ありがとう
雨でも振り始めたのかと窓の外を見上げてみたけれどそんなことはなく、むしろ雲の隙間からは日の光が差し込み始めている。この様子だとジャージはいらなかったかもしれない。
……まあ、うん、現実逃避はこのくらいが限界だろうか。
メイが、あたしが開けっ放しにしていた後ろの戸から教室を覗き込んでいる……のだと思う。声の感じからして。確かめたくない。色んな意味で振り返りたくない。
「く、櫛引ィ……ッ!」
怒っているのだか怯えているのだか分からない震え声を、目の前の女が漏らす。メイがそれをガン無視しているというのは、あたしへ一直線に向かってくる足音からして明らかだった。
「マリ」
「……あんた、いつからいたの」
「夜凪 まりは孤高で無敵で〜……の辺りから?」
「なんでよ。ほんの数分も一人で待てないわけ?」
「やぁ……マリがいなくなってすぐ、先生が二人組作れーとかいいだしてさ。マリ以外と組むのいやだったから、わたしもジャージって言って抜けてきた。そしたらなんか揉めてて、どのタイミングで声かけよっかなぁと」
……ほとんど全部見られていたってことか。同類であるメイの為と、まあ言えなくもない振る舞いを。ぶわっと、一気に顔が熱くなった。
「マリ」
「…………」
すぐ後ろからの声が果てしなく重い。いつも通りのローテンションであり、そしていつも以上の情が乗っている。耳だけでなく全身に纏わりついてくる。着衣水泳という言葉が脳裏をよぎった。
「ねぇマリ」
「…………」
振り返りたくない。今のメイはきっと、さぞかし調子に乗った顔をしていることだろう。あたしの表情がその正反対であることはいわずもがな。これほどこいつと顔を突き合わせたくないと思ったのは初めてかもしれない。
「マリってば」
「っ」
それなのに。こいつの、メイのあたしを呼ぶ声の、逃れられない誘引力。そっと手を引かれるように。あるいは無理矢理に顔を引き寄せられるように。
「マリ。ありがとう」
で、結局振り返ってしまって、顔を見るのと同時にシンプルな礼を言われた。
「う、っ……」
だけどもあたしはそれどころではなく……彼女の、思っていたよりもずっと純真な表情に目を奪われていた。怖いくらいに素直で、綺麗で、透明にすら見える微笑み。けれども同時に、長く長く堆積したモノの重量を感じるような、そういう顔をしている。メイの声や視線や仕草から時折感じていた質量、重み。それらの根幹の一部が今、垣間見えた気がした。
そして同時に思い出す。メイが脳みそ5G受信中電波女だと知る前──つまり、転校初日に教室に現れてから話しかけてくるまでの刹那の時間、自分がどれほどその顔に見惚れていたのかを。記憶の中のメイのいろんな顔が、目の前の彼女に重なって見える。
「──な、んで……なんでッ!」
……そして、メイのものではない声でそれが霧散する。薄ら煩わしい、ノイズのような音で。ちょっと、一瞬だけ、存在を忘れかけていたこの……あー、暫定カッター女としよう、うん。カッター女が血の気が上っているんだか引いているんだか分からない顔で噛みついてくる。
「そいつだって、そいつのほうが言ってることおかしいじゃんッ! 前世とか恋人とかアタマおかしいんじゃないの!? 」
ああ確かに、それに関してはまったくその通りというか、ぐうの音も出ない。
メイの言っていることはずっとおかしい。あたしだって普段から常々、こいつの言動を腹立たしく思っているし。
「そういうの“夜凪 まり”には必要ないでしょッ!?」
だけどもやはり。
これが一番ムカつくことではあるけれども……やはり、そうやはり、メイはあたしにとって同類なのだ。人間とは一線を画している。メイに対する感情の高ぶりと、他者に対する薄ら煩わしさは根本からして違う。
例えばうっすらと毛虫が嫌いな人物が、では毛虫に対して本気で腹を立てるのかと、あたしの人間に対する嫌悪感はそういうベクトルに近い気がする。今回は、その毛虫が知らないうちにズボンの膝辺りまで上ってきていて「うわきもっ」ってなってる感じ。たぶんきっとそんな感じ。自分でもよく分からないけれども。
それにまあ……べしょついた愛情を向けてくる人物と刃物を持ち出してくる人物、というふうに比べてみれば、どう考えても前者のほうがまだまともだろうし。若干のストーカー気質を差し引いたとしても。
そういうアレコレをどう目の前のカッター女に伝えるか……というか、こいつ相手にいちいち言葉を尽くすのも面倒に感じてきたな……とか、でもまだカッター持ってるわけだし一応は……
……とかごちゃごちゃ考えているほんの数秒のあいだに、あたしよりも早くメイが動いた。もう一歩進んで、あたしの隣に並んで立つ。
「……“夜凪 まり”はどうだか知らないけど」
語りかけている相手は視線の先のカッター女。だけれども、感情の向かう先は間違いなくあたし。声音で分かる。
「マリはべつに無敵じゃないよ。孤高でもない。わたしがいるから」
あたしの勘違いでなければ、その声にはいつもの情慕のほかにも、今までに見たことのない感情が乗っている気がした。ほんの僅かながらも確かに…………その、後悔、のようなものが。だけどもそれは一瞬で消え失せて、次の瞬間にはメイの声は今度こそ、他人へ向けるトーンに変わっていた。
「そういうわけだから、わたしのマリに変なこと言うのやめてね」
これもまた今までのメイが表出してこなかった、冷え切った敵意。横顔は無表情ながら明確に怒気を孕んでいて、あまり自分に向けられたい表情ではないなと、そう思った。案の定、カッター女が体を震わせる。
「ぅ、く……ッ、クソ、クソ……ッ!」
「「あ」」
で、走って逃げていった。ずっと開きっぱなしだった後ろの戸から出ていって、バタバタと荒れた足音が遠のいていく。授業中なんだけどなとか、どうでもいいことが浮かんではすぐに流れていって、いやまてそんなことよりもどうしても言いたいことがあって、あたしはすぐ隣に立つメイを見た。
「メイ」
「……マリ」
「…………」
「…………」
「……あんたこそ、変なこと言うのはやめてくれない?」
「わたしはずっと、本当のことしか言ってないけど」
「はいはい前世前世」
「ほんとだってばー」
刃物という物理的な脅威が去ったことで、教室の空気も幾分か弛緩する。あたしとメイの、二人しかいない空間の。
……うん、大丈夫。もうこいつの顔を見てもなんともない。
「ていうかこれ、先生とかに言っておいたほうが良いのかな」
「かもしれない……けど、あー、証拠がないわね」
「カッターで私物切られそうになりましたー、って言葉だけじゃ微妙か」
「世の中には加害者に仕立て上げるイジメ? なんてのもあるらしいし、学校側がどこまで聞き入れてくれるか」
「動画でも撮っておけば良かったかなぁ……」
カッター女はクラスメイト……どころかメイの隣の席なわけで、この場でなんとなく言い負かしてはいおしまいとはならないだろう。どう対処するかを話し合いつつ、とりあえずあたしたちは当初の目的だったジャージの上着を手に取った。正直もう羽織る必要がないくらいには、体温が上がってしまっていたけれども。それから、一応改めて、貴重品の類も肌身離さず持っておくことにする。メイの上着のポケットが露骨に、円筒状に膨らんでいた。
「あんたそれ、先生に絶対なんか言われるでしょ」
「しょうがないじゃん。大事なものなんだから」
「あっそ」
──そのあと、あーだこーだとやりとりしながらもグラウンドに戻り、体育教師の「遅かったけどなんかあった?」という言葉は一旦、適当に躱すに留めて。メイはポケットの膨らみを上手いこと隠していた。
……いやまあ、普通に授業に戻る辺りあたしもメイも大概図太い性格をしているのかもしれない。
授業終わりから下校までのあいだ、結局あのカッター女は教室に戻って来なかった。




