も、何もかも捨ててくれていい。
『私だけを見て。』
『私だけを抱いて。』
『私だけを愛して。』
そうすれば、きっと――永遠に壊れずに済む。
その夜。
カーテンの隙間から漏れる街灯の明かりが、部屋をぼんやりと照らしていた。
静かな空間に、拓実の呼吸と、私の鼓動だけが響いている。
ベッドに並んで横になりながら、私は彼の胸元に顔を寄せた。
ぬくもりが、心の隙間にじんわりと染み込んでくる。
「……ねぇ、拓実」
私は声を潜めて囁いた。
まるで秘密の呪文を唱えるように、そっと、やわらかく。
「お願い……今夜は、私を……慰めて」
彼は一瞬だけ動きを止めた。
その沈黙が、永遠にも似た不安を私の中に落とす。
でも、次の瞬間。
彼の手が、ゆっくりと私の頭を撫でた。
「……うん」
ただ一言。
それだけで、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
拓実の唇が、そっと私の額に触れ、頬に落ち、やがて口づけへと変わる。
温度のあるその動きに、私の呼吸は徐々に乱れていく。
シャツの隙間から滑り込む指先が、肌の上をなぞるたびに、
まるでその触れた場所に、私という存在の輪郭が刻まれていくようだった。
(もっと……もっと深く、私の中にあなたを刻みつけて)
私の腕は彼の背中に回り、もう離れられないとでも言うように、力強く抱きしめた。
布越しに感じる心臓の鼓動が、私のものと重なっていく。
重なる体温。混ざる吐息。
拓実の動きはいつも通り優しくて、私を気遣うようだった。
けれど私は、それすらもどこか恐ろしく思えた。
(優しさなんかいらない。私だけを見て。私だけに溺れて)
深く、深く、奥まで――
その温もりが届くたびに、私の中が満たされていくのがわかった。
「……拓実、大好きだよ。世界で一番、好き」
私は耳元でそう囁いた。
その声が震えていたのは、愛のせいか、狂気のせいか……自分でももう、わからなかった。
「……うん。俺も」
そう言って、彼は優しく微笑んだ。
でも、その笑顔の奥にある小さな戸惑いにも、私は気づいていた。
(そんな顔しないで……ねぇ、お願い)
私の中で、もう何もかもが溢れ出しそうだった。
(私だけを、見て)
私は彼の背中に爪を立てるように、強く、強く抱きしめた。
そして、拓実の胸に顔をうずめながら、そっと囁いた。
「ねえ、拓実……ずっと一緒にいようね。他の誰とも、もう関わらないで……」
彼は少し驚いたように笑ったあと、静かに頷いた。
「……うん、もちろんだよ」
私は、その答えに深く頷いた。
でも、私は知っている。
彼のその頷きが、本当の“誓い”になるまで、私は止まらない。
──私の狂気は、もう戻れないところまで来ていた。
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