最後の夜
「……なんでそんなに見るんだ……、エマ」
おじさんの手が、スプーンを持ち上げたまま、ぴたりと止まった。
しまった、食事中に見つめ過ぎたか。
「いやあ、左利きだったんだなあと思って」
「ああ……手を見ていたのか……」
おじさんは、何故か少し赤面していた。
それからおもむろに右手を持ち上げ、顎の下で空をかいた。
よく見る仕草だった。髭を揉む仕草。でも、もはやそこに髭は存在しない。
おじさんは気まずそうに右手を下ろして、スープを啜った。
「てことはもしかして、剣も左手持ち……?」
「ああ、そうだが」
「えええ……」
ということはつまり、手負いの体で、しかも利き手ではない方の手で、あれほどの実力を発揮していたということか。
「なんだ……?」
「いやあ、今のおじさん、ものすごく強いんだろうなあって思って」
「……」
おじさんの右手がまた持ち上がり、ちょっと彷徨ってから、後頭部を掻いた。
「本当に、あんたは天然で――……」
おじさんが、口の中でもごもごと呟く。かと思えば、また、ぴたりと体の動きを止めた。私の方を見つめている。
「……なんですか?」
「……指輪」
「指輪?」
「全部の指につけているんだな」
「ああ……。まあ、そうですね。魔道具は、備えておけば何かと便利なので」
「……左手の薬指も、魔道具なのか?」
「そうですよ。右手のこれと、対になっていて、服のサイズを自動調整してくれるんです」
言うなり、おじさんは大きく息を吸った。そしてそれを、「はああ…………」と大仰に吐いた。
「なんですか、そのため息」
「いや……安心して、つい」
「はあ」
そりゃまあ、安心は安心だけど。
右手の指輪が完全に壊れても笑っていられる自信があるが、左手の指輪が不調を来した日には、少しくらい泣いてしまうかもしれない。
「まあ、とにかく。この二つの指輪を使って、仕事中の私は『トーマス』になるわけです。さっきも説明しましたけど、決して、おじさんを騙そうとして男になっていたわけではない、ということです」
食事前に本名を明かして、軽く事情は説明していたものの、一応もう一度念押ししておく。
凄腕イケメン剣士から何かをだまし取ろうとしていたわけではない、と。かつてどんな女に煩わされたのか知らないが、私は(多分)彼女達とは違うのだ、と。
私は至極真剣だったが、おじさんは、「ああ……」と気のない返事をして、頭を横に振った。
「それは、全然疑っていない。ただ……」
「ただ?」
「その……そろそろ、おじさんはやめてくれないか」
「はあ」
「つまり……ハリスンでもハリソンでも良いから、名前で呼んでくれないか……?」
ああ、なるほど。ごもっともな意見だ。
ひょっとすると、おじさんは、私とさほど年齢が変わらないのかもしれない。
今の私が、こんな艶のある美丈夫を「おじさん」と呼んでいるのは、かなり妙な話だった。
「わかりました、」
よし。
口をはっきりと開け、大げさなくらいに動かして発音を試みる。
「――ハリスンさん」
言えた!
「やった! 言えましたよ! ハリスンさん!」
大人の舌なら、この難しい名前だって、正しく発音できる!
嬉しくなって、「ね、ハリスンさん」ともう一度言うと、
「ああ」
と返って来た。
また右手が泳ぎ、ついでに目も泳いでいる。
「あれ? 間違ってました?」
胸の中で膨れ上がっていたものが、しょぼしょぼと萎む。
おじさん――もとい、ハリスンさんは、ぶんぶんと頭を振って答えた。
「いや、合ってる!」
その語気と同じ勢いでもって、右手の進路をグラスへと変更したかと思うと、そのままごくごくと勢いよく水を飲み下し始めた。
合ってるなら良いけど……大丈夫かな、ハリスンさん。
よくわからないけど、またぐるぐると何か考えているのかもしれないな。
……そっとしておこう。
女嫌いじゃないにしても、女好き――というか、人好きには見えないから、色々と思うところがあるのかもしれない。
私は、ハリスンさんから視線を外し、スープを口へ運ぶ作業に集中した。
ハリスンさんが街で買ってきてくれた、具沢山の、華やかなスープ。
「うーん、これも、すごい……」
すごく美味しい。
次の任務の時も、この店に寄りたいな。
だけど……。
だけど、気付いてしまった。
次にこの街を訪れる時、きっと私は一人なのだろう。一人で店に並んで、一人でスープを啜るのだろう。
その時私は、このスープを美味しいと感じられるのだろうか。