旦那様は白い結婚をお望みですか?
「アレイナ、君と閨を共にすることはできない」
結婚初夜。
寝室に入った夫となったばかりのレオンは、妻のアレイナを前に、開口一番そう告げた。
薄手のネグリジェを身に纏ったアレイナは、突然の宣言にこてんと可愛らしく首を傾げる。
「それは、白い結婚を望む、ということでしょうか」
なんと愛らしい姿なんだと、レオンは一瞬アレイナに目を奪われ固まりかける。けれど慌てて頭を振って無理やり硬直を解く。
「その、すまない。決してアレイナが悪いわけではないんだ。君を蔑ろにするつもりもない」
「では他に愛人がいらっしゃると?」
「い、いやまさか! そんなことはない! 断じてない!!」
心は恋人の元にあるから抱けないと結婚相手に白い結婚を強いつつ、正妻に家の仕事を全て押し付け、尚且つ恋人との間にできた子供を正妻に育てさせるようとする屑男が世の中にはいると、レオンは聞いたことはある。
けれど彼が今それを切り出した理由は、そのようなものではないのだ。
するとアレイナの瞳が悲し気に伏せられる。
「でしたらやはり私では、レオン様とは釣り合いが取れなかったということでしょうか」
この世から今にも消えてしまいそうなほどに儚げな姿に、堪らずレオンは叫んだ。
「違うんだアレイナ! たとえ結婚が決まった経緯がなんであろうと、俺は君のことを大事にしたい。だからこそ俺は、アレイナを抱くことができないんだ!!」
「それはどういう……」
涙で濡れかけた瞳を上げたアレイナは、再びことりと首を傾ける。そんな彼女に再度目を奪われつつ、レオンは至って真剣な口調で言った。
「アレイナの命を守るためだ」
と。
○○○○
レオンはこのドレイク国のバスティン辺境伯の次代当主である。
辺境伯は昔から領地内にある瘴気の森で発生する魔物の討伐にあたっており、この国を守る重要な要だ。
そしてレオンは、戦いに身を投じるこの地の人間たちの中でも群を抜いて強く、敵を容赦なく屠る姿から、ドレイクの若獅子と畏れられる男でもある。
鋼のように鍛え上げられた肉体を纏い、身長はゆうに百九十を超える。右目の目尻の辺りに古傷があり、いかつい肉体に似合う精悍な顔つきの持ち主だ。
一方のアレイナは、ミレニウム子爵家の三女だ。
実家は騎士を多く輩出しており、ドレイク国では脳筋一家と有名だ。はち切れんばかりの筋肉と暑苦しい性格が特徴のミレニウム家の面々の中で、けれどアレイナだけは異質だった。
一般的な女性の平均身長よりもかなり小柄で、風に吹かれれば折れてしまいそうに見える細い体躯。可憐な容姿は年齢よりも幼く見える顔立ちで、見る者の庇護欲をそそられ、ついたあだ名は妖精姫である。
そんな彼女との結婚は、レオンの叔父である現陛下、ライネルの出した王命により結ばれたものだった。
バスティン家に嫁入りした妹の子どもであり、甥でもあるレオンのことを、ライネルは非常に心配していた。
なぜならレオンはバスティン家を継ぐ身であるというのに、未だに婚約者が見つかっていなかったからだ。
理由はいくつかある。
まず、バスティン家の領地は王都から離れているうえに、魔物も出る危険な地域だと言われている。
とはいっても、ただ瘴気を纏っているからか少しだけその危険度が増すだけで、基本的にはその辺に出る獣と強さは変わらないし、出現数もそこまで多いわけではない。
それに、国境沿いでいくつかの国との境目にもなっている為、貿易も盛んで、かなり賑わっている地域でもある。
けれどやはり中央に住む貴族たちにとっては、危険な田舎だというイメージが未だに根強くあるのだ。
それにレオンに関する噂も、あまり芳しくない。
常に血に飢えていてひたすら剣を振り回す戦闘狂だとか、魔物すら逃げ出すほどの恐ろしい見た目をしているとか、その他諸々。
むしろ本人は血を見るのも敵と戦うのも苦手で、故に戦闘が長引かないよう、必死に訓練して短期間で戦いを終わらせられるほどの実力持ちになったのだが。
顔だって、よく見るとかなり整っているのに、緊張しやすい性格で、そうなるとすぐに表情が強張り、冷たさといかつさが増して余計に威圧感が増して怖く見えてしまう。その上大抵の人間を見下ろせるほどの巨体だ。
そんなわけで、レオンの花嫁探しは非常に難航していた。
けれども、バスティン家は建国当時から存在し、王族が嫁ぐほどの名家でもあるので、彼の家と縁を結びたい家も昔はいくつかあったのだ。
実際に一度とある伯爵家との婚約が結ばれたかけたことはある。
しかし彼の妻となるはずだったその令嬢は、レオンが王都へやってきた際の顔合わせの場において、レオンを前に気を失ってしまい、その話は流れてしまった。おそらく、人見知りが発動した彼の威圧感に当てられたのが原因だろう。
これにより、女性が気絶するほどに狂暴で醜く恐ろしい男なのだと更に悪い方へ認識されるようになり、バスティン家に娘を嫁がせようと名乗りを挙げる家がなくなってしまった。
そしてレオンの方も、気を失うほどに自分は恐ろしいのかとショックを受け、以降は王都へ行かず、領地に引きこもるようになり、遂には結婚はしないと宣言。子供は親戚筋から養子を取ると言う始末なのだ。
見た目の割に、レオンの性格はかなり繊細なのである。
妹にも相談され困ったライネルは、とある貴族に目を止める。それが、ミレニウム家だった。
貴族の中では比較的歴史が浅いものの、その血筋の人間は皆武に長けており、護衛騎士を務める者の中にも数名その血を引く人間がいる。
だがバスティン家と比べると家格が劣るため、当然ミレニウム家からバスティン家へ婚約の打診ができるはずもない。そしてレオンの方が、自身が結婚することに対して完全に閉じてしまっている。
そこでライネルは、ミレニウム家の当主であるバスクに話を持ち掛けた。
幸い婚約者の定まっていない娘が何人かいるし、ミレニウム家の男たちは皆、レオンに負けず劣らずの肉体の持ち主で、強面であり、鍛錬と剣を振り回すのを好む者も多い。
正直言って、バスクなどレオンが足元にも及ばないほど、凶悪な面構えをしている。髭を撫でながらぐふふと笑うところなど、悪の親玉にしか見えない。ライネルですら、恐怖を覚えて身震いするほどだった。
そんな彼らに囲まれて育った令嬢ならば、レオンを前にしても倒れたりしないのではないかと期待したのだ。
「ミレニウム家といたしましては、その話、是非に受けさせていただきたく思います。実は私の娘の一人が、レオン様に王都で助けられて以来ずっと懸想しておりまして、そのせいで未だに婚約者を作らなくて困っていたのです。ですので、レオン様と縁を結べるとなれば、娘もきっと喜びます。その上あの子は我が家でも最強と呼ばれるほどの娘ですので、きっとあちらでも役に立つかと思います」
彼には現在未婚の娘が三人いるが、上の二人は女騎士として活躍している。なるほど、最強夫婦の誕生である。
かくして、結婚することにトラウマを持つレオンを王命だからと無理やり納得させ、件の令嬢が彼の元へ嫁ぐことになったのだが。
「ミレニウム家の三女、アレイナです」
辺境へと旅立つ直前、バスクに連れられライネルに挨拶をしにきた娘を見て、彼は瞬きを忘れ、目の前でカーテシーを披露する少女を穴が開くほど凝視する。
確かに、あの家には未婚の娘が三人いる。
けれど三女がこの申し出を受ける可能性を、ライネルは完全に除外していた。
本当にこのバスクと血が繋がっているのかと怪しんでしまう。それほどまでに、アレイナは彼とはまったく似ても似つかない容貌をしていた。
とろりと滑らかな蜂蜜を思い起こさせる黄金色の髪は、少し癖っ毛なのかふわふわとしている。
瞳にはまるで宝石のように煌めく空色がはめ込まれていて、その澄んだ瞳は見ているだけで吸い込まれそうになる。
桜色に色付く頬も、それよりも赤く小さな可愛らしい形の唇も、全てが彼女の愛らしさを形作るパーツとなって、小さな顔にきゅっと収まっている。
全体的に小柄で、バスクと並ぶとその小ささが際立つ。
まるでこの世のものとは思えないほどに可憐で、その微笑みを見た者は、あまりにも無垢な愛らしさにでろりと相貌を崩すほどだ。
王都の学園を卒業したばかりで、当然姉たちのように女騎士でもなく、その儚げながらもあどけない見た目から妖精姫と呼ばれており、子爵家よりも高位の貴族からも彼女への婚約の申し込みが殺到していると聞く。
何かの間違いじゃないのか。そう思っても仕方のないことだった。
この妖精姫が、本当にあのレオンに惚れたのだろうか。
レオンの見た目に、初見で一目惚れするとは思えない。いや、よくよく見ればイケメンなのだが、如何せん纏っている筋肉とオーラがあれなので、すぐにはそれに気付けないだろう。
だが話を聞くと、レオンに惚れたのはどうやら本当のようだ。
きっかけは、王城で開かれていた王家主催のお茶会で、とある王子に絡まれていたアレイナを助けたのがレオンだったらしい。
周囲に人はいたが、相手が相手なだけに皆はひそひそと遠巻きにするだけで、アレイナは一人耐えていたが、レオンだけが声をかけた。
本当に声をかけただけである。それでも迫力があったのか、ひぃっと口から情けない声を上げて王子は逃げて行ったと。
ちなみにその王子はレオンの従兄であり、つまりライネルの二番目の息子だ。
この件を耳にしたライネルは、当然王家の人間としてふさわしくない振る舞いをした息子に激怒したが、それ以前にレオンの顔があまりに怖くて実はちょびっと漏らしてしまったらしい王子は、ライネルに言われるまでもなく猛反省しており、以来大人しくなった。
その時絡まれていた女の子は、気付いたらいなくなっていたと聞いていた。てっきりレオンの気に当てられ恐怖で逃げたのかと思っていたが、違っていたらしい。
「周りの人が見て見ぬふりをしている中で助けに入ってくれたレオン様に、私、一目惚れしてしまったんです。だけど顔を合わせるのが恥ずかしくて思わず逃げてしまって」
そう言って顔を赤らめるアレイナの表情に、嘘はない。
本当は、逃げてしまった謝罪と助けてもらったお礼をしに後でレオンの元を訪れる予定だったそうだ。
だが、レオンはその翌日に行われた顔合わせで、例の婚約者候補の女性にぶっ倒れられ、そのショックで寝込んだ後、社交シーズンの最中に王都からひっそりと出て行ってそれ以来王都へは来ていないため、会うことができなかったと。
なかなかいい相手を王命で選んだんじゃないかと、内心ライネルは考える。ついでに言えば、若かりし頃の愚かな息子が起こしたことへの罪滅ぼしにもなると。
しかし、バスクの言っていた、ミレニウム家において彼女は最強である、というのはどういうことなのか。
それに関しても尋ねてみるが、言葉通りだという。
あの馬鹿王子に迫られて以降、自分で状況を打破する力を身に付けるため、そして、もしも奇跡が起こってレオンとの婚約が決まりあちらへ嫁ぐことになった時に彼の力になれるようにと、その日からアレイナは強くなる特訓を始めたらしい。
だがこうして見る感じ、強そうには見えない。軽く押しただけで遥か後ろへ吹き飛ばされそうなほどに、か弱い。
レオンが抱き締めでもしたら、むしろ体中の骨がバキバキに折れてしまいそうである。
なるほど? では最強というのは戦闘的な強さを指すのではないのだと。
つまり可愛さは全てを凌駕するということを言いたかったのかと、ライネルはそう納得した。
色々と予想外であったが、とにかくレオンの結婚は決まった。
レオンの苦手とする、押しの強い上から目線の貴族の娘という訳でもなく、どちらかというとおっとりのんびりした娘のように見える。
レオンとも合うだろうし、彼のことを好いてくれているのならば、きっとレオンも幸せになれるだろうと、そんな期待を胸に、ライネルはアレイナの旅立ちを見送った。
○○○○
一方で、ライネルから王命での結婚相手として選ばれた令嬢について、早馬で届けられた手紙を読んで確認したレオンは、その場であわあわと動揺したように口をパクパク動かす。
「よよよ、妖精姫が、俺の結婚相手だと!?」
もう何年も王都へ出向いてはいないので見たことはないが、噂だけはこの辺境の地まで届いていた。しかも手紙には、彼女がレオンに惚れているとも書かれてあって、ますます彼は混乱する。
「いやいやいやいや何かの間違いだ。確かに人助けはしたことは何回かあるけど、みんな俺の顔を見て黙って逃げるか、もしくは悲鳴を上げて逃げるかで、そんな好きになった……みたいな子は一人もいなかったぞ」
レオンは顔は怖いが、中身は善人である。
だから、高位の貴族に無理やりまとわりつかれる下位貴族の娘、ごろつきに絡まれる女の子、怪しい集団に連れていかれそうになる幼子など、そんな人たちを前にすると、当然彼女たちを助けようと彼らと対峙し、そして撃退していた。
だがその見た目故か、助けたにもかかわらず、むしろレオンの方が危ない奴だと言わんばかりに悲鳴を上げられ、連行されたことは何度もある。当然すぐに誤解は解けるのだが、いつも地味に傷付いていた。
それでも挫けず困っている人がいたら手を差し伸べるのだが、その度に助けた本人に怖がられて連行されての繰り返しだった。
そしてその中に件の妖精姫がいたかは覚えていない。顔を覚える前にみんな彼の前からいなくなるので。
しかし手紙には、レオンに一目惚れした経緯がしっかり記されていた。
あの王子から女の子を助けた記憶はある。それが誰か確認する前に相手がいなくなるのもいつものことだった。
が、まさかその子が妖精姫で、レオンの元へ嫁いでくるなんて、あまりにも現実離れしている。
「だって俺だぞ。妖精姫を見たことはないが、並んでるところ見られたら間違いなく俺がまたしょっ引かれる事案だろう。ありえない、どうして相手なんてよりどりみどりの妖精姫が選んだのが俺なんだ。何かの策略か? もしくは夢? そうかこれは俺の妄想の一部で……」
「息子よ、少しは落ち着きなさい」
巨体を丸めてぶつぶつと呟くレオンの背中を、母であるターニャがバシッと叩く。
「とにかく、もう決まったことなのです。あなたも腹を括りなさい。私も王都で一度だけ彼女と話したことがありますが、見た目に惑わされがちですがなかなかに肝が据わっている子でした。あなたのように図体ばかりが大きい割に繊細なヘタレには、ちょうどいいじゃありませんか。お兄様もいい相手を選んだものです」
否定はできなかった。
確かにレオンはヘタレで、そしてビビりである。ハートも傷付きやすい。以前令嬢に倒れられた時、レオンはショックのあまり一週間ほど寝込んだ。
だが、レオンが何を言おうと、王命は覆せないのだ。
そして、それから三週間後。
ついにアレイナがレオンの前へ姿を現した。
「アレイナと申します。末永くよろしくお願いいたします、愛しい旦那様」
女神のように神々しく、聖女のように清らかな、それでいて幼子のように愛らしい笑顔で、開口一番そう告げられたレオンは、なんの反応もできずその場でぴしりと固まった。
なんだこの妖精は……。
人間界に本当に存在しているのかと、目の前にいるアレイナを、実は自分が作り出した妄想ではないかと疑ってしまったほどだった。しかも、少しでも力を込めたらうっかり潰してしまうかもと危惧するほどに、小さくてか弱く、繊細な見た目であった。
心臓は信じられない速さで鼓動を奏で、戸惑いと緊張から思わず叫び出したい衝動に駆られていたが、端から見たらレオンはそんな動揺が全く見えない無表情っぷりで、以前はこの段階で前婚約者がぶっ倒れたのだが、アレイナは違っていた。
「あの、レオン様? いかがいたしましたか? 体調でも悪いのですか?」
レオンの内情を知っている使用人たちですら、ひよぇと内心悲鳴をあげるほどに冷たく恐ろしい表情に見える彼に、アレイナはなんの躊躇いもなくひょこひょことひよこのように可愛らしい足取りで付くと、真下から心配そうにレオンの顔を覗き込む。
か、可愛い……。可愛すぎて頭がおかしくなりそうだった。
特訓をしていたと聞いたが、確かにこの可愛さならば、魔物もひれ伏すかもしれない。可愛いは世界を救う。
しかし心配させてしまい申し訳ないと思ったレオンは、なんとか唇を動かす。
「いや、なんでもない。君が気にすることではない」
緊張しすぎて、まるで不機嫌であるかのような、抑揚のない恐ろしく低い声が出た。しかも、心配されているのに、これではまるでそれが迷惑とでも言わんばかりの物言いである。
しまったと思い、思わず眉間に皺が寄る。
そうするとますますレオンの表情は強張り、彼女を怖がらせて不快な気持ちにさせてしまったかもしれないと後悔するが、予想に反してアレイナは気分を害した様子はなかった。
「それなら良かったです」
それどころか、ほっとしたように安堵の息を漏らしつつ笑顔を見せるアレイナ。
もはやレオンには、彼女が天使に見えた。
と同時に、こんな女性が自分の元へ来るなんてやはり夢かもしれないと、アレイナを屋敷の中へと案内する途中、思いっきり頬をつねってみる。
するとしっかり痛かったので、ようやくレオンはこれが現実だと認識した。
○○○○
さすがに長旅を終えて疲れているだろうし、色々と準備もあるので、結婚式は半年後に執り行われることになっていた。
その間にしっかり彼女との親交を深めろと、ライネルからの手紙にも書かれていた。そしてくれぐれも愛想を尽かされないようにと。
既に初手からやらかしているが、アレイナは気にしていないようだった。
それから時間をかけて、レオンは人見知りを発動しながらも、ゆっくりと彼女との距離を詰めていく。
いや、詰めてきてくれたのはアレイナの方で、彼女が怖がらずにレオンに接してくれたからこそ、彼も徐々に緊張が解けてきて、なんとか普通に会話ができるまでになったのだが。
アレイナと共に過ごす中で、彼女は色んなアレイナをレオンの前で見せてくれた。
例えば、あの見た目から、主食はほんの僅かな砂糖菓子と花の蜜なのではと本気で思っていたが、意外にもレオンと同じだけ食べる。
好きな食べ物は赤身肉らしい。血が滴るくらいの焼き具合が好きなんですと、花も綻ぶような笑顔で教えてくれた。
それから体を動かすことが好きなようで、日が昇る頃に起きるレオンと同じ時刻に彼女も起床し、早朝鍛錬をするレオンの横で、まったく同じメニューの筋トレを息切れ一つせずこなす。
その上兵達との模擬戦では、本当に羽が生えた妖精のような軽やかな動きでその場を駆け回り、見つけた兵たちの弱点を躊躇いなく一撃で突く。
「レオン様、勝ちました!」
悲鳴を上げながら地面で悶絶する負けた兵を尻目に、手にした勝利に無邪気に喜び飛び跳ねるアレイナはとても可愛く、見ているレオンの顔も自然と緩んだ。
他にも、現れた野犬の群れを前にあの天使の微笑みを浮かべて視線一つで服従させて、バスティン家の忠実な番犬にしてしまったり。
一度見ておきたいからとせがまれて連れていった瘴気の森に現れた魔物を、レオンが握ったらすぐに壊れてしまいそうなあの小さな拳一つで倒してしまったり。
その帰り、土砂崩れが起こって大きな岩で道が塞がれて、反対側に行けず困っていた領民の為、荷物と領民を同時に肩に担いで岩を飛び越えて運んであげたり。
その後でアレイナの身長の何倍も大きく何倍も重そうなその岩を、えいっ! と可愛らしい掛け声をかけてやっぱり一撃で粉砕してしまったり。
アレイナを知れば知るほど、レオンの中で彼女の存在が、どんどん大きいものになっていく。
が、それと同時に不安になる。
以前に彼女を助けたことで、それ以来ずっと惚れられていたとは聞いていたが、今現在、レオンはアレイナにカッコいいところの一つも見せられていない。
ただ一緒に筋トレをして、走り込みなどの鍛錬に励み、食事をして、次期辺境伯夫婦として領地経営をする両親の手伝いをして、その合間にアレイナ主導で他愛もない会話をして、そして時には領民の元へ顔を出したり、瘴気の森へのパトロール兼デートに向かう……という日常を繰り返しているだけだ。
こんな自分で、本当にアレイナは満足できるのだろうかと、鬱々とした気持ちが芽生えてくる。
そして気になることはもう一つ。
もうすぐ結婚式が行われる。その後には当然初夜があり、貴族として跡継ぎを作るという目的の為、果たさなければならない責務だ。
レオンとて気になっている女の子が相手なので、義務とか云々以前に、純粋に抱きたいとは思う。
が、アレイナはやはり細くて小さく、対するレオンは身長も高く体格もがっちりしている大男だ。
いくら優しく扱おうと、相手は吹けば飛んでしまいそうなほどにか弱い女の子なので壊してしまうかもしれないと、本気で心配していた。
冗談抜きで、自分が抱いたら死ぬかもと。
だって彼女は妖精だ。所詮人間に過ぎない自分がもし悪戯に触れてしまったら、神の怒りを買い、妖精姫は神の元へ戻され、永遠にレオンの前から姿を消すかもしれない。
「どうしたんっすか、レオン様。もすうぐ念願の結婚式だってのに、ため息ばっかりなんて」
レオンのブルーな気分を察した兵の一人が、悩みなら聞きますよと声をかけてくれたので、本当に、真剣に悩んでいるレオンは正直に打ち明けてみた。
だが、返ってきたのは何とも言えない微妙な表情だった。
「いや、レオン様、確かに俺たちも初めて見た時は似たようなこと思いましたけど……。こんだけ一緒にいてアレイナ様を見てきたのに、それ、本気で言ってます? あとアレイナ様、人間ですから。しかも俺らよりよっぽど頑丈な方の」
どうも彼の本気の悩みは伝わらなかったらしい。やはり他人事だからなのだろう。
であれば、自分で何とか解決策を見つけ出すしかない。
そしてレオンは、夜も眠れぬほど考え、考え、考え、辿り着いた答えが、『生涯白い結婚を貫く』というものだった。
だからといって、アレイナを蔑ろにするつもりはない。いわばこれは、一生彼女を大切にするための策なのだから。
子どもは欲しいが、アレイナの命を散らしたくはないし、アレイナ以外と子を為すつもりは微塵もなかった。
跡継ぎの件は以前考えていた通り、親戚筋から養子をもらおうと決めた。
あとはこのことをアレイナ本人に伝えるだけだ。
そうしてやってきた初夜の日。
レオンはアレイナに、白い結婚を告げたのだった。
○○○○
「えーと、つまり、レオン様は私に愛想を尽かしたわけではないということでしょうか」
場所を部屋の中央に置かれたソファへと移動し、白い結婚に至るまでの経緯を説明し終えたレオンを前に、彼の横に座るアレイナは目をぱちぱちと瞬かせながらレオンに確認を取る。
瞬きするたびにふぁさっと揺れる彼女の長いまつ毛に見惚れていたレオンだったが、彼女の言葉に我に返り、勢いよく頷く。
「勿論だ!! ……むしろ俺の方が君に振られるかもしれないと怯えていたほどだ」
そう言うと、レオンは自嘲気味に笑う。
「俺はこの通り、何かあったらすぐにうじうじ悩んでしまうし、自分からはろくに会話の話題も投げかけられない情けない男だ。自慢できるものといったらこの肉体ぐらいだが、未だに魔物と対峙すると怖くて逃げだしたくてたまらない。なのに君ときたら、こんな俺にも笑顔で接してくれて、その上敵が現れても臆することなく倒してしまう。可憐なだけでなく、肉体も心も強い君に、惚れこそすれ愛想を尽かすはずがないじゃないか」
「レオン様……」
すると彼をじっと見つめていたアレイナが、嬉しそうに頬を緩めながら彼の大きな掌を、小さな彼女自身の掌でぎゅっと握った。
突然触れられ、レオンは全身見る見る間に真っ赤に染まる。
「な、なな、なにを!?!?」
けれどそんなレオンに構わず、アレイナは彼のごつごつした手を自分の頬へ持ってくると、愛おしそうな表情を浮かべてすりすりしながら、小鳥の囀りのような愛らしい声で言った。
「レオン様のことが、やっぱり好きだなと思いまして」
己の手があのアレイナの顔に触れていることに、心地よさと恥ずかしさで体中から水分が蒸発しそうになるが、そんな彼をよそにアレイナは続ける。
「レオン様。確認ですが、白い結婚にしたい理由は、私を嫌っているからでも他に恋人がいるからでもなく、純粋に私の体を心配して、という認識でよろしいですか?」
「あ、ああ」
「では私が妖精ではなく、レオン様が抱いても壊れない人間だとレオン様に理解させたら、何の問題もありませんね?」
「そ、そうだな」
するとここでアレイナは、にっこりと笑う。
「では今から証明いたしますね」
そう言って彼女はレオンの手を離し、立ち上がると、彼の前までやってくる。そして、何をするのだろうかと戸惑いの表情を見せるレオンの体に手を伸ばし、そのままひょいと軽く持ち上げた。
いわゆる、お姫様抱っこである。それも、抱かれているのが巨体のレオンで、抱いているのが小柄な妖精姫なので、見事に体格も男女も逆転している。
「そんなことをしたら君が潰れてしまう!!」
アレイナの何倍も重いレオンを、けれど彼女は涼しい顔で抱き上げたままベッドまで運ぶと、そのまま彼の体をぽいっと横たえ、彼の上に乗る。
「大丈夫です。ほら、潰れていないでしょう?」
「あ、そ、うだな。それは良かったが……」
なぜだろう。可憐で可愛い笑顔は変わらないのに、アレイナの視線を受けたレオンの体がぶるりと震える。
「あの、アレイナ……何をする、つもりだ?」
「さっきも言ったではありませんか。私が簡単には壊れない証明をするって」
「や、待て、」
「安心してください、優しくしますから」
「しかし君が天に召されでもしたら……」
「レオン様に天国を見せてあげられるように頑張りますね」
これはもしかして、アレイナは初夜の本来の目的を果たすつもりなのではという考えに至り、慌てて止めようとするが、
「黙って」
そのまま唇を奪われ、レオンはアレイナの前になす術もなく陥落した。
翌朝。
熱を全て放出したせいか、体が重い。けれどいつもの習慣からか同じ時刻に起床したレオンが隣を見ると、明るい空色の瞳と目が合った。
「おはようございます、レオン様」
昨晩嫌というほど分からされた。確かに見た目ほどか弱くはなかった。そして人間だった。
レオンは腕を伸ばすとぎゅっと抱きしめる。
「生きてる……」
「当たり前じゃないですか」
そんな彼の背中に、アレイナが腕を回す。体格差のせいで全然届いてはいないが、温もりを分け合っているだけで幸せな気持ちで満たされる。
「良かった。本当に良かった」
「……私も、レオン様と結ばれることができて本当に良かったです。この体を見たら引かれてしまうかもと危惧しておりましたので」
「体……ああ、あのことか」
レオンは昨日見たアレイナの肉体を思い出す。
「いや、見事な腹筋だった。むしろあまりの美しさに惚れ惚れしてしまったほどだ。他の部分も素晴らしかった」
普段は服に隠れて見えない部分は、その外見からは想像もつかないほどしっかりと鍛え上げられていた。
正直、一緒に鍛錬をしている兵たちの何倍も仕上がっていて、あれならばレオンを難なく持ち上げられるのも理解できた。
「あそこまで見事な筋肉を作るのは大変だったろう。君の努力には頭が下がる。……俺も負けてられないな」
そうと決まれば早速鍛錬に勤しむかと、名残惜しいがアレイナを離してレオンは体を起こす。
「どうする、君は疲れているだろうしまだ寝ていても」
壊れなかったとはいえ、女性には相当な負担だったろうとレオンは彼女の体を労わる言葉をかけたが、アレイナは平気ですと答えて元気に飛び起きる。
「いいえ。私も起きて、レオン様と一緒に鍛錬したいです」
窓から差し込む朝の光の中、微笑むアレイナの笑顔の破壊力に、レオンの胸はこれまでと変わらず高鳴り、そして思う。
妖精でなくとも、自分の妻はやはり最強に可愛いことに変わりはないと。
ドレイク国には、最強と名高い夫婦がいる。
夫であるレオンは、ドレイクの若獅子として元よりその強さは有名だったが、彼に嫁いだ妖精姫と謳われる可憐なアレイナがそんな男に匹敵するほどの実力があったとは誰も思っておらず、皆の度肝を抜いた。
アレイナの実力を目の前で体感した者たちは、見た目とのあまりの違いに恐れ慄いたが、最強夫婦の片割れであるレオンだけは妻を見る目は変わらず、生涯可愛さに頭が上がらなかった。