(元)少年と(元)おじさん
――瞼の裏に、慌てふためくおじさんの像が焼き付いてしまった。
……おじさん、動揺しすぎじゃなかろうか。見た目が変わったって、私は私なのに。昨晩も同じ部屋に泊ったというのに、今更、私が同室を嫌がるとでも思ったのだろうか。
……うーん、これの考えは、私の主観的すぎるのかな?
おじさんからしたら、幼い男の子だと思っていた者が、突然妙齢の女性になったわけだし。
……あれ? というか、おじさん、女嫌いなんだっけ?
――となると、これは、重大な案件だ。
思い至るやいなや、がばりと身を起こした。そうすると、思い出したかのようにまた、そこかしこが鈍く痛みを主張し始める。
とはいえ、目覚めてから時間が経ったおかげか、先程よりは幾分ましに感じられた。
兎にも角にも、あの指輪が必要だった。あれには、もう少し仕事をしてもらわねばならない。
昨日から着替えていない衣服の、そのポケットに手を突っ込む。まずは左を、それから右を。小さな袋の内周を、左右それぞれの手でぐるりと一周撫ぜる。
「……あれ?」
もう一周、手を動かす。
けれども、結果は変わらなかった。指先は、布地以外の何物も捉えることができなかった。
「あれー……」
……はたして、最後に指輪を手にした後、私はそれをどうしたんだっけ。何分疲れていたものだから、記憶が曖昧だ。
どこかに落ちてはいまいかと床に視線を巡らせ、あるいはベッドの上に転がっていないだろうかと布団の下を覗き込んで見る。でも、やっぱり見つからない。
うーん、と唸り、駄目元で、枕も持ち上げてみる。
「あ!」
探し物は枕の下――にはなかったが、たまたま目に入ったヘッドボードの上に、静かに佇んでいた。
まさか、こんな所にあるとは。
おそらくは、おじさんが拾って置いてくれたのだろう。ひとりでに転がり落ちたということはあるまい。
ありがたく指輪を手に取りながら、はたと気が付いた。ヘッドボードのあるベッドなんて、いつ以来だろう。
首を回らせて、部屋の隅々に目を向けて見た。
ベッドだけじゃない、他の調度品も見るからに質が良くて、それなりに値の張りそうな部屋であることに今更ながら気が付いた。昨晩の宿とは、全然違う。
私の体を気遣ってくれたのかもしれない。女なんかのために。
ため息をつきながら、左右の手を、眼前に持ち上げた。
左手でつまんだ指輪を、あるべき場所へと収める。
すぐに両手がふくふくとした姿へと変貌するのを見て、ほっと胸を撫で下ろした。
良かった。スクラップになる日は近そうだが、性別を保てるだけの力は、まだ残っているみたい。
これ以上することも思いつかず、そのまま仰向けにベッドに倒れて、目を閉じた。
それから、少しの間、うとうとしていたのだと思う。軽いノックの音で覚醒した。
おじさんが帰って来たのだろう。
半身を起こして、目を擦る。
ゆっくりとドアが開く様をぼんやりと眺めていると、隙間から、ぬっと男の姿が現れた。
「え!?」
私が声を上げたのとほぼ同時に、対峙した相手も「え!?」と言った。
知らない顔だった。部屋を間違えた、隣人か何かだろうか。そういう状況に相応しい表情を浮かべているようにも見えた。
何とも妙な、気まずい空気が流れた。
適当な言い訳を考えているのか何なのか知らないが、男は黙って突っ立ったまま、なかなか出て行ってくれない。
――それどころか、ついに、部屋の中へと足を踏み入れてきた。大荷物を抱えて、後頭部を掻きながら、何も言わず。
「あのう……清掃の方、ですか?」
そんなはずはないだろう、と思いつつ、他にどう切り出せば良いか、わからなかった。
どうにも様子のおかしい男なのだ。
「え……、いや、俺だ……」
気まずそうな声が返って来た。それでようやく、合点がいった。
「なんだ、おじさんか」
その声も、それから背格好も、私が知るおじさんのそれだった。ただ、服装がいやに垢抜けてスタイリッシュで着痩せして見えるのと、そして何よりボサボサだった髪と髭がばっさりと切り落とされているせいで、誰だかわからなかった。誰がわかろうか。
「なんだ、か……」
おじさんはそう言って、眉をひそめた。その仕草すらも様になっている。
――つまり、そう、私は本当に、合点がいったのだ。
おじさんはきっと本当に、モテてモテて大変だったのだろう。別に、はなから疑ってなどいなかったけれど、髭の下に隠されていた見目が、想像以上だった。こんなにも美丈夫だったのか。女性に囲まれている姿も容易に想像できる。
うんうん、と納得していると、おじさんは困惑したような顔で口を開いた。
「いや……それよりなんであんたはまた、その姿になっているんだ? その……女性の姿が本当の姿なんだろう?」
そう言えば、まだ私の口から説明できていなかったな、と思い出した。
だからだろう、おじさんの言葉はどこか歯切れが悪く、ほとんど確信しているけれどまだ僅かに疑いが残っている、という風に聞こえた。
「まあまあ、雇い主はこの『僕』なんで」
にっこり笑って、だから安心してがきんちょ扱いして下さい! と、暗にそう伝えたつもりだというのに、おじさんの表情は曇ったままだった。
「いや、しかし、姿を変えるには、魔力がいるだろう……」
もしかして、まだ、私の魔力切れの心配をしてくれているのだろうか。でも、
「別に、これくらいは、全然」
たっぷり寝て回復しているし、もともと指輪の魔力の消費量は、さほど多くないのだ。
「だからと言って、なんで、わざわざ……」
おじさんはそこで言葉を止めて、はっと目を見開いた。
「もしかして、女の姿だと俺に襲われる、とでも思っているのか!?」
「ええ!?」
「俺は断じて、そんなことはしない。同室にしたのだって、本当に、下心とかじゃないんだ、いや、そりゃちょっとは離れがたい気持ちもあったけど、でも、俺は本当に心配して――」
「ちょ、ちょっと待って!」
またしても、変なスイッチが入ってしまったようだった。
せっかく姿を戻したというのに、何故こうなってしまうのか。
「ちょっと待って、おじさん。おじさんが私を襲うだなんて、1ミリも思っていないから」
「じゃあ、何でまた……」
「なんでって……」
むう、と唸ってから、はあ、とため息をついた。
誤魔化せないからと言って、これ以上嘘をつきたくはない。
仕方あるまい。
「おじさんが女嫌いだから、気を遣ったんですよ」
ああ、皆まで言うつもりはなかったのに。また変な空気になってしまいそう。
とりあえず狸寝入りしよう、と頭から布団を被ったところで、「ち、違う!」と声が降ってきた。……まだ、続けるつもりなのか。
「違う……?」
僅かに布団を持ち上げて胡乱な視線を向けると、おじさんが「あ、あれは、忘れてくれ!」と真っ赤な顔でおたおたしているのが見えた。
あれ……。ああ、「あれ」ね……。
少年には理解できまい、と口にしたであろう恋愛観は、成人した女性の耳には、たしかにちょっと痛いというか、小っ恥ずかしい内容として聞こえた。……なんだか、申し訳ない。悪意あって姿を偽ったわけではないのだけど、おじさんのプライドを、少なからず傷つけてしまったのかもしれない。
「だから、その、俺はあんたに危害を加えるようなことはないから、つまり――ダリャルバンはそのままの姿でいてくれれば良い」
――やっぱり名前、覚えていてくれている。
その事実は、ぐさりと私の心に刺さった。
――私の良心に。はあ。指輪に手を掛ける。
「ごめんなさい、それ、偽名なんです」
仕方なくのそのそと布団から這い出すと、おじさんの目が丸くなって、それから少し細くなった。
「じゃあ、本当の名前を教えてくれ」