分かれ道
街を出てすぐの分かれ道、おじさんは迷いない足取りで左の道へと進んだ。
「え? そっちの道に行くんですか!?」
純粋な驚きに、子供のような声を上げると、前を歩くおじさんが振り返り、にっと笑った。
「なんだ、坊ちゃんはこの道が怖いのか」
……怖くなどない。
でも、そこにあるのは山道か、林道か、正式な呼び名はよくわからないけれど、とにかく鬱蒼とした森へと誘う薄暗い道だった。
私が通ったことのない、知らない道だった。
「ま、がきんちょが街道を行きたがるのもわからなくはないけど、こっちの道は蛇行していて無駄に距離が長いんだ。お前の短い足だと日が暮れちまう」
たしかに。
この街道はいやにうねうねとしている。
それを苦に感じたことはなかったけれど、短い脚だとどうなることかわからない。
「なるほど、わかりました」
と返すと、おじさんは、
「……なんだ、随分と物分かりがいいな」
と言って首を捻った。
しまった、ちょっと、気を抜き過ぎていただろうか。
子供ならば、少しくらい怖がって然るべき場面だっただろうか……。
「お、おじさんがいるなら、安心だから」
苦肉の策で、言葉を絞り出す。
おじさんは一瞬ぽかんとした後、「そうか」と言って、薄く笑った。
それから、絡み合ったごわごわの髭を揉むみたいに撫でていた。
「じゃあ、行くか」
「はい」
おじさんが歩を進めたので、私もそれに続く。
「きつくなったら、すぐ言えよ」
「はい」
「なんだ……、今日は妙にしおらしいな」
「え、そ、そうですか?」
どうやらまた、間違えたらしい。
しかし私は、おじさんを困らせたいわけではないのだ。工程を遅らせたいわけでもないのだ。
子供のふりというものは、思ったよりも難しい。
「とにかく、何かあれば遠慮せずに言えよ。まあ、それを俺が聞き入れるかどうかは別だけどな」
「じゃあ、おじさんも――」
おじさんもそうしてくださいね。――というのは、さすがに、「しおらし」すぎるだろうか……。
言葉尻を濁した私を見て、おじさんは、ふん、と鼻で嗤った。
「俺は、最初から遠慮なんてしてないけどな」
それも、そうかもしれない。でも。
「でも、随分早く起きて準備してくれていましたし」
「別にそれほど早かねえよ」
「でも……お風呂入る時間とか、ありました?」
「風呂なんて数分で……って何だ? もしかして、臭うか?」
「いや、臭いは別に気になりませんけど、髭剃る時間なかったのかなって、気になって」
髭を伸ばしている男性は珍しくないのだろうけど、これ程野性味溢れる伸ばし方をしている人は見たことがなかったので、どうしても気になる。
「ああ……」
おじさんが、髭に手を添える。
「何で剃らないんだと思う?」
「ええ……」
にやり笑いで尋ねられたけれど、そんなこと知るはずもない。
こちとら、髭なんて生えたことがないのだ。
思い当たることがあるとすれば、「変装、とか?」
おじさんは、ふふんと鼻を鳴らした。
「まあ、当たらずとも遠からずってとこだな。こうして髭を伸ばしているとな、俺に話しかけてくる奴が、減るんだ」
「……はあ」
「まあ、がきんちょにはよくわからないよな。俺も昔は、モテてモテて大変だったんだよ。……その顔、信じてないな」
「いや……。信じてますよ……」
この言葉は、本心だ。
私が変な顔をしているとしたら、それは、今のはモテ自慢なのか? それとも女嫌いなのか? どっちにしてもちょっと面倒くさいな――というようなことを考えていたためだろう。
「たしかにおじさん、髭剃ってまともな格好したら、モテそうですもん」
私はおじさんのことを、本当に、口と見た目で損しているタイプだなあ、と思っている。
……まあ、あえてそうしていると言うなら、「損」ではないのだろうけど。
「お前、やっぱり、変なガキだな……」
おじさんは、髭をもじゃもじゃと掻きまわしながら、怪訝な顔をしている。
「まったく、俺のどこをどう見たらそう思うんだか」
「やっぱり、その、出来る男感?」
「本気で言ってんのか?」
「それは、もちろん」
そう返すと、おじさんは、むむむと唸って、神妙な顔でこちらを見下ろしてきた。
「お前は、何ていうか……天然でモテそうだな」
「はい?」
それこそ、どこをどう見たらそう思うんだ、だ。
指輪に仕掛けた容姿は、絵に描いたような凡庸な男だし、もっと言えば、中の人間は男ですらない。
「いや、やっぱり、モテる、とは何か違うな。何だろうな、このむず痒い感じは」
おじさんはぶつぶつと口の中で呟いて、首を捻っていた。
「はあ、そうですか……。じゃあ、どうすればモテるようになるんです?」
興味本位で尋ねてみた。
「金と地位と顔だ」
わあ、屈折しているなあ。
「ああ、ちなみに、モテるというのは、愛されるという意味ではないからな」
駄目押しとばかりに、ぐねぐねに折れ曲がった見解を付け足してきた。
なんというか、ここまでこじれた気持ちを聞かされてしまうと、モテてモテて大変だった説が逆に信憑性を帯びて聞こえる。
よくわからないけれど、おじさんもきっと、大変な人生を歩んできたのだろう。
とりあえず「なるほど……」と言って頷いてみせると、おじさんは満足したように「お前も気を付けるんだぞ」と結んでその話を終えた。
とまあ、そんな風にして、おじさんと私は、時折どうでも良い雑談を交わしながら、着実に林道を進んでいった。
案外楽しく過ごせたものだから、時間が経つのが存外に早くて、気付けば太陽は中天を越え、森は一層薄暗くひんやりとした空気を湛え始めていた。