疑心暗鬼
翌日も、その次の日も、私たちの日常は何も変わらなかった。
会えば普通に笑い合って、いつものように食事をして、なんてことない会話を交わす。
──でも、あのメッセージだけが、ふとした瞬間に頭の奥で繰り返される。
【こっちは大丈夫そう。あとは拓実くん次第かな、笑】
スマホの画面に浮かんだ文字列。
笑顔の絵文字が添えられたその言葉の、どこか浮ついた調子が、私の心に小さな棘を残していた。
「……ううん、考えすぎだよね」
そう言い聞かせるたびに、逆にその言葉に縋っている自分に気づく。
駅のホーム、信号待ち、コンビニで並んでいるとき。
何気ない沈黙の時間に、ふと頭に綾乃の名前が浮かぶ。
拓実は、いつも通りに優しくて、変わった様子なんてまったくない。
むしろ、そんな変わらなさが、怖かった。
──何かを隠している人ほど、平然とした顔をするのかもしれない。
そんな考えがよぎるたび、自分の性格が嫌になる。
「最近、ちょっと疲れてる?」
拓実にそう訊かれたのは、水曜日の夜だった。
「え……ううん、大丈夫。ちょっと仕事でバタバタしてただけ」
そう言いながら笑ったけれど、本当は違う。
疲れているのは、たぶん“信じたい”って気持ちと、“疑いたくなる自分”との板挟みに、ずっと心が揺れているからだった。
週末の予定を決めるLINEが届いたときも、私はすぐに返信できなかった。
《今週の土曜、またうちでゆっくりしない?》
画面を見つめたまま、しばらく指が止まる。
すぐに「うん」と打ち込めなかった自分に、また胸がちくりと痛んだ。
──今の私は、少しだけ臆病になっている。
何が怖いのか、自分でもよくわからない。
ただ、あのメッセージを境に、心の奥で何かが確かに変わりはじめた。
十二月に入った。
冷たい空気に街の明かりが映えて、駅前には小さなツリーやイルミネーションが並びはじめている。どこか胸が騒ぐような、落ち着かない季節。それでも私は、できる限り、いつも通りを装っていた。
──だけど、先週見たあのメッセージは、頭から離れない。
【綾乃】「こっちは大丈夫そう。あとは拓実くん次第かな、笑」
あれがどういう意味だったのか。何を“準備”しているのか。問いただすほどのことじゃない、そう思おうとするたびに、却って深く沈んでいく。
その週の終わり、拓実の家に行ったときのことだった。
私はキッチンのテーブルに水を取りに立ち、何気なく冷蔵庫の前を通った。 ふと目に入った、マグネットで留められた小さなメモ。
《12月16日(土)15時 綾乃さん・カフェ》
……一瞬、心臓が跳ねた。
(綾乃さん……カフェ? しかも土曜の午後?)
メモはごく普通の紙に、黒のボールペンで書かれていただけだった。でも、その一文が、私の思考にじわじわと影を落とす。
たしか、拓実は“仕事の相談”って言ってた。 でも、それならどうしてカフェ? どうして土曜日?
──仕事だったら、平日の昼間でもいいはずなのに。
しかも、拓実からそんな予定の話は聞いていない。
私の胸の奥で、何かが小さく音を立てた。ぱきん、と、透明なガラスに細い亀裂が入るような感覚。
「おまたせ」
後ろから聞こえた拓実の声に、私は思わず肩を跳ねさせた。
「ん、うん。お水、もらったよ」
何も見ていない、何も考えていない――そんな顔で、私はにっこり笑った。
でも、本当は。 そのメモの一行が、ずっと頭から離れなかった。
12月16日(土)――冬晴れ。
朝、ふと思い立って、私は拓実にメッセージを送った。
「ねぇ、今日の午後って、拓実の家行ってもいい?」
すぐに既読がつき、返事が届く。
> 「ごめん、夕方にちょっと予定があって……夜なら大丈夫だよ」
“夕方に予定”――
その言葉を読んだ瞬間、胸の奥に、妙なひっかかりが生まれた。
理由なんてわからない。ただ、あの綾乃の名前が頭をよぎった。
(やめようよ、そんなの……)
自分に言い聞かせるように心の中でつぶやく。でも、言葉は届かない。
私は立ち上がり、上着を羽織った。
知りたい。確かめたい。信じるために。
そう思いながら、ブーツのチャックを上げた。
---
午後三時前。
私は駅近くのカフェの向かい、通りに面した植え込みの影に身を潜めていた。
胸の中は落ち着かないざわつきでいっぱいだった。
そして、彼が現れた。
コート姿の拓実。その向かいに座る女性――綾乃。
ふたりは何かの書類を広げながら、穏やかに話していた。
笑い声がガラス越しに漏れ聞こえてくるような錯覚。
肩が自然と近づいていて、視線が絡むたびに、ふっとお互い笑う。
(なにを……話してるの?)
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられるように苦しい。
けれど、理由ははっきりしない。ただ、苦しい。それだけ。
なにかが変わってしまいそうな、そんな気がしてならなかった。
夜になって、私は拓実の部屋にいた。
「ちょっと寒いね」
「温かい飲み物入れるよ」
変わらない声、いつもと同じ仕草。変わらない“ふり”なのか、それとも私の思い過ごしなのか。
わからない。でも、その境界に立っているのが自分だということだけは、わかっていた。
そして、ベッドの中。
彼は隣で静かに寝息を立てていたけれど、私は目を閉じても眠れなかった。
(あのふたり、楽しそうだった……)
視界にちらつくのは、ガラス越しのあの笑顔。声も聞こえた気がした。
なんで、こんなに苦しいんだろう。
私は、何に怯えてるの? 何が不安なの?
正体のない感情が、胸の奥をうろうろと這っていた。
──カーテンが、ふわりと揺れる。
閉めたはずの窓が、いつの間にか開いていた。
冷たい空気とともに、誰かの気配が室内に入ってくる。
私がそちらに視線を向けると、月光に浮かび上がるように、誰かがそこに立っていた。
黒いドレスに身を包み、長い金髪をさらりと揺らす女。
右目は澄んだ青、左目は宝石のように輝く黄金――ふたつの瞳は、見る者の心を射抜くように鮮烈だった。
非現実的なほど整った顔立ちに、静かな微笑み。その美しさは、この世のものとは思えないほどだった。
背中からは、真っ白な羽がひらりと広がっている。その羽根は、月光の下でまるで輝く宝石のように光を反射し、異世界から来たかのような印象を与える。
その存在は、私の心の奥に忍び込むように微笑んだ。
「私はレイ──あなたの望むものを与える者」
その言葉は静かに、しかし確かに私の心に届いた。
瞳の奥が、私を見つめ続ける。
「ねぇ、由香……あなた、気づいてるはずだよ。何が、あなたをそんなにざわつかせてるのか」
私は小さく首を振る。何も答えられない。
けれど、彼女の言葉は、私の中の“何か”に、まっすぐ触れていた。




