嫉妬
「ねぇ、由香」
その声は、夜の静けさに溶け込むように、まるで風のように私の胸をなぞってきた。かすかに囁くようでいて、どこまでも確かに響いてくる。
私はその声に振り返ることもできず、ただ硬直して立ち尽くしていた。冷たい空気に包まれているはずなのに、汗ばむほどに心臓が高鳴っている。
「あなたが何に怯えていて、何を求めているのか──全部、もう知ってる」
その静かな声は、まるで私の心の奥深くに手を差し入れてくるようだった。
見られたくなかった場所に、無遠慮に指を差し込まれるような感覚。
私は思わず肩を強ばらせた。
レイの瞳が、そっと私を射抜く。優しさでも、脅しでもない。ただ、そこに宿っていたのは──“真実”だった。
見透かすようでいて、断罪するわけでもなく、ただ“そこにあるもの”を受け止めるだけの、澄みきったまなざし。
「だから、私は“選ばせる”ために来たの」
その言葉に、私は小さく息をのむ。空気が急に重くなる。
「この力が“いる”か、“いらない”か──それだけよ」
レイは静かに右手を差し出した。
その手のひらには、何もない。
それなのに、不思議なことに、“何か”が確かにそこに存在していると感じられる。
見ることはできないのに、触れたら、もう戻れないとわかってしまう。
理屈じゃない。本能が、皮膚の下で警鐘を鳴らしていた。
「これはただの選択。
あなたが“今”、ここで“いる”と答えれば、その瞬間から──すべてが変わる」
私の喉がからからに乾いていた。声を出そうとしても、言葉にならない。
その手の先に何があるのか、私にはわからない。
でも、心のどこかで、それをずっと──ずっと欲しがっていた。
誰にも言えず、認めることもできなかった“黒い感情”が、胸の奥でざわりと揺れる。
「どっちを選ぶ?」
レイは穏やかに問いかける。
「いる? それとも──いらない?」
夜の静けさが、世界の音をすべて奪っていた。
時計の針さえ止まったように感じられて、ただ私の心臓の鼓動だけが、強く、はっきりと響いていた。
一秒ごとに、自分の中の“何か”が答えを急かしてくる。
私は唇をかすかに震わせながら、ゆっくりと顔を上げた。
「……いる」
たった一言だった。
でも、その一言で、私の世界は確かに、音を立てて変わりはじめた。
その瞬間、レイの表情がふっと変わった。
深く、慈しむように──まるで幼子に微笑みかける母のような、優しく包み込むような笑み。
それは、怖いくらいに穏やかで、抗えない吸引力を帯びていた。
「わかったわ」
そう言って、レイは差し出していた手のひらから、箱のようなものを取り出した。
それは漆黒の宝石のように光を放ち、小さな手のひらにすっぽりと収まるサイズだった。
表面には、どこか有機的な流れを思わせる赤い文様が絡みついていて──
まるで生きているかのように、ゆっくりと脈打っているようにさえ見えた。
レイは静かにその蓋を開ける。
中から現れたのは、赤黒く脈動する“何か”。
それはまるで心臓のような形をしていたが、有機的というよりは“異物”だった。
血肉ではない、でも確かに脈打ち、そこに“意志”がある。見ているだけで、背筋がぞわりと粟立った。
「これは“嫉妬”の力。
欲望の中で、最も美しく──そして、最も恐ろしい感情よ」
その瞬間、赤黒い“それ”がふわりと宙に浮かび、私の胸元へと近づいてくる。
私は一歩も動けなかった。怖かった。でも、目を逸らせなかった。
逃げたいのに、身体が勝手に受け入れようとしている。
声も出ない。瞬きもできない。何かが、崩れる。
赤黒いそれが、すっと私の胸へ入り込んだ。
痛みはなかった。
でも冷たさと熱さが同時に押し寄せてくるような感覚。
まるで氷の刃を、火で炙りながら心臓に押し当てられたようだった。
頭の奥で、ざわざわと何かが目覚める。
視界が滲み、輪郭が揺らぎ、世界が色を変えていく。
「これで、彼は“完全に由香のもの”になる」
そう言い残して、レイはふっと霞のように姿を消した。
部屋には、もう彼女の気配すら残っていない。
ただ──私の中で、確かに“何か”が始まった。
朝が来た。
カーテン越しに差し込む光は優しく、どこまでも穏やかだった。
窓の外には晴れ渡った青空が広がっていて、通りを行き交う人々の姿も、昨日と変わらない。
けれど私には──すべてが違って見えた。
拓実の寝息。
その寝顔。
伸ばされた腕。
あたたかい毛布の下から覗く指先。
ひとつひとつが、異様なほど鮮やかに、くっきりと焼きついてくる。
(こんなに綺麗だったっけ……?)
違う。
変わったのは世界じゃない。私だった。
私の中に、もう「何か」が入っている。
静かに──確実に、根を張り始めている。
拓実の寝顔を見るたび、胸の奥で“それ”が囁く。
もっと見て。もっと触れて。もっと、もっと……
誰にも渡さない。誰にも近づけさせない。彼は私のもの。私だけのもの。
その囁きは、まるで甘い毒だった。
心の底に広がるこの感情が、どこか懐かしくさえ感じられる。
ずっとずっと、こんな気持ちを求めていたような気がしていた。
その日、会社帰りに拓実とカフェで待ち合わせた。
夕暮れ時の雑踏の中、カフェの照明があたたかく灯っていた。
ガラス越しに見える拓実の姿に胸が高鳴る。
彼がいる。それだけで満たされる。けれど、すぐに視線は隣の席へと吸い寄せられた。
──そこに、女の子がいた。
明るい色のコートを着た、若くて可愛らしい笑顔の子。
スマホをいじっていて、時折、周囲をちらりと見回していた。
そして一瞬、私たちの方を見て、にこっと笑ったように見えた。
(……誰?)
その瞬間、ざらり、と。
胸の奥で何かが軋む音がした。
おだやかだった景色が、急に灰色に濁った気がした。
ただ目が合っただけ。
それなのに、私の中の“それ”が、騒ぎ出す。
(邪魔……あんなの、いなくなればいい)
ぞっとした。
そんな思考が浮かんだ自分に、一瞬だけ戦慄する。
でも──それは本当に“一瞬”だった。
次の瞬間には、その感情が胸に心地よく沈んでいた。
まるでずっとそこにいたような顔をして。
「そんなはずない……拓実は、私のことを、ちゃんと好きなはず……」
私は小さく口の中で呟いた。
呪文のように、何度も繰り返した。
けれど、心のどこかでは気づいていた。
それが“祈り”であり、“願望”であり、
そして“確認し続けなければ崩れてしまう不安定な信頼”であることに。
拓実が私の手を取ったとき──温かいはずのその手に、私はなぜか凍えるような孤独を感じていた。
---
その夜。
ベッドに並んで眠るはずの時間、私は静かにスマホを開いた。
何をするわけでもなく、拓実のLINE画面をただ見つめる。
過去の会話を遡り、あの時のやり取りを確認していく。
そして──不意に、ひとつのメッセージに指が止まった。
【また近いうちに、あの件で会えたら嬉しいです】
送り主は綾乃。
日付は、数日前。
何気ない一文のはずだった。
でも、私の目にはもう、すべてが“敵意”に見えた。
(近いうちに、また会いたい……?)
頭の中で、何度もその文がこだまする。
行間に、意味を読み取ってしまう。
わざとらしい優しさ。婉曲的な誘惑。見え透いた距離の詰め方。
私の中の“それ”が、また囁いた。
──潰せばいい。
目障りなものは、全部。
拓実を奪う可能性のある存在は、すべて……この手で消してしまえばいい。
その考えが、怖いほど自然に私の中に広がっていく。
次の日。
会社の同僚が話しかけてきた。何気ない雑談。いつも通りの会話。
でも、彼女がふいにこう言った。
「最近、彼氏さんちょっと疲れてる感じじゃない? 仕事忙しいのかな?」
その瞬間、私の中で“それ”が目を覚ました。
(どうしてそんなこと言うの? あなたに、何がわかるの?)
笑顔を保ちながら、私は平静を装っていた。
でも、頭の奥では黒いざわめきが渦巻いていた。
(この女も、私の拓実に……?)
もう誰も信じられない。
誰も信用できない。
拓実に近づくすべてが、敵に見える。
拓実は私のもの。
全部、全部、私のもの。
私だけの、私だけの、私だけの……
──そのとき。
私の胸の中で、“あの黒い花”が、音もなく、しゅるりと咲いた。
ゆっくりと、確かに。
甘い毒を吐きながら、静かに──けれど確実に。




