同棲
翌朝。
通勤電車の中、私はスマホを握りしめたまま、拓実のアイコンをじっと見つめていた。
何度も、何度も見返したトーク履歴。
既読のタイミング。絵文字の種類。返信の文調。
(昨日より、ちょっとそっけない……?)
その小さな違和感に、胸がざわつく。
「ねえ、拓実……今、どこで、誰といるの?」
本当は声に出したいのに、言えない。
でも、言えないからこそ、心の中で何度も何度も繰り返してしまう。
──そして気づく。
私はもう、彼のすべてを「見張って」いないと、不安でたまらなくなっている。
職場に着いても、仕事が手につかない。
スマホの通知が鳴るたびに、心臓が跳ねる。
でも、彼からじゃない通知が来るたび、奥歯を噛みしめそうになる。
(なんで返信、くれないの……?)
指が震えていた。
でもその震えは怒りじゃない。
“恐れ”だった。
失うことの予感が、何より怖かった。
だって、もう──彼がいなくなったら、私はきっと壊れてしまう。
夜、私は拓実と電話をしていた。
「……もし、嫌じゃなかったらなんだけど……」
「ん?」
「その……同棲とか、考えたことある?」
拓実は少し黙ってから、ゆっくりと答えた。
「……うん。由香がそうしたいなら、いいよ」
その言葉に、私はスマホを握る手が少しだけ震えるのを感じた。
喜びなのか、安心なのか、それとももっと別の──欲望なのか、自分でもわからなかった。
三日後の夜。
「ただいま」
彼の声がして、ドアが閉まる音がした。
私はキッチンに立ったまま、振り返らずに返事をする。
「おかえり。遅かったね」
「ちょっと会議が長引いて……」
そう答える彼の声が、どこか遠く感じられた。
(……本当に? 本当に会議? 本当に、会社にいた?)
問い詰めたい。でも、問い詰めたくない。
もし嘘だったら、どうする?
もしその隣に、あの女がいたとしたら?
(消せばいい。そうすれば、全部、私のものになる)
──まただ。
また“それ”が囁く。
胸の奥で、甘く、熱く、ささやき続ける。
(由香、あなたのものよ。ほら、すべて手に入れなさい)
私はゆっくりと振り返った。
笑顔を貼りつけながら、彼のコートを受け取る。
温かいぬくもりが、手のひらに残る。
(この温もりが、私だけのものだと信じたい)
だから、信じさせて。
お願い、裏切らないで。
あなたを壊さないために、私が壊れてしまう前に。
私たちは同じ部屋で暮らし始めた。
引っ越しといっても、私が拓実の部屋に荷物を運び入れるだけの簡単なもので、
家具の配置も、暮らしのスタイルも、ほとんど変わらなかった。
──だけど、私は知っている。
変わったのは、部屋じゃない。
変わったのは、私自身だ。
朝、目を覚ましたとき、隣に拓実の寝顔がある。
洗面所から聞こえる歯ブラシの音、リビングに差し込む朝日──その中にいる彼の姿。
そのすべてが、手の届く距離にある。
(これで、全部“私のもの”になった)
そう思った瞬間、胸の奥で“それ”が静かに笑う。
でも、満たされたのはほんの一瞬だった。
仕事から帰ってきた拓実のスマホが、通知で光るたび、
私は目を細めて画面を盗み見る。
たとえ見えなくても、誰からの通知なのかが気になってしかたない。
通知音の一つひとつが、私の心臓を締め付けてくる。
(綾乃?……違う。でも、女かもしれない)
(もしかして……会社の誰かとのやりとり?)
不安が喉の奥で膨れ上がり、呼吸を詰まらせる。
「ねえ、最近よくスマホ触ってるよね」
夕飯のとき、ふと私は口にしてしまった。
拓実は箸を止めて、少し驚いた顔をした。
「え? いや……別に、そんなことないけど。仕事の話とか、そういうのだよ」
「そっか……」
私は笑って見せたけど、もう信じられなかった。
“仕事”って言えば、なんでもごまかせると思ってる。
“仕事”の顔をして、誰かと繋がってるかもしれない。
(……なら、私が全部、見張らなきゃ)
その夜。
彼が寝静まったあと、私はそっとスマホを手に取った。
指紋認証が解除できなかった。
彼の寝顔を見つめながら、私はそっとその手を取り、スマホに当てた。
ロックが、外れた。
震える手でメッセージを開く。
スクロールするトーク履歴。
日付、時間、スタンプ、言葉の端々──全部、私の目に刺さる。
(いた……やっぱりいた……)
「……綾乃」
目の前にあるのに、タップできない。
指が震えて、画面の上で止まったまま動かない。
中を見れば、何かが壊れる気がした。
今ある“平穏”が、音を立てて崩れ落ちていく気がした。
(怖い……)
見れば、きっと“それ”が目を覚ます。
私の中の黒い何かが、もっと強く、もっと深く、根を張ってしまう気がした。
胸の奥が痛い。喉の奥が焼けつく。
(でも、見なきゃダメ……見れば、全部わかる)
(でも、見たら終わる)
相反する思いがぐるぐると頭の中で交差して、視界がじわりと滲んだ。
私は、綾乃とのやり取りを見ることができなかった。
ただ怖かった。知ることが。確かめることが。
“確信”よりも、“疑念”のほうがまだ、やさしい。
それと、知らない名前がひとつだけあったのに気付いた。女性の名前。
(誰?)
その相手とのやりとりは、たった数行だった。
仕事の相談。何もやましい内容はなかった。
──でも。
(必要ある? わざわざ、女に相談する必要……?)
私の中の“それ”が、また囁いた。
(潰せばいい。疑わしきは、すべて)
目障りな女。邪魔な存在。
すべて、彼のそばから消してしまえば、もう傷つかずにすむ。
彼は私だけのもの。
私だけを見て、私だけを考えて、私だけに触れていればいい。
それ以外の世界なんて、必要ない。
朝。
拓実が仕事に出かけたあと、私はこっそり彼のクローゼットを開いた。
シャツ、ネクタイ、スーツ。
そのどれもに、彼の匂いが染みついている。
私はシャツの一枚を手に取り、そっと顔を埋めた。
(全部、私のもの)
どこか満たされるようで、でもすぐに空っぽになる。
満たされるたび、もっと欲しくなる。
まるで、底なしの渇き。
“それ”はもう完全に、私の中で呼吸していた。
「……拓実」
私はひとり、誰もいない部屋でその名前を呟く。
「ねえ、ずっとそばにいて。絶対、離れないで」
声は甘く、でもどこか滲むように揺れていた。
──そう、だって。
もし、離れたら。
私はもう、自分を保っていられない……。




