愛する心
一方思うとおりに事が運ばなかったアマーリアは苛々しながら大神殿の回廊を足早に進んでいた。それと重なってルーベルとの再会はもっと最悪な気分にした。だから前方を気にせず突き進む彼女が曲がり角を曲がった所で誰かと正面衝突をしてしまった。弾き飛ばされて硬い回廊に転んでしまうと思ったアマーリアの身体がふわりと浮いた。激突した相手はよろけただけで直ぐに体勢を整えアマーリアをすくい上げたようだった。
「痛っ、もう!何処見て歩いているのよ!」
「ふぅ···それは僕が言いたいのだけれど?」
ぶつかった瞬間、目を閉じてしまったアマーリアだったが文句を言いながその相手を見た。その瞳に飛び込んで来たのは菫色の髪に印象的な紫の瞳。春を思わせるような甘い顔立ちの神官見習いだった。それはアマーリアが大嫌いな皇子イヴァンだ。過去の身分など関係無いと言われる神官の中でも彼ぐらいの血筋になればそうともいかず何かと特別扱いとなっていたから話をしたことは無い。だが噂で聞いた話でアマーリアは気に入らなかったのだ。
ティアナが冥の花嫁だと判明する前は彼の恋人だったが、盟約の結婚相手はレギナルト皇子だった。運命に引き裂かれた悲劇の恋人達というところだが、物分り良く身を引いたイヴァン皇子は神官の道へ―――ここまでの話しならイヴァンに同情したとしても腹を立てるものでは無いのだがアマーリアは違っていた。恋人をあっさり諦めるイヴァンを蔑み、心変わりして今は他の男と幸せそうなティアナを嫌ったのだ。
アマーリアは次の標的を決めた―――
「これは失礼。イヴァン皇子」
赤銅色の髪と瞳の精悍な美女が何かと話題の女神官アマーリアだとイヴァンは直ぐに気が付いた。神殿内では使わない皇子と言う敬称を嫌味に付けたうえ挑戦的な態度にイヴァンは、むっとした。
「此処ではその敬称は不要だよ」
「あら?そう?みんながそう呼んでいたから言わないといけないのかと思ったのよね」
「言ってないと思うけど?」
「あっ、そうそう噂話しの時だったわね。ごめんなさい~」
お互い気分を害したまま向い合っている。しかもかなりの接近状態だ。それもその筈でイヴァンが彼女を支えたまま自分に引き寄せていた。
「ちょっといい加減にその手離して!」
「え?あっ、ごめん!」
イヴァンは驚いて、ぱっと手を離した。何だか悪いことをしていたみたいに焦ってしまった。転ぶのを助けてやったのに変な話だ。アマーリアはわざとらしく支えて貰っていた場所を手で叩いて法衣を整えている。
(美人なのに可愛くない!)
イヴァンはそう心で呟いたところにアマーリアが声をひそめて話しかけてきた。
「ねぇ、花嫁さんのこと教えてあげましょうか?」
「花嫁さん?誰のこと?」
「鈍いわね。冥の花嫁のことよ」
「ティアナ?」
「そうそう、貴方の元恋人ティアナ嬢よ」
イヴァンは〝元恋人〟という言い方を嫌う。そんな話しは公に出したく無いものだ。
「訂正してもらうよ、神官アマーリア。ティアナは僕の友人だ」
「友人ねぇ~まあいいわ。そのご友人が今大変なのよ」
「ティアナが?どういうこと?」
イヴァンの顔色が、さっと変わった。
(只の友人にそんな顔をするわけ?馬鹿馬鹿しいわ···)
「彼女はわたしの術で前世を視たのよ。最悪のものをね···」
「前世···最悪だって?」
イヴァンもアマーリアのこの術の話しは聞いている。まやかしだと言う者も多いが大神官が認める神業に等しいそれをイヴァンは決して軽んじない。
「そうよ。これは本当だったら他人に教えることは出来ないの···でもさっきレギナルト皇子に剣を突き付けられて無理やり喋らされて···どうせならあなたには教えていた方が彼女の為にも良いと思ったのよね」
イヴァンは神官を剣で脅すなんて無茶な事をと、思いつつもティアナの為とは?勿体つけて喋るアマーリアに胸騒ぎを感じた。
「どういうこと?」
「花嫁さんは昔も冥の花嫁でその相手もレギナルト皇子だったのよ」
イヴァンはそれを聞いて二人の強い絆を感じた。しかし大変だとは?
「――でもね。昔の花嫁さんは不幸だったの。昔の皇子の愛は冷め義務だけで道具のように彼女を扱っていたのよ。そして花嫁さんはそれが悲しくて自ら命を絶った···哀しい話でしょう?現世は前世の運命を辿ろうとするのよ···これがどういう事か分かる?」
「前世を繰り返す?ば、馬鹿な···そんなこと···」
イヴァンは信じられないという顔をして淡々と喋るアマーリアをすがるように見た。
「そうね、馬鹿馬鹿しいと言って聞かなかった人達も今まで沢山いたわ。信じるも信じないも勝手···だけどその人達のその後は確実にその道を辿って行ったのよ」
イヴァンは馬鹿なと言う気持ちが強く働いたがアマーリアの予見は間違いないものだと言うものは多い。
「ど、どうすれば回避できるんだ?」
「回避の仕方を諭したのだけれど聞き入れて貰えないのよね···困ったことに」
「方法は?」
イヴァンの真剣な瞳にアマーリアは心の中で嗤いが出た。簡単に愛を捨てた男が今になって昔の恋人の安否を気遣うなど嗤うしかない。
「方法は一つ。レギナルト皇子を愛するのを止めるしか無い。そうすれば愛が薄れたからと言って嘆くことも無いでしょう?」
アマーリアのもっともな意見にイヴァンは一瞬言葉が出なかった。
「そ、そんなこと···出来るわけない···」
「そう、出来ないって言われたわ。でもそれじゃあ彼女が不幸になって行くばかりなのよね。困ったわ···だって結婚する前に無理やり犯された挙句子供まで流産していたのよね」
「なっ!何だって!兄上がそんなこと!」
「違うわよ。過去の皇子の話だから今から起こる可能性の話ね」
「そ、それでも彼女がそんな扱いを受けていたなんて···考えられない···今はそんなこと全く無いんだから」
イヴァン違うと言って首を振った。
「あら、そう?でも昔も初めは愛し合っていた感じだったわ。一緒に夜のお城を散策していたし···それが豹変した感じだったのよ。端から視ていたわたしも震えるくらい冷たい人だったわ。レギナルト皇子はそうじゃなくて優しいのかしら?ほらっ、冥神の約定でそういう振りをしているだけじゃないの?だから本心は違っていて今にその本性が出るとか?」
「違う!違う!そんなんじゃない!兄上は本当にティアナを愛している!だから僕は―――」
パチ、パチ、パチ···アマーリアのゆっくりとした拍手にイヴァンは言葉を呑み込んだ。
「彼女の幸せの為に身を引いた・・・でしょう?立派ね。でも彼女を助ける為にはそれをしない方が良かったみたいね。貴方を想ったままレギナルト皇子の花嫁になる···それが良かったのよ。貴方が好きなまま皇子に抱かれるのは少し不幸でしょうけれど義務である子供を一人産めば元に戻れるでしょう?彼女を助けられるのはあなたしかいない···」
それはレギナルトが記憶を失っていた時、兄がティアナへ芽生え始めた気持ちを気づかせようと言った戯言と同じだった。後継者を産んで義務を果たしたら兄にとっては用無しだから自分が貰い受ける。そして彼女を真綿で包むように優しくしてする。と言った内容だった。これはあくまでも本気では無かった。無かったのだが―――
イヴァンは心の片隅にある卑しい心を明かされた気分だった。
「アマーリア、僕は兄上とティアナの強い絆を信じている。二人の愛をね。だから僕に出番は無いよ」
「え?まさかでしょう?まさか貴方も愛と言うのを信じている訳?はははっ···可笑しい···冗談よね?」
「信じているよ」
イヴァンは頭を振ると迷いなくそう言った。
「ああそうか!貴方は愛を捨てた人だったわよね?だから怖いんでしょう?そうよね?」
「ねえ、アマーリア。君は恋をしたことが無いの?誰かを本気で愛したこと···僕は本気だから身を引いた。ティアナの幸せの為に···だから愛を捨ててなんかいない。今でも彼女を愛している」
アマーリアは信じられなかった。愛する事を捨てていないと言い張る目の前の男はその愛の為に彼女を諦めていると言う。しかしアマーリアは自分の考えが正しいと相手に認めさせなければ自分の中の何かが崩れそうだった。だから尚食い下がった。
「それは詭弁よ!勇気が無い訳ね!そうでしょう?相手はレギナルト皇子。怯んでしまうのは分かるわ」
「そうだね···兄上は素晴らしい。兄上に敵うことなんて一つもないだろうね。だから諦めているというのも当っているよ。情けないけれど···ティアナを僕に振向かせる自信が無い。ふふふっ、僕は甘ちゃんだからね」
アマーリアは彼が甘ったれた皇子とは思っていない。まだ見習いとは言っても神官の修行は厳しい。しかも最も厳しい大神殿に身を置いているのに弱音を吐かないと聞いている。それだけは感心したものだった。
「―――分かったわ。お気楽な兄弟同士で運命の回る音を指くわえて見ていたらいいわ」
イヴァンは、はっきり物を言うアマーリアに感心しながら肩をすくめた。そして翻っていく長い赤銅色の髪を見送ったのだった。
薬でぐっすりと眠ったティアナはいつもの時間に目覚めた。薬のせいでまだ頭がぼんやりとしている。今の自分がティアナなのかツェツィーリアと呼ばれていた昔なのか、はっきりしない気分だ。
「ティアナ様、お目覚めですか?」
(ドロテー?じゃあ私はティアナなのね···)
ドロテーが心配そうに寝台の傍に立っている。返事をしないともっと心配するだろう。
「大丈夫よ、ドロテー。少し頭がぼんやりするだけ···寝すぎかしらね」
ティアナはそう言うとぎこちなく微笑んだ。
「それは良かったです。先生も眠るのが一番だと言っていましたからですね。ご朝食はどうなさいますか?いつものように?それとも···此方へ運びましょうか?」
いつもと言ったら皇子が朝食をとる暁の間で一緒に食べることだ。
「·····今は何も食べたくないのだけれど···」
ティアナはどうしようかと迷った。皇子を恐れて避けてばかりいる訳にはいかないと思う。怖いけれど好きなのは変わらないから心が二つに引き裂かれそうだ。
「···ティアナ様。私も皇子もティアナ様の前世の内容は聞きました···」
「えっ!どうして!」
「あの、私はティアナ様のご様子がおかしくなったのはあの術にあると思ってアマーリア女神官に尋ねに行ったのですが教えて頂けませんでした。でも私の行動を怪しんだ皇子が私の後を追われていた所にその私達の問答をお聞きになられてしまって···女神官に剣を突き付けて脅されたのです」
「アマーリアさんにそんな事を···そんな···じゃあ、全部?」
ドロテーは頷いた。
「それで皇子からのご伝言です。運命に逆らっても愛している。とのことです。その前にもこう言われていました。ティアナ様が視た結末には絶対にさせない。神が創った全ての歯車を壊してでも新しく創り直してティアナ様を守ると―――神をも恐れぬ皇子らしい言い方ですよね?」
ティアナは話の途中でもう涙を流していた。胸が熱くいっぱいで、はらはらと落ちる涙を止められない。この涙を止められるのは皇子しかいないだろう。
「ドロテー、私、皇子に会いたい」
「はい。ではお仕度いたしましょう」
ティアナ達は急いだつもりだったが皇子はもう皇宮に向った後だった。
「どうなさいますか?皇宮へ参りましょうか?」
ティアナは頭を振った。
「お仕事の邪魔はしたくないから···」
「でも参りましょう!私はそうした方が良いと思います!あの皇子がティアナ様を気遣って会われるのも控えるなんてよっぽどの事でしょう?昨日は会わないと言って強がっていましたけれど痩せ我慢もいいところだと思いますしね」
「痩せ我慢?ドロテーからそう言われると皇子も形無しね」
「だって本当の事ですもの。皇子、喜ばれると思いますよ」
ティアナは皇子の仕事の場でもある皇宮には自分から訪れたことは無い。だから皇子を訊ねて行くのはもちろん初めてだ。その道中、落ち着かない心を静める為にティアナは何かとドロテーに話かけていた。
「ルーベル?」
「陛下が推している皇城の設計者よ」
「ああ、皇子が反対していると言う?」
「そうよ。とっても素敵な絵なのよ。皇子が反対している理由が分からないけど、私はとても好き!」
元気の無かったティアナが瞳を輝かせたのでドロテーは少し、ほっとした。彼女の気持ちを紛らわせてくれるものなら何でも大歓迎だ。
そのルーベルと皇宮に入った所でバッタリと出くわしたのだった。彼は何度も溜息をつきながらうな垂れてトボトボと歩いていた。手には昨日より分厚い写生帳を抱えている。
「おはようございます、ルーベルさん」
「え?うわっ!」
ルーベルは突然現れたティアナに驚いて持っていた物を全部落としてしまった。
「ごめんなさい、脅かしてしまって···大丈夫ですか?」
「だ、だ、大丈夫です!な、何でもありません!」
ドロテーはそのルーベルと言う男の顔を見ると、あっ、と声を出した。
「あなた···昨日アマーリア女神官と話していた···」
「え?ルーベルさんはアマーリアさんと知り合いだったの?」
「ええ、幼馴染でして···」
ルーベルは憂鬱の原因の一つを思い浮かべて一層暗い顔つきになった。ドロテーはアマーリアと彼の話の内容は分からなかったがかなり深刻そうだと感じていた。さっきまでは大歓迎だと思っていたが面倒に巻き込まれたら大変だと思いなおした。
「さ、ティアナ様、急ぎましょう」
「ドロテー、待って。ねえルーベルさんどうしたのですか?元気が無いみたいだけど?」
ルーベルは驚いて心配そうに自分を見上げるティアナを見た。彼女が置かれている状況は何と無く話しの流れで分かった。
(ご自分が大変だろうに昨日知り合ったばかりの僕を心配してくれるなんて···なんて心優しい人なんだろう···)
ルーベルがティアナに見とれていると彼女が散らばった設計図を拾い始めた。
「本当に素敵なお城ね」
「あっ、す、すみません!僕が拾います!」
ルーベルは慌てて拾い始めた。
「あの、違っていたらごめんなさい。その···この図面は採用されなかったのですか?」
ルーベルの手が止まった。
「はい···見て頂くことも出来ませんでした···」
皇帝から呼ばれたが皇子にこの図案が渡ることが無かった。長年この皇城の補修や改築を受け持っていた皇家御用達の業者を皇子が推していて皇帝の話に耳を貸さなかったようだ。今日も何度目かの挑戦だったが無駄に終った帰りだったのだ。
「見てもくれないなんて···」
「実績と言われました···長年携わって来た方がやり方も良く分かっていて慣れているからこんな大きな仕事には適していると···実績と言われてしまえば僕は何も反論することは出来ませんから···」
ドロテーはそれを聞いて呆れたようだった。
「慣れている?皇子のそれが本音ね!慣れている者が早く仕事が出来ると思っているのよ!早く皇城を完成させたいだけだわ!だいたいこれは陛下に一任されたんじゃ無かったの?皇子は僭越だわ!」
ティアナとの婚礼を早くしたいだけ、とまでは言わなかったが強引な皇子の考えそうなことだとドロテーは思った。
ティアナはそこまで考えが及ばず不安が胸に広がり始めた。皇子のその他者を寄せ付けず独裁するやり方は、あのもう一人の皇子を思い出してしまうのだ。見慣れた筈の皇宮が違って見え始めた。過去と同じ柱に同じ天井画···重く圧し掛かるような重苦しい造りはまた自分がティアナなのかツェツィーリアなのか分からなくなってきた。その時、レギナルトが謁見の間に向う途中に通りかかった。
「ティアナ?」
皇子は立ち止まって彼女の名を呼んだ。皇宮に用の無い彼女が此処にいるのは自分に会いに来てくれたのだろうか?とレギナルトは喜びが湧き上がってきた。しかし近づく皇子を目にしたティアナは恐怖に顔を引きつらせた。レギナルトの服装は今までも何度か見た事がある権威を象徴するかのような正装だった。今日は地方領主達との謁見があるからだろう。正装は昔からそんなに形は変わらない。豪華な縫い取りのある長衣は普段より長めで剣を使うことも無い袖は幅が広く飾りも多い。特に肩から長く引くマントは豪華で重厚だ。こんな服装をするのは皇帝か皇位継承者しかしない。この重苦しい皇宮の内装を背景とした皇子を改めて見るとあの昔の冷たい瞳の皇帝ナイジェルにしか見えなかった。