私の先輩
その日は、まだ桜が咲き誇る春真っ只中だというのに、蒸すように暑い日だった。精神までをも蝕むような熱に誰もが脚を投げ出して倒れ込む中、先輩だけは二本の足で凛と立っていた。私は自らの額から溢れ出る汗を拭うことも忘れて、彼女を見つめていた。口付けたペットボトルの端から飲料水が伝う、黄金色に焼けたその首筋からわたしは目をそらすことができなかった。
「先輩。せんぱい!…せーんぱい!!」
学食のトレイを机に置いて、目的の人物の隣を陣取り話しかけた。にこにこと笑顔を向けるけれど、一向にこちらを見ようともしない先輩に焦れて、もう一度先輩、と声を掛ける。
うどんの汁でしっとりと濡れた唇をナフキンで拭きながら私にチラリと視線を流した先輩は、それから何事もなかったかのように視線を落とす。先輩と私を遮断するようにさらりと黒髪が流れた。
「せんぱぁい!無視なんてひどいです!あのぉ、私も一緒に食べてもいいですか?」
「………かわいこぶるな。トレイまで持って座っておいて今更何言ってんのよ。」
「あはは、バレちゃった」
次の一口を口に含む間に、先輩は私をじとりと半目で睨む。座るなとは言われなかったことを黙認だと受け取った私は早速、ニコニコとしながら箸を持つ。わーい、先輩とご飯だ!
右手に箸を持ったまま七味唐辛子の容器に手を伸ばすと、先輩は黙って自分の箸を置いて、代わりに手に取った。そのまま蓋を開けて、私に差し出す。
「…!ありがとうございます、先輩!」
先輩にお礼をいって七味唐辛子を受け取り、鼻歌を歌いながらその容器をひっくり返す。サラサラと溢れる赤い粉が、水面に小さな砂漠を作る。
「…毎回思うけどあんたの胃はどうなってんの?」
「え?普通ですよ、普通。」
スープがすっかり赤く染まったのを確認して、七味唐辛子を机に置いた。空になった瓶をじっと見つめた先輩は眉を寄せながら、蓋を閉めて自分のトレーの上へと載せた。なんだかんだ言って、先輩は面倒見がいい。
お蕎麦に合掌して、いただきます、と声を掛ける。ふうふうと息を吹きかけて、一口。舌が痺れるような辛さに満足して頷く。うん、美味しい!
「……あんたさぁ、今日は部活に行くの?」
黙ってその一部始終を見ていた先輩が、真っ赤になったスープを奇妙なものを見るまで見つめて、口を開いた。私は箸を止めて、先輩に向かってへへっと笑う。
「先輩が行くのなら!」
「もう卒部してるっての」
面倒臭そうに答える先輩にふふふ、と笑う。そんなつれないところも好き。可愛くてかっこよくて、大好きな先輩。
思わず頬が緩んでしまいつつ、先輩を見つめる。先輩は再び箸を進めながら鬱陶しそうに答えた。
「なに。」
「先輩はかっこいいなぁと思って。」
「何バカなこと言ってんのよ。そういうことは好きな男にでも言いなって」
「先輩以上にかっこいいと思う人も、先輩以上に好きな人もいないもーん。」
「………あんたね。」
はぁ、とため息を吐いてまた麺を啜る。先輩は私の言動を冗談だと思ってる。残念ながら、びっくりするくらい本気ですけど。真面目に、先輩以上の人なんてこの世にいない。
先輩の横顔を見つめながら私も麺を啜る。先輩の顔見ながらご飯食べると二倍美味しいな。えへへ。先輩を見てたら、それだけで白米が何杯でも食べれる気がする。
そんな邪な思いを感じ取ったのか、先輩がぶるりと震える。ありゃ。何もしてないのに。少し青い顔のまま、先輩はご馳走さま、と箸を置いてこちらを覗く。横顔も綺麗だけど正面から見ても綺麗、可愛いかっこいい。先輩最高。
「先行くわよ。」
「え!?やだー、待ってくださいよ先輩!」
「同じクラスでも無いのになんでよ。次、わたし体育なの。」
ちらりと掛け時計を横目で見ながら先輩が言う。私もその視線を追って、秒針が進むのを数えながら先輩の後を追おうと急いで麺を掻き込む。
けれど先輩は無常にもトレーを持って立ち上がり、ゆっくり食べなと言って私を待ってくれない。あと5分早ければと過去の自分を恨めしく思いながら麺を啜っていると、あっさりと私を捨てた先輩がそうだ、と呟いて振り返る。
箸でうどんを掴んだまま、先輩の声に思わず顔を上げる。
忘れ物?と首を傾げる私に、真面目な話、と前置きをして先輩が口を開いた。
「今日はちゃんと部活来なさいよ。あんたが来ないと他の部員の指揮にも関わる。」
先輩の瞳から、優しさが消える。険を含んだ、厳しい眼だ。
「……だから、先輩が来るなら行きますってば。」
「茶化すな。」
再び箸を進めて、ヘラヘラと笑う私を低い声で叱責した。口に含んだ味のしないうどんを咀嚼しながら、笑うのをやめて先輩を見つめ返す。強くて大きな瞳は私の心の奥の甘えを見透かすようだ。こういう時の先輩は、私の甘えを決して見逃してはくれない。
「いい加減、立ち直りなさい。あんたが見据えるべきなのは、過去ではなく未来なの。過去を理由に今の練習から逃げるな」
私が憧れた先輩の眼差し。意思が強くて、簡単には折れない。目の前のことだけじゃなくて、遠くまで見据える事ができる瞳。でも私は、遠い未来じゃなくて、今の目の前の私を見つめて欲しい。だって先輩の未来には、当たり前のように私はいないのでしょう?
「返事は?」
先輩は再び私に問いかける。私はそっと目を伏せて、先輩の瞳から逃げた。
「………はぁい。」
どこか気の抜けたような返事をしたのは、私の細やかな反抗だった。
***
「1年!ペース落とすな!!足上げろ!!」
「はい!!」
声を振り絞って後ろを走る一年生に声を掛ける。逆光に負けないように目を細めながら後ろを振り向くと、彼女たちの身体はふらふらと頼りながらも、その瞳は爛々と輝いている。じりじりと肌を焼く太陽を恨みながら再び前を向いて走り出す。体操着の裾で汗を拭い、すっかり肌に張り付いた布に不快感を感じながらも、脚は止めない。一年前に先輩から剣道の基本は足腰からだと教えてもらった経験があるからだ。
武道場では、竹刀のぶつかる音と、先輩たちの声が学校中に響き渡っていた。
先輩達の、最後の夏がはじまった。
「あっつー…」
「死ぬ………」
武道場に着いた途端倒れ込む部員を横目に膝に手をついて息を整える。窓から漏れる太陽の熱を吸収し、さらに空気の循環が悪い武道場では床に蹲る方が体に熱が篭ったままでつらい。去年散々倒れ込んだから身体で覚えている。
自分のバッグからスポーツタオルを取り出して、汗を拭い、凍らせたペットボトルから水を喉に流し込んだ。先ほどまで凍っていた水は、喉を通る瞬間ヒリヒリと僅かな痛みを残す。水分が胃に到達した途端、どっと汗が出た。それを丁寧にタオルで拭ってから、室内を見た。
ぐったりと倒れ込んでいる部員の奥で、3年の先輩達は防具を身に付けて打ち合っている。それが太陽の下で走るよりも何倍もキツいことを私たちは知っている。
その中でも一際目立つ、まっすぐと伸びた背筋と剣を打つ隙を与えない剣筋。面で顔を覆っていても、すぐにわかる。私の憧れたその人は、夏の暑さを感じさせないほどに涼やかで、美しかった。
「あんたなんで一人だけ涼しい顔してるのよ。」
右肩に重みが乗った。先輩から目を逸らして右を見ると、一年生より先に立ち上がった同学年の友人が私の首に腕を回して寄りかかっていた。重いよ、と眉を寄せるが離してはくれない。
「そうよ、あの灼熱の下で誰よりも声張ってたくせになんでピンピンしてるのよ。化けものか?」
もう一人の友人がもう片方の肩に肘を乗せて同じく私を茶化す。そういう二人も壁に手をつきながらも倒れる事はなく耐えていたのを知っている。私だけが特別ではない。
「……ここで倒れてらんないもん。」
先輩達の方を見て答える。この場所は立地の関係で風通りも悪く、けれど窓から太陽の熱だけは絶えず入ってくる最悪の環境だ。おまけに彼女達が身に付けているのは、優に5キロを超える防具。二人の身体もぴくりと揺れる。
右肩と左肩に乗っていた重みは消えた。先輩達にとって最後の夏。それが終われば、すぐにまた、私たちの最後の春がやってくる。その重圧は、静かに私たちの肩に重くのし掛かっている。
「練習、しようか。」
誰からともなく呟いて、更衣室へと足が向く。倒れ込んでいた一年生に今日の基礎メニューを告げて、自分の竹刀の入ったバッグを肩から下げて歩き出した。
先輩達の夏を簡単に終わらせたりしない。今は目の前のことを見つめて、右手を握りしめた。
***
「山梨!!!遠慮はいらない!本気で来い!!!!」
「はい!」
先輩の同級生の、愛子さんが私に吠える。愛子さんは踏み込みの甘い私を面の向こうから睨みつけて怒声を浴びせる。負けじと声を張り上げるが、彼女のような気迫は出せない。
それでも気持ちで負けてたまるかと歯を食いしばり、意識を集中させる。彼女の癖は僅かに右の反応が遅い事だ。それでもコンマ1秒の差であり、最初に対戦した相手は気付かないぐらいの誤差だ。
けれど私は何度も彼女と向き合ってきたからわかる。そして、彼女は自分の弱点を自覚している。
一歩踏み出して竹刀を右に振り上げる。彼女は思った通り、右の攻撃を意識していたのかすぐに反応をする。その隙をついて、一歩下がる。彼女の胴に当たるはずだった竹刀の軌道を逸らし、すり抜ける。彼女がそれに気付き、体制を立て直すがそれでも間に合わない。下げた足を再び踏み込み、彼女の左の小手を狙った。パァン、という渇いた音が響き、私たちの動きが止まる。
はぁはぁ、という私の息遣いと鼓動の音だけが、頭の中を巡っていた。
「っ一本!!」
その言葉を耳にしてやっと体の力を抜く。愛子さんの体から竹刀を退けて、向き合った。
ありがとうございました、と腰を折って礼をする。その時、確かに震えている彼女の右手を見た。私が小手を打った衝撃で震えているわけじゃない。それがわかっているから、気付かないふりをした。顔を上げた彼女の瞳は死んではいなかった。僅かな強張りすら見せず、微笑んですらいた。
小手を外して、面を外した愛子さんはそのまま武道場の隅に道具を置いて私に目の前に座るように促した。私も同じように防具を外しながら彼女に向き合う。
「…強くなったね。」
「…はい。愛子さんや先輩に、めちゃくちゃシゴかれちゃいましたから。」
「ふふっ、山梨も言うようになったね。」
そう言って彼女は口に手を当ててケラケラと笑う。入部当時から私が目指す先にいたのは先輩で、その圧倒的な力で私を引っ張り上げてくれたのも先輩だった。けれど、体力も技術もない私を粘り強く励まして、背中を押してくれたのは愛子さんだ。先輩の強さとは違うけれど、それでも愛子さんの優しさと強さを私は誰よりも知っている。
「…昨日ね、あいつと話し合ったんだよ。今年の夏はどういう布陣でいくか。」
「…はい。」
愛子さんの表情から笑みが消える。私は顔を強張らせてその言葉の続きを待った。
「それでね、副将は山梨に任せようと思う。」
「………え、」
私は膝に置いていた面を取り落とした。嫌な音を立てて転がるそれを追うこともできず、ただ愛子さんをじっと見つめていた。それを見て苦笑いをして、私の面を拾い自分の面のすぐ横に置いた愛子さんに、しっかりしな、と肩を押される。
何を、言ってるんだ。
「…わ、たしは、副将は、愛子さん以外にあり得ないと思います。」
「ううん、今は私より山梨の方が確実に上手いよ。あんたの強さはあいつも、そして部内の全員が認めてる。…副将はより強いものが任されるべきだ。」
「でも、私は、」
愛子さんにはなれない。
愛子さんにみんなが副将を任せているのは、単に彼女に実力があるからというだけではない。後ろにいると安心できるからだ。彼女ならやってくれると無条件に信じられるから。
私は先輩をただ追いかけて来ただけだ。彼女のように周りを見て声を掛けることも出来なければ、自分が負けた相手にすら微笑んで、タスキを渡すような懐の大きさもない。
「でもじゃないの。別に私になれとは言ってないよ。私も団体戦にはちゃんと出るし。」
愛子さんがふふっとおかしそうに笑う。愛子さんの笑顔はいつだって私にも笑顔の種を分けてくれたけれど、今日ばかりは笑えそうになかった。ふるふると首を振る。視界が滲み、喉の奥では何かが詰まったように言葉が出ない。
「山梨の努力を、強さをみんな知ってるよ。だから山梨に任せるんだ。強い者が後ろに控えてると思うとね、チームは安定するの。…山梨。泣かないで。私達の夏を、簡単に終わらせないんでしょう?」
愛子さんは私の手を握った。私がこくり、と頷いたのを見て、嬉しそうに笑った。
「私もこの夏を簡単に終わらせるわけにはいかないの。…山梨に、任せてもいい?」
ぎゅう、と私の手に力を込める愛子さんの手は熱かった。ぽたぽたと流れ落ちる涙で視界が揺れる。
「はい。よろしくお願いします。」
それでも愛子さんと何とか目を合わせて答える。愛子さんは満足げに笑って、頼んだよ、副将、と私の背をとん、と押した。
***
地区大会個人の部、一回戦。
先輩は最後の大会の、最初の舞台に立っていた。
相手は県大会常連校の二年生。一歳の差はあれど、流石は強豪校だ。それを感じさせない自信と気迫があった。
ごくり、と唾を飲み込む。先輩の事を信じている。信じているが、同じように相手の高校の生徒達も、二年生の彼女のことを信じているはずだ。どちらかがどちらかの期待を裏切る事でしかこの試合は終わらない。残酷だが、それが剣の道を選ぶという事だ。この舞台に立つときの緊張感は何度来ても慣れない。
先輩が構えて身を低くする。立ち上がると同時に、打ち合いが始まった。
先輩は相手の打撃を受け流し、その反動を殺すように抑え込み、一歩踏み出した。驚いた相手が一歩後退する。その隙を突いて相手の竹刀を弾いて竹刀を振りかざす。相手はまた一歩よろけるけれど、流石は強豪だ。すぐに体制を整えてるそれを受けとめる。先輩はそれすらわかっていたかのように竹刀と竹刀がぶつかった反動を生かして軌道を逸らす。相手も先輩の動きについていこうとするが間に合わない。先輩は相手の胴に竹刀を当て、止める。竹を割るような、綺麗な音が鳴った。
「一本!」
赤の旗が上がった。はぁ、と息を吐いて力が抜ける。額には汗が滲んでいた。嬉しいけれど、油断はできない。剣道は3本勝負で、先輩はもう一本取らなければ相手には勝てない。
息を整えて先輩の影を追う。2本目は既に始まっていた。一本取られた相手はもう後がない。鋭い攻めが続く。それを先輩は丁寧に受け流して攻めの機会を待った。相手の右の胴を狙った一撃を、先輩は弾き返す。--先輩の反撃が始まった。
そのまま先輩は左に足を滑らせ、相手の竹刀を弾く。一瞬相手がよろけた隙に竹刀を潜り込ませ、一歩下がると共に小手に竹刀を打ち付けた。
再び赤の旗が上がり、そして観客が沸いた。拍手の音が会場を包むが、先輩は周囲には目もくれずまっすぐと相手に向き合った。深く礼をして、起き上がった背中はしゃんと伸びている。先輩の背中は自信に満ち溢れているけれど、それでいて傲慢さは感じさせない。相手に礼を尽くして挑む姿は私が憧れた先輩の強さだった。
「………綺麗。」
思わず声が漏れていた。二戦目が始まり、誰もが目の前の試合の行方を追う今、私の言葉を気にする者はいない。
ドキドキと胸は未だ高揚を抑えられず、息は未だに整う事はない。何度見ても、やはり、好きだなと思う。先輩の強さが好きだ。先輩の相手を敬うという、剣道の真髄を大切にしているところが好きだ。先輩の真っ直ぐな太刀筋が好きだ。
---先輩が、好きだ。
きゅう、と痛む胸を押さえて、座り込む。
先輩は私が誰よりもかっこいいというと、何を大袈裟な、というがそんな事はない。だって私は、学年1かっこいいと言われる男の子よりも、テレビの向こうの俳優さんよりも、先輩が剣を構えてる姿に胸が高鳴るの。
「せん、ぱい。」
目を瞑れば、私の瞳に映るのは背筋が真っ直ぐと伸びた先輩の背中だ。
先輩の姿をもっと見ていたい。いずれ私よりも先に卒業することが定めならば、先輩の姿を少しでも網膜に焼き付けていたい。
私の中にまっすぐと落ちた閃光のようなこの恋は、きっと私の人生そのものだ。
***
先輩の夏が終わった。
団体戦の県大会二回戦。最強だと思ってた先輩は大将戦で相手に一敗。井の中の私という蛙は、世界の広さを知った。
「山梨」
誰かが私の名前を呼んだ。でもそれに返事をすることも面倒くさくて、顔にかけたタオルの下で目を瞑る。首筋にかかる風が少し冷たい。外で昼寝をするには、夏服は少し肌寒い。もうすぐ、秋が来る。
「…山梨」
ああ、煩わしい。人がせっかく昼寝をしようというのに。何度無視しようとも諦めることなく呼び掛ける声に、仕方なく折れた。
「……なに?」
顔にタオルをかけたまま答える。暗にお前と話すつもりはない、と伝えるけれど、そんな事を彼女は気にしない。随分と神経が図太いので。
「いつまでいじけてんの。今日も部活来ないつもり?」
隣に座った気配を感じて眉を寄せる。座っていいなんて一言も言ってないんだけどな。………ああ、私が先輩にいつもしていた事か。
「…先輩、迷惑だったのかなぁ。」
「なによ突然。」
晴れて剣道部副部長に就任した友人は、ため息を吐いて呆れたように私の問いに答える。突然じゃないよ、だって私はあれからずっとずっと先輩のことを考えている。
「…ねぇ、パンツ見えてるよ」
「見せてんの。」
「誰によ。ちゃんと隠しなさい。」
そう言って私の顔に掛けてあったタオルをつかんで私のスカートの上にタオルをかけ直した。肌寒さは僅かに和らぐが、代わりに空の眩さに目を閉じる。
「……まぶしいなぁ」
「……そうねぇ」
彼女は私の言葉に賛同して、同じように空を見上げた。
「…ねえ、ずっと言いたいことがあったの。」
「なに?」
目を閉じたまま、彼女の言葉に耳を傾けた。
「あんたのせいじゃないよ。」
「…………」
「誰が何と言おうと、絶対にあんたのせいなんかじゃない。」
力強く言い切る言葉に、私はなにも返せなかった。副将戦で私が一本でも取れていたら、先輩には後一回チャンスがあった。バトンを渡した瞬間に背水の陣なんてプレッシャーを与えることもなかったのだ。私がもっと強ければ、もしかしたら。
わかっている、その時出せた力が全てだ。今更こうすればと思うことが無意味なことくらい、わかっている。それでも。
ぽたり、と頬を伝う。悔しさに拳を震わせる先輩の姿なんて見たくなかった。そんな想いをさせたくて、私はあの場所に立った訳ではなかった。
負けたはずの先輩の姿はそれでもなお、気高く、美しく、そして潔かった。私の方がまだこの場所にいてくれと彼女に縋ってしまうほどに。
「副将として山梨が立ってくれた事、誰も後悔なんてしてないよ。あんたじゃなければきっと県大会という場所まで行けなかった。…だからね、山梨。戻ってきて。一緒にまた剣道をやろう。あんたの事、みんな頼りにしてるんだよ」
優しく語りかける声に、私の涙はより一層酷くなる。嗚咽が出てきてもなお、自力で止めることなんかできない。
私が戻って何だというのだ。頼りにされているからなんだって言うのだ。だってあの場所に、もう私の目指していた先輩はいない。あの瞬間に、私の夢も希望もすべて私の目の前で潰えたのだ。目指すべき先輩がいないあの場所で、私はこれ以上どうやって頑張ればいいんだ。
***
頭がぼーっとする。気付けばもう、とっくに夕方と呼べる時間は過ぎていて、辺りは暗くなっていた。肩には自分のカーディガンを掛け、スカートには少し大きめのタオルが掛かったままだ。カーディガンに頬を寄せて髪の毛を揺らす風の音に耳を澄ませて目を瞑る。もう少しだけ、もう少しだけ。
「…あんたね、いつまで寝こける気?」
ため息と共に聞こえてきた声に、下がっていた目蓋は一気に開く。ダラダラと暑くもないのに背中を伝う汗を感じながら、背後の気配を辿って恐る恐る振り向いた。
「…せ、んぱい」
「部活も出ない不良娘。最終下校時間、もうすぐだけど?」
荷物を傍に置いた先輩が私を見下ろして、腕時計を見せてきた。19時30分。最終下校時刻まであと30分だ。
「っすみません!」
慌てて起き上がり、カーディガンとタオルを掴んで座り直す。その様をじっと見ていた先輩は、慌て過ぎ、と私の頬についていた砂を払った。
先輩は、よし、と大きな声を出してその勢いで立ち上がると、赤くなった私の顔を見下ろして口角を上げる。夏以前は見なかった先輩の表情だ。
「…あんたも随分溜まってそうね。不良ついでに受験勉強でむしゃくしゃしてる私のストレス発散に付き合ってくれない?」
先輩は私に手を伸ばして、パチパチと瞬きを繰り返すわたしの腕を掴んで、強引に引っ張った。
「ルールは一本先取制。先に勝ち星を取った方が勝ち。時間は無制限。質問は?」
「ない、ですけど…」
どうしてこうなった?
強引にわたしの腕を引っ張った先輩に連れられて、気づいた時には武道場にいた。先輩に言われるがままに防具を身につけ、何故かいま、おなじく防具を着けた先輩と向き合っている。
「愛子、公正にね。」
「誰に言ってるのよ。」
おまけに制服を着たまま旗を持つ愛子先輩までそこにいる。ますます理解ができない。
「あの、先輩?最終下校時間、あと30分って言ってたような…」
「正確にはあと20分。だから…学校から出て行く時間を含めて、制限時間はギリギリ10分ってところか。」
「………えーと。」
困惑しながら先輩を見つめ返す。本気ですか?と先輩に問えば、先輩は静かにこくりと頷く。
「私が卒業する前に、手合わせしたくない?」
「………それは、」
したい。したいけれど、同時に恐ろしくもある。
私と先輩が手合わせをしたのは、私が入部してすぐの頃、たった一度だけ。先輩を前にした私がその気迫に腰を抜かして終わるという、なんとも情けない負け方をしたその時だけだ。
「あんたは逃げるの?わたしから」
私の沈黙を壊すように、先輩が私に問うた。先輩の心さえ見透かすような瞳は、真っ直ぐに私を見ていた。その瞳はただの部活の後輩を見つめる色ではなかった。敬うべき相手を目の前にした、わたしの大好きな剣士の目だ。
それを理解した瞬間、腹は決まった。先輩が私を後輩ではなく、敬うべき相手だと思ってくれるならば、私にはそれに答える義務がある。私が教わったのは剣術だけじゃない。その心の在り方をも先輩に教わったのだ。竹刀を持つ手に力を込めれば、先輩はふと口角を上げて私を見つめた。それが開戦の合図だった。
先に一歩を踏み出したのは、私の方だ。経験の差はどうやったって埋められない。ならせめて、心で負けることはしたくなかった。
面に打ち込んだ私の一撃を、先輩は難なく受け止める。竹刀を弾き飛ばして攻撃に転じる。先輩の一撃は強い。受け止めた手は震えているし、一度先輩が攻勢に回ると、私は受け止めるだけで精一杯になる。力だけならば必ず押し負ける。
自分の残された歩数を目の端で数える。
--あと5歩。
先輩は必ずこの間に勝負をかけてくるはずだ。その瞬間を狙う。
あと4歩。先輩の右からの一撃をなんとか受け止め、弾く。一歩後ろに下がる。あと3歩。先輩の剣先が小手へと向かう。一歩下がり、辛うじてその剣を受け止める事でそれを防ぐ。残りは2歩。一歩下がり、引きつける。先輩は予想通り、竹刀を振り上げた。--今だ!
先輩の振り上げた剣よりも先に、わたしの剣が先輩の胴へと届く。しかし、その胴へと触れる寸前に、それは止まった。笛の音が、試合の終了を告げていた。
「…山梨!場外!」
目測であと一歩の猶予があると思っていたはずが、わたしの右足は、たしかに、境界線を超えていた。
先輩と目を合わせた私は、共に静かに竹刀を下ろす。体勢を整えて、時計を見る。体育館の時計は既に50分を過ぎていた。試合をやり直す時間はない。体勢を整えて、背筋を伸ばす。静かに肺に酸素を吸い込んで、腹に力を込めた。
「ありがとうございました!」
腰を曲げて先輩に礼を尽くす。先輩は、信じられないような顔で私を見つめたあと、静かに頭を下げた。
「ありがとうこざいました!」
わたしの大好きな先輩の力強い声だった。
***
私たちの試合に付き合ってくれた愛子さんは一足早く帰り、私たちは急いで制服へと着替えて校舎を抜け出した。
8時を5分過ぎてしまったが、校門を締めようとしていた先生を引き止めてなんとか閉じ込められる前に校門を出ることができた。
「先輩!今日は一緒に帰ってもいいですか?」
「…一緒に帰るもなにも、あんたはバス通、わたしは電車。あんたはこっちじゃないでしょうが。」
「今日は駅のバス停から乗りますから!」
先輩の腕を掴んで強請る。先輩は暫く無言の圧力で私を見つめたあと、それでも私が引かないと察したのか、はぁ、と大きなため息を吐いた。
「…駅のバス停からのバスはまだあるの?」
「…!!調べます!」
スマホを取り出して急いで時刻表を調べる。次のバスは8時35分。今から歩けばちょうどいい時間だ。
「ありました!」
満面の笑みで答えて、スマホの画面を見せる。先輩は画面を見たあと、ふっと困ったように笑う。
「好きにしなよ、もう。」
「…先輩はもう進路決めました?」
「この時期だから流石にね。」
「やっぱり進学ですか?」
「うん、もう少しやりたいことがあるから。」
「先輩が大学行くならわたしも進学しようかな。」
私の呟きに、先輩は今度こそ呆れ顔をする。本気なんだけどな。
「何馬鹿みたいなこと言ってんのよ。」
「本気だもん。先輩、剣道は続けますか?」
「続けるよ。そして今度こそ全国に行く。」
その答えに思わず笑みが溢れる。先輩ならそう答えてくれると信じてたけれど、それを先輩の口から聞けることが嬉しかった。
「先輩ならいけますよ。だってわたしが惚れたんだもん。」
「…うん、ありがとう。あんたもさ、いい加減ちゃんとしな。実力あるんだから。」
「ちゃんと?」
「そう、ちゃんと自分の意思で剣道と向き合いな。わたしがどうこうじゃなくて、一人で歩いて行くの。」
先輩が立ち止まる。笑って誤魔化そうとした私を先輩は見逃さなかった。先輩は人一倍剣道に誠意を持って向き合ってきたから、今の中途半端な私を許してはくれない。けど。だけど。
「…嫌です。」
私も立ち止まり、先輩を睨む。だけど先輩は私の眼光なんかでは少しも揺らいではくれない。悔しい。私はこんなにも、先輩に振り回されてばかりなのに。
「嫌じゃないの。私はなんだかんだ言いつつも毎日真面目に自主練までしてたあんたに部を継いでほしいのに、そんなんじゃ安心して卒業出来ないじゃない。」
苦笑いを溢す先輩に、私は唇を噛む。先輩が私の事を信頼してくれるのは知ってる。けれど先輩は私の事をわかってはくれない。どれだけ私が先輩に憧れていて、私の人生が全て先輩でいっぱいなのかわかっていないフリをするんだ。
「だったら卒業しないでください!先輩はずっとここにいてください!だって、私の始まりは先輩なのに。先輩がいなくなったら私は…」
「………柚月。」
先輩が私の言葉を遮る。
私は先輩の目を見つめることができなくて、俯いたまま黙り込む。強く噛み過ぎて皮が剥けた唇が痛い。
「無理だから。甘えんな。」
バッサリと一喝した先輩に顔を上げる。
私を叱った先輩は、言葉に反して存外優しい顔をしていた。
再び歩き出した先輩の背中を、私も小走りで追いかける。
「私がずっとあんたの先輩でいる事も、あんたの前をずっと走り続けることも無理なの。…言っとくけど、同じ大学に通ったとしても同じ。あんたは私を神か聖人君子みたいに思ってるけど、私だってあんたと同じ人間だから。」
呆れたように先輩は小さく笑い声を溢す。街灯によって伸びた先輩の影を踏みながら、私は驚いて先輩を見つめていた。
やがて先輩は笑みを消して、私の横に並ぶ。いつもとは違う距離感で落ち着かないでいると、先輩が私に視線を向けた。
「あんただって本当はわかってるでしょう?もう今はあんたの方が私より上手いよ。」
先輩の言葉に、再び足を止める。同じタイミングで止まった先輩の表情は、逆光になっていてよく見えない。立っている事がやっとの私は、震える手を握り込み、乾いて張り付いた喉からなんとか声を張り上げる。
「……そんなこと、ない!!」
私の声は震えていて、情けなかった。そんな私を笑わない先輩は、黙って一歩近づく。先輩の顔が街灯に照らされてやっとその表情が現れた。
「あるよ。さっきの勝負で確信した。あれはあんたの勝ちよ。あと一歩手前であんたが勝負をしかけてたら、私は確実に負けていた。足りないのは、あと一歩手前で勝負を仕掛ける勇気だけよ。」
そういった先輩は、何もかも吹っ切れた清々しい顔をしていた。鬱屈として立ち止まっている私を置いて、先輩はもう未来を見つめて歩き出したのだ。
「残念だけどあんたの方が少しだけ才能があったみたい。だからもう、いい加減自覚してやめなさい。」
「……辞める?」
「そう。私に憧れて、それに縛られるのはやめなさい。」
先輩はそう言って、私の頭をぽん、と撫でた。私に触れた少し冷たい手は、とても優しかった。
私の頭に手を伸ばして、少し背伸びをした先輩の踵を見つめる。入学当初、5センチは先輩を見上げていた私は、いつの間にかとっくに先輩の身長を越していた。
「……やだ」
「やだじゃないの。」
わかっている。先輩がきっと正しい。
だけど、どうしてもそれを受け入れられない私は、時間の流れに身を任せることを拒絶して首を振る。
苦笑いをこぼした先輩は、私の頭を撫でたまま私を叱る。絶対に甘やかしてはくれない先輩の優しさは、直に私の涙腺を刺激して、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「やぁだ、やだよぉ。…いやなのぉ。だって先輩に憧れなかったら、ここにはいなかった。私が頑張る理由は、先輩だったんです。」
嗚咽を溢しながら、子供みたいに泣きじゃくる私を先輩は笑わなかった。拭っても拭っても途切れることはない涙は、私の頬を、首筋を濡らしていく。先輩みたいにかっこよくなりたいのに、先輩の前で私はいつもこうだ。情けなくて、みっともなくて、先輩みたいに強くはなれない。
「うん、知ってるよ。私に憧れてこの部に入ったんでしょう、はじまりは。最初は正直鬱陶しかったけど、段々あんたが頑張る理由はわたしへの憧れだけじゃなくなったことに気付いたの。剣道を好きになって、真面目に向き合い始めたあんたを私はちゃんと知ってる。そんな自分を、ちゃんと認めてあげなさい。」
とめどなく溢れる涙を乱暴に拭う手を先輩が止めて、代わりに先輩の親指が目元を優しく撫でる。厳しくて、強くて、かっこいい先輩。呆れるように笑っても、私を突き放すことは決してしない、優しい先輩。
「…好き。好きなんです、剣道が。でも先輩はもっと好きなんです。憧れから卒業したら、この気持ちはどうすればいいの。どうやって先輩に会いに行けばいいの。先輩への気持ちは、確かに本物なのに。」
「…馬鹿なのねぇ。」
喉が詰まり、息苦しくなりながら、なんとか溢した本音を先輩は笑う。私の頬を伝う涙を優しく拭いながら。
「…好きだから、でいいじゃない。憧れから卒業したら、ただそのシンプルな気持ちで私に会いにくればいいのよ。」
そしてわたしの顔を見て、あぁ、流石に今みたいに毎日会いに来られるのは困るけど、と付け足した。
わたしは何度か瞬きをして、やっとクリアになった視界で先輩の顔を見返した。わたしを泣き止ませる為に嘘を言っているようには見えない。涙はもう止まっていた。
「…………いいんですか?」
「なにが?」
たっぷりと時間を掛けてその意味を咀嚼して、やっとのことで絞り出した言葉を先輩は聞き返す。自分が言った言葉がなんでもないことのように。
「私、先輩のこと本気ですよ。同性に抱く憧れだけじゃなくて、先輩さえ許してくれれば、本気で付き合いたいと思ってます。なのに、それだけの理由で会いにいってもいいんですか?」
「今まで散々追い回したくせになに言ってんのよ。あんたがこの部をまとめてくれるんなら、仕方ないから黙認してあげる。」
すっかり赤くなってしまった私の頬を摘んだあと、先輩は変な顔、と笑った。
ああ、そうか、そうだったのか。こんなにも答えは単純だったのか。
「……先輩。」
「なに?」
「私、剣道も先輩の事も、やっぱり大好きです。」
「……そう、ありがとう」
「…わたし、剣道を頑張ります。先輩の事も。もう立ち止まったりしないし、逃げたりしません。だから、また真剣勝負をしてください。そしていつか私のことも、好きになってください。」
「…検討しとく」
そう言って先輩は笑った。呆れたような顔じゃなくて、少し大人っぽくなってしまった顔で。
先輩は、高校を卒業したらすぐに大人になって、その美しさに磨きをかけるのだろう。私が大人になるより、ずっと速いスピードで。
けれどもう、立ち止まって先輩を困らせたりはしない。時を止める事も、先輩と同じ学年になることも出来ないけれど、私には想いの強さがある。きっとそれは誰にも負けない。
私の青春はまた走り出す。いつか全てを叶える、その日まで。