小説とAIと私
プリティーでキャッチーな文言がまったく思い浮かばず、ゆえに、まるで愛想のないタイトルになってしまいました。己のセンスのなさを呪いつつ、以下、したためてまいります。
先日、芥川賞(第170回)の発表がありました。九段理江氏が受賞されました。それに伴いインタビューがあり、その際の彼女の言葉が注目を集めました。といっても、少しざわついた程度でしかないとの認識です。ネガティブな格好で物議を醸すとか、そういった類の発言ではない。受け答えの中で、九段氏は「AIが台頭する中で人間にしかできないことはなにか――ということを小説を通して考えていきたい」といった趣旨のことをおっしゃっていて、そこにあるのは素直な思いでしょう。曲解する余地はないように思います。
九段氏はこのたびの受賞作において、その文章の5%程度を書くにあたり、生成AIを用いられたそうです。
どこからともなく「えー……」という否定的な響きを帯びた声が聞こえてきそうです。そこに内包されているもの、それは失望だったり、不満だったりするのでしょうか? 不快感や嫌悪感や敵対心すら覚える人もいるのでしょうか? 一般的な見方をすれば、きっと私はAIに寛容な人間です。使いたい人は使えばいい――などという言い方はつっけんどんがすぎますね。投げやりなふうにも聞こえるから、よくない。丁寧にきちんと記そう。
ちょっと掘り下げてみたいことがあって――。
多少どころかかなり乱暴ではありますが、「小説家になろう」に「作品を残す人」には二種類いると捉えています。
1.自らの個性を自らの言葉で表現しまくりたい人
2.とにもかくにも人気者、書籍化作家等の「立場」を得たい人
「1.」の人はAIを使わないでしょう。自らの頭の中の引き出しから各種アイテムを引っ張り出してきて書かないと気が済まないからです。極論を述べると、あるいは客観的に評価すると、作品のクォリティーは度外視です。なによりも自身のオリジナリティと美学に重きを置く。「自己陶酔に浸りたいタイプ」とまで言ってしまうとお怒りになる方もいるでしょうか。
「2.」の人はAIを使うかもしれません。作品をよりよいものに仕上げる必要があるからです。流行のジャンルを徹底的に攻めつつ、ときには賢いAIを頼って得た気の利いたフレーズをレゴブロックみたいにがっちゃんこする――うん、ありそうな気がします。
自力感たっぷりの「1.」は立派で、なりふり構わずの「2.」は小狡い――なんてことにはなりません。それはぜぇぇったいに違います。「2.」を目標と定めた場合、達成には抜きん出た工夫が必要でしょう。AIはすでに一定以上の価値を示しています。AIが紡ぎ出す文章は簡潔で無駄がなく、そうでありながらグラマラスでもある。AI由来のセンテンスはじつに魅力的だとの印象を私は抱いています。だから、AIを必須の武器とする作家が現れても驚きません。アリだよなって感じるだけです。
「AI文学」みたいなジャンルがいよいよ確立され、「AI芥川賞」みたいなコンテストができればまた話は違ってくるのかもしれませんが、現状、小説を書く行為そのものについては、人間もAIも同じ土俵に立っているようです。そうである以上、「AIなんかに負けないぞ!」と強い意欲を持ち、執筆活動を続けることには意義があるのかもしれません。そう思いたい、そう信じたい人のほうがきっと多い。AIを忌避する書き手はどうしたって見受けられます。世代うんぬんはあまり関係がなく、自尊心の強い人に見られる傾向なのではないか――と勝手に推測したりもします。AIを毛嫌いする気持ちはわからなくもないのですが、その感じ方は凡庸すぎます。悪いことではありませんが、柔軟性、ひいては面白味に欠けます。
どれだけ嫌って遠ざけても、どれだけ激しく抵抗しても、AIがAI自身を改良する術までをも完全に習得したあかつきには、人間は要らなくなる可能性が極めて高い。どの産業にもある程度、普遍的に言えることです。ディープなエコロジストがこぞってはしゃぎだすような展開が待っているわけです。そう! 世界はAIが統治して人は大量に間引いたほうが地球は長生きするのです!! ……と、盛大に話が逸れました、ごめんなさい。
とっちらかってしまいましたが、最後にしっかり「思い」を書いておきます。
AIが幅を利かせることで多くの職が取って代わられるのはもはや間違いありませんが、こと創作活動においてはその限りではないかもしれません。創作活動――小説を執筆する行為、それが該当します。どれだけの年月を経ようと、AIはAIです。蓄積された膨大なデータに基づいた演算は得意なのかもしれません。しかし、そこに熱意は伴わないわけです。
人が必死になって自分の思考を文章化する作業は尊いです。
自らの魂を言語化するのだと言えば、もっと尊く聞こえます。
情熱だけは失うなと、私は自分に言い聞かせます。




