夢 / メイ
──夢を見ている自覚があった。人生初の、明晰夢というやつ。
人も寄り付かない深い森の奥に、ぽつんと佇む小綺麗な小屋。あたしは蝶かなにかになって、小さく開いた窓から入り込む。小屋の中には煩わしいものはなにもなく、古そうな本の詰まった棚とロッキングチェアが目に付く空間。柔らかな日差しが丁度、その椅子の足元へと差し込んでいた。
ここまでは悪くない。むしろ良い。素晴らしい空間。森の奥深くというところが最高だ。
……だけども、椅子の上に座っている人物を視界に捉えた瞬間、あたしは思わず顔をしかめてしまった。今のあたしに顔があるのかは分からないけれども。
そこにいたのは二人の女だった。一つの椅子の上に、二人の女。
アッシュグレーの髪の女が、正しく椅子に座って本を抱いている。赤い髪の女が、その上に跨るように寄りかかっている。赤い女は、アッシュグレーの女へとひたすらに愛を囁いていた。好きだとか大好きだとかなんだとか、聞いているこっちがこっ恥ずかしくなるような蕩けた声音で、飽きもせずに延々と。そうしながらも指で相手の髪を梳いたり、どことも定まらず体中を撫でさすったり、あるいは首に両腕を絡めてみたり。べたべたべちゃべちゃ、大丈夫かこいつと思うほど、その赤い女はアッシュグレーの女に夢中だった。
反してアッシュグレーの女は、とにかく塩対応。愛の言葉を受け流し、触れてくる手を払い除け、抱えた本を読もうとしている。だけども赤い女があまりにもしつこいものだから字を追うのもままならず、しまいには溜め息を一つ二つ。
“メイ”“マリ”と呼び合う女二人のその様子が、あたしの前世の姿なのだと、なぜだか理解できてしまった。理由も根拠もなく、ただそうなのだという真理だけが頭に流し込まれている感覚。今日会ったばかりの転校生の顔が思い浮かぶ。赤いインナーカラーが、眼の前の光景に重なってちらつく。あいつの電波じみた妄言は、きっと妄言ではないのだろう。
「──」
「──」
赤い髪の女が、ついに本で頭を小突かれた。それでもめげずに、いやむしろ一層熱量を増しながら、アッシュグレーの髪の女へと囁きかけている。好き、大好き、と。
自分がこんな、頭の茹だったバカップルの片翼を担っていたなどとは認めたくない、ないけれども、眼の前の光景こそが真実なのだとあたし自身の心が言っている。恥ずかしいし、なんだか負けたようでくやしくもあった。
しかし同時に一つ、安心できることもある。
これもまた一つの真理、あるいは直感。目が覚めたときあたしは、この夢を覚えていないだろうという、そんな確信があった。覚えていないのであれば、それはないのと同じ。あたしが本当に彼女の……メイの恋人だったというのは、あたし自身にとっては電波な与太話のままだ。
それでいい。
だって、こんんんっなこっ恥ずかしい一面が、あたしにあるだなんて思いたくないから。
◆ ◆ ◆
「──…………」
なんとも癪に障る寝覚めだった。
理由は一つ、目を覚ました原因が、今しがたメイから送られてきたメッセージの通知音だったからだ。
〈おはよマリ〉
簡素な一言が送られてきたのは、つまり今の時間は、目覚ましのアラームが鳴る二分前。当然、あたしはメイに起床時間なんて教えていない。反射的にアプリを開いてしまったものだから、あいつの視点ではもう、メッセージに“既読”の二文字がついているはずだ。
〈なんとなく、このくらいの時間に起きてるかなーって〉
続けざまに送られてきた言葉にも、きっと同じように。
あたしは開きっぱなしだったアプリを閉じた。返信はしない。昨日、なんやかんやと流されてIDを交換してしまったときのぶんまで含めた、せめてもの抵抗だ。
「…………はぁ」
前世の恋人を名乗るやばい女が目の前に現れてから一日。
あたしは体を起こして、朝の支度を始めた。
◆ ◆ ◆
「おはよマリ。メッセージ見てくれてありがと」
こいつ無敵か?
既読スルーにありがとうと返すのが普通ではないことくらい、さすがのあたしにも分かる。だというのにこの女は、湿った声音に喜色を乗せて、そんなことを言ってきた。
ホームルームまでまだ少しある朝の教室で、あたしは登校した瞬間からメイに絡まれていた。まあ、席が前後ろなんだから、逃れようがないとも言えるけども。
「…………おはよ」
じっとこちらを見上げる視線に耐えかねて、最低限の挨拶を返しながら、鞄を机の上に置く。昨日もこれに負けて連絡先を交換してしまったのだ。
「うん、おはよう」
噛みしめるようにもう一度言う、その表情。愛情だとか幸福感だとか、そういうのが滲み出た微笑が、あたしにだけ向けられる。美少女と言って差し支えない顔の、眠たげな眼差しがふにゃりと蕩けている。
「っ」
こいつは電波女、それも前世の恋人だとか言って他人を巻き込むはた迷惑なタイプ。そう自分に言い聞かせる。普通に考えて、そんなやつと交流を深めるメリットはない。そもそもこいつと顔を突き合わせてやる道理もない。あたしは前を向いて席についた。
「ねぇマリ」
普通に話しかけてきやがった。無視して鞄の中身を机に収めていく。
「ねぇマリ」
「ねぇねぇマリ」
「マリ」
「マーリー」
語尾に“♡”でもつけてるのかこいつは。
そうとしか思えないほどに甘くしっとりとした声が、後ろから何度も名前を呼んでくる。張り上げているわけじゃない、むしろ囁き声に近い声量。客観的に考えれば特段の美声というわけでもないはずの、気怠げな声質。それがあたしの耳を濡らしていく。思わず指で自分の耳たぶに触れてしまった。本当に濡れていないか確かめてしまった。
無視されてもまったくめげる様子がなく、ずっと嬉しそうなまま、メイはあたしの名前を呼び続ける。マリ、マリと。
「…………」
こんな電波な女とは深く関わらないほうがいい。
そもそもあたしは生粋の人嫌い。近寄ってこられても鬱陶しいだけ。そのはずなのに、メイは明らかに、“他人”とは違う区分に入ってしまっている。あたしの許可も得ず勝手に。彼女の声や視線は、あたしの中の人間への忌避感にまったく引っかからない。それがなんとも恐ろしい。
「マリ、マリ、マリー」
「………………なに」
結局、あたしはまたしても耐えかねて、メイへと振り向いてしまった。
「べつに、呼んでただけー」
「…………」
バカップルみたいなことをするな。