事変
――まさか。
まさか、こんなことが起こるなんて。
私が護衛を雇ったのは、体裁的な目的のためだった。暴漢に襲われると思っていたわけではないし、ましてやそれ以上のものに襲われるだなんて、露ほども思っていなかった。
だのに。
最初に感じたのは、いやに重苦しい魔力だった。
次いで、おじさんが固い声で「下がれ」と言って、私を後ろへと押しやった。
それから何秒と経たないうちに、寸分先の地面がぼこぼこと沸騰するように湧き上がり、異形が現れた。
「なんでこいつが、こんな所に……」
おじさんが、私の気持ちを代弁するように言った。
これは、マッドマン――……なのだろうか……? こんな人里から近い場所に……? あるいは、環境に適応した亜種なのか?
異形は、粥状の腕のようなものを振り回して、襲いかかってきた。いつの間にか抜き身となっていたおじさんの剣が、それを受け流す。
スピード、パワー共に、マッドマンの平均個体相当。――私の目にはそのように映ったが、おじさんは、「う」と小さくうめいた。
「お、おじさん」
様子を見ようと乗り出したところで、「下がってろ!」と鋭い声で怒鳴られた。一瞬見えた横顔には、玉のような汗が浮かんでいた。
おじさんは、細かく震えていた。
攻撃を受け止めたのは右手に握られた剣だというのに、その震えは、左腕を中心に広がっているように見えた。おかしな震えだ。身震いでも、武者震いでもない。
返す言葉が、出てこなかった。冷ややかなものが、胸を掠める。
――おじさんを苦しめているのは、マッドマンではないのだ。おじさんはマッドマンより強いに違いない。でも、今のおじさんはマッドマンに勝てない、きっと殺されてしまう――。
ミシリ、と手元で音がした。
無意識に握りしめた拳から、魔力が漏れ出していた。その熱く滾った魔力に、壊れかけの指輪が悲鳴を上げている。
ふーっと詰めていた息を吐いて拳をほどき、一思いにその枷を抜き取ると、幾分体が軽くなった。
そのまま、前へと足を踏み出す。おじさんと横並びの位置についたところで、また、「おま……!」とがなる声が聞こえた。
おじさんは、横目で私を睨みつけていた。そして、その状態のまま固まっていた。
でも、それも束の間のことで、グシャ、という不快な音が響くのと同時に、おじさんの体は再び息を吹き返した。機敏な動きで前方へと視線を戻すと、「は……何が起きているんだ……」と呟いた。
おじさんの眼前で、マッドマンの体の一部が、地面から生えた岩壁にぶつかり、潰れていた。
けれども、潰れて見えるだけだ。もともと不定型な体には、ダメージなんてほとんど入っていないに違いなかった。
「私が、少しでも隙をつくります。その間に、どうにか核を潰して、息の根を止めてくれませんか」
一時見開かれた目が、すっと細くなる。それから、首がゆっくりと縦に振られた。
おじさんは、立っているだけでも辛いに違いない。なのに、何の迷いもなく頷いて、何の恐れも見せずに駆け出し、岩壁から身を剥がし形を取り戻しつつあるマッドマンに立ち向かった。
こんな時に、手負いの人間ひとり守ることができない自分が、口惜しい。けれども、今はおじさんを信じて、できることをするしかなかった。
魔法を放ち、マッドマンの足元を崩す。そこここに生やした壁で追い打ちをかける。大きな体躯がぐらりと安定感を失う。私ができることは、たったそれだけ。
それだけしかできなかったけれども、その僅かな隙を、おじさんは見逃さなかった。
傾いた図体のその中心に、美しさすら感じる一太刀が浴びせられた。そのたった一振りが、あっけない程易々と、その異形を土へと還した。
「すごい……」
すごいよ、おじさん。そう労う前に、おじさんは、べしゃりと座り込んでしまった。
慌てて駆け寄り、覗き込む。
おじさんは、もう震えてはいなかったけれども、かなり消耗しているようだった。
「おじさん、大丈夫?」
恐る恐る声をかけると、「おじさん、だと……?」と、うめくような声と共に顔を上げた。顔が険しい。体調によるものなのか、――あるいは、憤怒の表情なのか。
「いえ、あの……、これには深い事情がありまして……」
騙したくて騙したわけではないんです。
愛想笑いを浮かべてみたけれど、おじさんの顔は石像のように動かない。
「と、とりあえず体調! 体調第一!」
気まずい空気を振り払うように、おじさんの横にどかっと腰を下ろし、その勢いのままぐいっと左袖を捲し上げた。
そこに、大層複雑怪奇な紋様が浮かんでいた。
「み、みるな!」
おじさんは腕を引っ込めようとしたようだったが、全く力が入らないうちに「う」とうめいて俯いた。
「大丈夫です、問題ありません。マッドマンの魔力に晒されて一時的に悪化しているだけです。それに、私、おじさんが思っているよりすごいんで、大丈夫ですよ」
言うなり、その呪印に手をかざして、魔力を込める。
すごい抵抗を感じた。
容易に解ける代物ではなさそうだった。
けれども、大口を叩いた手前――いや、おじさんの雄姿を見た後に、へこたれた姿を見せることなどできなかった。
だから、全力で魔力を流した。そのことだけに、全身の神経を集中させた。
そうして、どれほどの時間が経っただろう。大丈夫だ、このまま最後までいける。そう考えられるくらい余裕が出てくると、今度は沈黙が重く、辛くなってきた。咎めるでも貶すでも何でも良いから、何か喋ってくれればよいものを、おじさんは怖いくらいの眼力で左腕を見つめたまま、口を引き結んでいた。
「そ、それにしても、いやー、びっくりしましたよね、マッドマンですよね、あれ」
おじさんが、ぴくりと反応した。
「まさか、こんな人里に近いところに出るなんて!」
「ああ……」
ああ、ときましたか。
疲れすぎて、話が頭に入っていかない状態なのだろうか。それともやはり、怒り心頭なのだろうか。うぐぐ、しんどい……。
「……あんたは俺を責めないのか?」
「え?」
あまりにぼそぼそと喋るので、聞き逃しそうになった。
というか、聞き取れたのか、怪しい。聞き間違えかもしれない。
私が? おじさんを責める? 逆ならば、わかる。
「俺が、こんな道を選んだからだ。金を貰って引き受けたのに、ろくな仕事もできなかった」
「ええ?」
何を言い出すかと思いきや、またそんな卑屈なことを考えていたのか。
おじさんには悪いけれど、私は少し拍子抜けして、「あはは、何言ってるんですか」と笑ってしまった。
「おじさんが一人で倒したようなもんじゃないですか」
「いや、あんたの魔法があったから――」
「私の魔法は派手に見えたかもしれませんけど、ああいう泥っぽいモンスターには毛ほども効かないんですよ。でも、残念ながら私は、土魔法しか使えないもので」
「……そうなのか? ……だが……治癒魔法も使えるんだろう……?」
おじさんは、左腕に目を落とした。
「ああ、これですか。これも土魔法ですよ。おじさんがこの紋様を何だと思っていたのか知りませんけど、これは土属性の呪いですよ。たちの悪い奴です。地面に立っているだけでしんどいはずですし、マッドマンみたいな土の塊が近くにいたら、普通は剣なんて振れませんよ。おじさんは、すごい仕事をしたと誇って良いです。あ、あとすごい幸運でもあります。私みたいな土魔法一辺倒の魔術師と出会えたわけですから。ほら、見て下さい、これで、きれいさっぱり、消えました」
かざしていた手を引っ込めると、真っさらな上腕が現れた。右腕より僅かに細くて、思ったよりも白い腕だ。おそらく長い間、陽の光から隠されていたのだろう。
「本当に……消えたのか……」
おじさんは、にわかに目を見張り、腕を捻り、曲げ、あらゆる角度から眺めた後、ため息をついた。
「何と礼を言えば良いか……」
「いえいえ、どういたしまして。礼が欲しかったわけではないんですけど、もらえると言うなら、そうですね、私の嘘を大目に見ていただければ幸いです」
言いながら、おじさんの様子を窺い見た。
おじさんの表情が、がらりと変わる。怒っているのだろうか、と私を何度も不安にさせてきた、その仏頂面だ。
「……本当に、ダリャルバン、なのか……?」
名前、覚えていたのか。
わざわざ覚えてくれたのに、申し訳なく思う。私の名前は、ダリャルバンではないのだ。でも、おじさんの思うダリャルバンは、確かに私のことだった。
「信じられないなら、お見せしましょうか。この指輪が、魔道具でして」
衣服のポケットにしまい込んでいた指輪を、ぱっと取り出す。
その勢いのまま――気付いた時には、おじさんの腹だか脚の上に、倒れ込んでいた。
鼻をぶつけて「うぐ」と声が出る。
「どうしたんだ!?」
慌てたような声が降って来た。
「だ、だいじょぶです……魔力切れ……。すみません、すぐ退くんで、ちょっと……」
地面に手をついて、よろよろと身を起こそうとしたところで、「いい、大丈夫だ」と言われた。
何が、大丈夫なんだろう、と思っているうちに、体が浮かんでいた。横抱きにされていた。もじゃ髭がすぐ目の前にあった。
「ええ!? いや、少し休めば歩けるんで!」
想定外の出来事に焦って声を上げたけれど、「さっきマッドマンが現れたんだ。すぐにここを離れた方が良い」と言われたら、返す言葉もなかった。
納得してしまった。納得したら、気が抜けてきた。
気が抜けて、力も抜けて、昨夜うまく寝付けなかったせいに違いない、そうに違いない、と思いながら、気付けば温かな眠気に身を任せていた。