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正体不明な不安

 その日の夕方近くになって時間の空いたベッケラートが皇子宮を訪れていた。最近機嫌の悪い恋人ドロテーのご機嫌伺いのつもりだろう。

「ドロテー、会いたかった!」

「ちょっと、何するんですか!止めて下さい!」

 部屋に入って来るなりドロテーを抱きしめたベッケラートに抱き付かれた本人はもがいて抗議した。しかし彼はものともせずに更に口づけまでしようとする。

「ちょっ、ちょっと、先生!や、止め···ん···」

 嫌がるドロテーにこんなことをするのはベッケラートにとって簡単なことだった。あっという間に彼女の唇を奪ってしまう。そして足を蹴られて突き飛ばされるのも何時もの事だった。

「もうっ!先生!ティアナ様の前でこんなことしてっ!」

「そう言いなさんな。久し振りだろう?会えなくて寂しかったんでね」

 ベッケラートは蹴られた足を撫でながら片目を瞑って言った。

「へぇ~そうですか?公爵様は色々と忙しかったようですけれど?特に夜は!」

「なんか棘のある言い方だな?夜が何だって?」

「夜会です!心当たりがあるでしょ!」

「夜会?ああ、皇子に押し付けられた何とかを祝う会だったっけ?それがどうした?」

 ドロテーはベッケラートがとぼけるつもりかと腹が立ってきた。


「そこのご令嬢がとても綺麗な方で、ずっと一緒に居たそうですね!親切なご婦人がわざわざ私に教えて下さいました!」

「令嬢?ああ、具合が悪いとか何とか言ってくっ付いていた娘の事か?何だ?ずっと機嫌が悪かったのはそう言うことか?」

 ベッケラートは勝手に納得すると機嫌良く、ニヤっと笑った。逆にドロテーは、かっと頬を染めた。ベッケラートの記憶にも残ってないような娘を自分だけが気にして、嫉妬していたと思うと恥ずかしくなったのだ。宮廷ではこんな噂話は大げさに出回ることが多いと分かっているのについつい耳を傾けてしまった結果だ。再び宮廷で活躍しだしたベッケラートは人気急上昇中だった。その婚約者のドロテーに対してご婦人達のやっかみが多いのは当たり前で、それに引っかかってしまった自分が情けなかった。でもベッケラートにこれ以上、ニヤニヤさせたく無かった。

「と、とにかく不謹慎です!噂にならないようにして下さい!」

 ドロテーは〝私がいるのに!〟とまでは言わなかったが思わず本心が口から飛び出してしまった。これでは彼のニヤニヤはもっと酷くなるだろう。失敗だ!

「オレは医者だからなぁ~具合が悪いって言われたら放っておけないしなぁ~こないだの娘なんか苦しいとか言って胸の紐を解くし···」

 ベッケラートはドロテーの反応を楽しむようにわざと言った。すると効果満点で彼女の琥珀色の瞳はつり上がり、気の強そうな唇を引き結んだかと思うと平手打ちが飛んできた。もちろんその手はベッケラートの頬を直撃だ。

 近くで見ていたティアナは驚いて口に手を当てた。口喧嘩はよく見るがドロテーが手を上げたのは初めて見たのだ。カミラはずっとびっくりした顔をしたまま、お茶を淹れかけていた手が止まっている。彼女は噂のベッケラートを初めて間近に見たうえにこの騒ぎだから当然だろう。帝国三大公爵の筆頭で皇家の信頼も厚い彼は良くも悪くも話題の人だった。昔は宮廷一の女たらしで華々しい話題を提供していたと思ったら、今度は急に隠遁生活を始めて帝国一の医者になっていた。そしてどういう訳か一介の侍女と恋愛結婚するというなんとも支離滅裂な人物という噂だ。


 しかし叩かれたベッケラートは怒ってなく、更に嬉しそうだった。

「怒った顔はやっぱり可愛いな。そんなに剥きにならんでもオレはお前以外の女なんか人体模型ぐらいにしか見えてないって知っているかい?」

 深い海色の瞳を、すっと細め甘く囁くように言う女性経験豊富なベッケラートは無敵だろう。ドロテーは見る間に顔が赤らんでいた。

「し、知りません!ど、どうせ私のことも診療所の隅にある骨格標本ぐらいにしか思って無いでしょう!」

「骨格模型?確かにあれも細身の色白でオレ好みだな。でも···やっぱりオレはドロテーが一番だからなぁ~埃をかぶっているライバルは今度処分してやるから機嫌直せ」

 ベッケラートが笑いながら言った。

「ほ、骨が私のライバルですって!やっぱり先生は私のことガリガリの骨みたいだと思っているんでしょう!」

 ベッケラートは、しまったと言うような顔をした。彼女がいつも気にしているものに触れてしまったからだ。ベッケラートからすればすんなりとした背に長い手足はとても魅力的だと思うのにドロテーは嫌いらしい。

「じょ、冗談だから機嫌を直してくれないか?調子に乗りすぎたオレが悪かった!すまん、許してくれ!ドロテー、なぁ~ドロテーちゃん」

 ベッケラートは情けない顔をしてドロテーの機嫌をとろうと必死だ。ティアナはこんな二人を見ると羨ましくなってしまう。思ったことを遠慮無く言うドロテーと、そんな彼女に大人の余裕でわざと合わせているようなベッケラート。彼は実際そうやってドロテーを甘えさせているのだろう。だから喧嘩しているように見えてそうでは無いのだ。

 ティアナは、ふと我に返った。ドロテー達と自分達と比べていることに気が付いてしまったのだ。


(羨ましいと思うなんて今まで無かったのに?)


 何故そう思ってしまったのかティアナは自分でも分からなかった。ただ正体の分からない不安だけが胸に広がっていたのだった―――

「お二人···だ、大丈夫でしょうか?」

 カミラは恐る恐るティアナに訊ねた。

「たぶん大丈夫よ。だって先生は笑っているでしょう?先生がちゃんと納めるわよ」

 ティアナの予想通りにベッケラートはドロテーを大人しくさせていた。彼女の下手に出ているようでいてそうでは無いのがよく分かる。ティアナはベッケラートがつくづく大人だと思うのだった。

「ティアナ様、私ごとで騒ぎまして申し訳ございませんでした」

「お嬢ちゃん、すまんな」

 ほらね、と言うようにティアナはカミラに目配せをした。

「先生、今日はもうお仕事は終わったのですか?」

「う~ん。終わったと言うかまだと言うか···オレが居ても居なくても話が進まんから抜けて来たんでね。今、皇帝と皇子が対決中さ」

「え?また皇城のことですか?」

 皇城の移転にレギナルトは同意したものの、その内容について皇帝とは意見がよく衝突しているようだった。

「ああ。皇帝ときたら今までぐうたらしていた癖に自棄に元気出して皇子に反抗するからな。まぁ~強気の源はブリジット女王の後押しだろうけど···やっぱり皇帝も男だったんだとつくづく思ったな。好きな女が出来るとこうも違うものか?ってね」

 ティアナも呆れ顔のベッケラートと同じように感じていた。明らかに皇帝の覇気が今までと違って見えるからだ。何事にも逃げ腰で面倒なことは息子に任せていた皇帝がこの皇城移転に関しては全く違っていたのだ。


「今度は何でもめているのですか?」

「築城の総括技官選び」

「技官の選びですって!今頃そんなこと言っている訳?」

 ドロテーが質問したティアナより先に呆れ果てて言った。

「だろう?折角オレが金も人も材料も揃えてやっているっていうのに肝心の動かす奴が決まらないんじゃ話にならん」

「でも、陛下から完成予想図を見せてもらったでしょう?それを一緒に考えた人では駄目だったのですか?」

 ティアナは先日、皇帝がレギナルトを説得する為に持っていた図面のことを言った。あれは皇帝の考えに沿って専門家が作っていたものだ。

「あれが却下らしい。皇帝がオラールで見つけてきたお気に入りの技師に任せたいらしいんだがね。皇子が言うにはその技師が若造で実績も無く頼りにならないから駄目だそうだ。あいつ若いくせに意外と年寄りみたいに保守的だからな。それに大昔の専制君主のように言い出したら聞かない」

 ティアナは大昔の専制君主と聞いてドキリとした。前世術で視た氷のような紫の瞳をしたレギナルトを思い出したからだ。その皇子はまさしくその通りの人物だった。生まれ変わっても本質は変わらないと言うアマーリアの話を思い出した。

「お嬢ちゃん?どうかしたのか?」

 急に暗い顔をして黙り込んだティアナに気が付いたベッケラートが声をかけた。

「大丈夫ですか?ティアナ様。やっぱり調子が良くないのですか?」

 ドロテーも心配そうに聞いた。

「なんだ?具合でも悪いのか?診てやろう」

「いいえ。大丈夫です···」


「やっぱりあの変な術がいけなかったのですよ!」

「そ、そんなことありません!私は大丈夫だったのですから!」

 ドロテーの言葉にカミラが直ぐ抗議した。

「なんだ?その術って?」

「先生はご存知ですか?大神殿の女神官がしている前世術」

「ああ。前世の記憶を見せるとかいうのだろう?宮廷でも評判になっているが···あれをやったのか?まさかドロテー、お前も?」

 ベッケラートは気分を害したように言った。

「私?私はしていません」

「そうか。ならいい」

「いいって、どう言うことです?」

「あれを視たがるやつらは興味本位もいるだろうがそれよりも現状に不満を持っているやつか、どうしたらいいのか迷っているやつが多いからな。お前がもしそういう気持ちがあるのならオレに問題があるのかと思ってしまうだろう?そうなったら自信無くしてしまうさ。ああ良かった!オレはまだ愛されているって訳だ!」

「な、な、何を言っているのですか!そ、そんなへ理屈!」

 度胸の良いドロテーでも流石に皇家に次ぐと云われる公爵家への嫁入りを躊躇しているのでは無いかとベッケラートは心配だったようだ。

「まぁまぁ、照れるなって。で?お嬢ちゃんがしたのか?」

 ティアナはベッケラートの話を聞いて青ざめていた。これをするのは現状に不満を持つ者か迷いのある者···


「私···そんなつもりじゃ···」


「はぁ~まぁ、やつ相手ならそういう気持ちになっても仕方が無いって言うか···でもまぁ~それをしたって言わない方がいい。それ知ったら間違い無くあいつ切れるぞ。で?どうだったんだ?」

「それは···」

 ティアナはまた黙り込んでしまった。

「ティアナ様。そんなに悪いものを見られたのですか?」

「カミラ···あなたが見たものは良いものだけだったの?」

「いいえ。もちろんつらいこともありました。アマーリア様が言われたように印象に残っている断片的なものが視えるだけだから飛び飛びでしたけれど全体的に幸せそうでした」

「それは自分が死ぬまで見えた?」

「はい。もちろん。それが最後の場面だと思います。死んだらそれ以上の記憶が無いのでそうかと···」

 ティアナも自分で毒杯を飲む場面を視ている。当然それが最後の記憶だと疑うことは無かった。まさかその後に続くものがあると思わないのが当然だろう。

「あの···ティアナ様。アマーリア様にご相談されたらいいと思いますよ。誰にも話したくない内容なのでしたら一緒に視てらしたあの方になら大丈夫でございますでしょう?」

「アマーリアさんに?」

「はい。そうされている方も多いようです。きっと良い道を示して下さいますよ」

 ティアナは確かにカミラの言う通りだと思った。誰にも言えないのなら事情を知る彼女になら相談出来るだろう。彼女も相談にのると言ってくれていた。

「そうね···そうしてみるわ。今日は疲れたから向こうの部屋で一人にさせて貰えるかしら···ベッケラート先生はどうぞゆっくりして行って下さい。ドロテーも今日はもういいから···」

 こんなことを言うティアナは珍しかった。ベッケラートとドロテーはお互い顔を見合わせた。そしてティアナが寝室に引き込む時、足を止めて付け加えた言葉に更に驚いたのだった。


「···カミラ···もし、皇子が来ても今日は疲れて寝ていると言って部屋に入れないで断って欲しいの···お願いね」

「あ、はい。畏まりました」

 ティアナは本当に手がかからない主人だ。一人にしてくれと言われれば何もすることが無くなってしまう。

「カミラ、あなたも控え部屋に帰っていいわよ。皇子がお帰りになったら分かるでしょうし···たぶんティアナ様はもうお呼びにならないわ」

 カミラはドロテーの指示に、はいと返事をして部屋から出て行った。

「お嬢ちゃんは大丈夫か?あいつに会いたく無いとか言うなんて有り得んだろう?」

「今日は本当に変なんです。あの怪しい術を体験なさってからずっと塞ぎ込まれてしまって···聞いても答えてくれなくて···私こそどうしたらいいのか···」

 珍しく気弱なドロテーをベッケラートが優しく抱き寄せた。

「オレの女神様が珍しくへこんでいるな。元気だせよ。らしく、ないだろう?」

 挑戦的な言い方に怒ると思ったベッケラートだったがドロテーが、こつんと自分の額を彼の胸に当てて身体を預けてきた。それこそ珍しいことでベッケラートが驚いたぐらいだ。

「···先生のせいなんだから···」

「何が?」

「···私···ティアナ様が悩んでいるなんて気が付かなかった···先生のせいよ。私が先生のことばかり···」

「ドロテー···」

 ベッケラートは優しく名を呼び彼女が自分の胸に押し当てて隠している顔をすくい上げた。ドロテーの勝気な瞳は少し涙で潤んでいたが彼と目を合わそうとしない。何時も強気な分、自分が弱い部分を見せると恥ずかしいみたいだ。しかも彼女の優先順位がティアナから自分に移っていると告白されたようなものでベッケラートとしては顔が緩んで仕方が無い。ドロテーは、ちらっとその顔を見た。

「に、にやにやしないで下さい!」

「にやにやしたくもなるだろう?好きな女から〝貴方で胸も頭もいっぱい〟って熱烈に言われたんだから」

「そ、そんな、ば、馬鹿みたいに、い、言っていません!」

 ドロテーは、かっと顔を赤くして彼の腕の中から逃れようとしたがそれは無理だった。相変わらずの有無を言わせないベッケラートの口づけで唇を塞がれ、その甘い手管で手足の力も抜けてしまったのだ。有頂天になっているベッケラートは本気のようで易々と解放しなかったし反抗する間も与えなかった。

「なぁドロテー、早くオレの所に来いよ」

 やっと唇を解いたかと思ったらまたその話だった。ドロテーも今度ばかりは呆然としている間にうっかり返事をしそうになってしまった。

「·····は···いいえ!そんな場合ではありません!ティアナ様が大変なのに!私がもっとしっかりしなくっちゃ」

 ベッケラートは溜息をつくと、これ以上しっかりしなくていいと心の中で呟いた。そして恋人として負けてしまいそうなティアナへの友情を煽ってしまった自分を恨めしく思ってしまった。しかし貴重な恋人との時間をどう過ごそうかと思った時に退室して行ったカミラが戻って来たのだ。

「ドロテーさん、大変です!皇子がお戻りになられました!」

 何時も帰りが遅い皇子だからティアナの断りも容易いと思っていたが、こんなに早く帰って来るとは予想外だった。


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