紫の瞳
「ティアナ···」
近づきかけたレギナルトは直ぐに彼女の様子に気が付き歩みを一瞬止めた。しかしゆっくりとティアナとの距離を縮め始めた。そしてそっと囁くように声をかける。
「ティアナ···私はお前を傷付けるものでは無い···大丈夫だ···大丈夫だから···」
レギナルトは手を伸ばせば届く間合いまで近づいたがティアナの表情は恐怖で固まったままだ。それでも優しく語りかけながら、そっと彼女に触れた。皇子の指先がティアナの頬に触れた瞬間、消えていた痣が浮び出してきた。ティアナは恐怖で動けないのかそれともそれを克服しようとして動かないのか分からないが身体は正直に相反する心を映し出しているようだ。
レギナルトはその浮び上がった痣を苦々しく瞳を細めて見た。過去の己の罪を突きつけられているのだ。目に見えてティアナがガタガタと震えている。本当に最初に出会った頃のようだった。
(それでもその頃と違うのは彼女が私を愛してくれている···前より遥かに良い···遥かに···)
レギナルトはそう自分の心に言い聞かせた。
「ティアナ···愛している。怖がらなくていい···大丈夫だ···」
レギナルトはそう言いながら指先から次第に手のひらで彼女の頬を包むようにゆっくりとした動きで触れる範囲を広げ始めた。まるで臆病な小動物に近寄るかのような感じだったが、それでもティアナの身体が自然と後ろに引いている。
「わ、私···」
ティアナは、じっと自分を見つめるレギナルトに耐え切れなくて天井を見上げた。しかしそれが逆効果だった。歴史ある建物は恐ろしく過去を思い出すだけだ。
「い、嫌···ここは嫌···こんなお城は嫌い!誰か、誰か助けて!怖い!」
ティアナは皇子の手を振り払うことはしなかったが、只この城が怖いと泣き出した。頬に触れるレギナルトの手に彼女の涙が伝わる。涙を流すティアナの目は焦点が合っていなかった。何処か遠くを見ている感じだ。
「ティアナ···何処を見ている?ティアナ!」
「皇子!ティアナ様は多分思い出されているのだと思います。過去のご自分を···この皇宮の造りは昔からそんなに変わらないのではありませんか?だから···」
ドロテーは二人を黙って見ていられず思ったことを口にした。
ティアナに刻まれたつらい記憶の背景にあった城―――それは簡単にその過去へと記憶を引きずり込んでしまうのか?父である皇帝がこの城が重く湿った空気を感じて嫌いだったと言っていた。皇族の妄執が染み付いているとも言っていたのをレギナルトは思い出した。心の弱い父親の世迷言だと思っていたのだが···その時、散らばっているルーベルの図面がレギナルトの目に入った。ティアナが気に入っている様子だった若い技師。彼女が気にかける時点で不快だと感じていた。だがその描かれた図面は以前皇帝から見せられたものより遥かに素晴らしいものだった。それにティアナが好みそうなもの―――今までの業者に任せれば無難に今の皇城と差ほど変わりなく出来上がるだろう。皇帝の新しいものとは今までと違ったものと言う意味合いだったが、レギナルトは同じであっても場所を移し新しく造り直すだけで十分良いと思っていた。ドロテーの邪推通りに早く仕上げて婚礼を執り行いたいという気持ちが心の底にあるのは否定できない。出来ないのだが·····
レギナルトはその図面を数枚拾い上げた。そしてその皇子の行為に驚くルーベルに視線を流した。
「これはお前のだな?」
「は、は、はいっ!」
ルーベルは腰を抜かさんばかりに返事をした。
「新しい皇城はお前に任せた。大至急取り掛かれ」
「えっ?ど、どどいう」
「聞こえなかったのか!城はお前に任せると言ったのだ。分かったならこれを持って行き直ぐに取り掛かるがいい!」
レギナルトは自分の印の入った指輪を指から抜くとルーベルに向って投げた。
「うわっ、こ、これは」
「私が承認したという証だ。関係者にはこれを見せるがいい。つまらないものを造ったら首を刎ねる!分かったか!」
「は、は、はい!しょ、承知しました!」
いきなり裁可が下りたルーベルは慌てふためいて去って行った。
そして再びティアナへと向き合ったレギナルトはルーベルの図面を見せた。
「ティアナ、お前の為に、お前の好きな城を築こう。この古い城は直ぐにでも壊してやる。だから怯えなくていい···お前を傷付けるものは何もないのだ。大丈夫だ···全ては昔のことだから忘れて私の腕の中へ戻って来てくれ···ティアナ···」
ティアナは目の前にチラつく図面が目に入り正気に戻りかけた。
「お、皇子?」
「ティアナ!」
レギナルトの自分を呼んだ大きな声にティアナは、はっとしそれと同時に皇子の瞳をまともに見てしまった。
「む、紫の瞳···あっ···あの人と同じ···」
ティアナに再び恐怖が蘇ってきた。
「紫?同じ?」
レギナルトはティアナの言葉の中に潜む己の過去を見た。
「私の瞳?私の瞳が奴と同じだと言うのなら潰してやる!」
ドロテーが悲鳴を上げた。レギナルトが小剣を抜いたからだ。皇子は本気で自分の瞳を潰すつもりのようだった。
「お止め下さい!皇子!」
ドロテーの制止など聞くレギナルトでは無い。ティアナは混乱していた。冷たい紫の瞳をした皇帝を鮮明に思い出すのと同じくらいに何故か心の奥で声がしていた。
〝大好きな紫の石〟そう···怖いけれど···本当は大好きな色の瞳。
「お、皇子···い、嫌···止めて···私の好きなその瞳を傷つけないで···」
「ティアナ···」
ティアナは震える手でレギナルトの小剣を持つ手に自分から触れた。痣は消えてはいない。それでも自分の為に無茶をする皇子を止めたかった。カチャリと小剣が落ちる音がするとレギナルトはその代わりにティアナをそっと抱きしめた。ティアナはビクリと肩を揺らしたがそのまま大人しく皇子に身体を委ねている。お互いの鼓動が響き合ってその音しか聞こえない感じだ。どれくらいの時間が過ぎたのだろうか···ティアナの身体に浮んでいた痣が薄れ始めたのだ。
「···もう怖くないか?ティアナ?」
問われたティアナは小さくコクリと頷いた。レギナルトの今まで耳にしたことのないような深い息を吐く音が聞こえてきた。
「良かった···少しずつでいい···少しずつでいいから私を否定しないでくれ。もう昔とは違う、違うのだ、ティアナ···愛している。私はお前を傷付けたりしない···」
ティアナの涙で潤む瞳にレギナルトはそっと口づけを落としたがティアナは怯えなかった。それからお互いが求め合うように唇を求めた。レギナルトの口づけはいつもと違って繊細で甘く優しかった。
ドロテーは、ほっとして今のところは何時ものように咳払いをすることなく見守っていた。早朝とは言っても皇宮の出入りの多い場所で何ごとかと立止まる者は多かった。それがレギナルトだと分かると見て見ぬ振りをしながら足早に去る者が殆どだ。
(えっと···もうそろそろ止めるべき?)
ドロテーがそう思っている所にゲーゼ達が現れた。大神官のお供にはアマーリアとイヴァンという異色な取り合わせだ。
「うおっほん、皇子。もう謁見の時刻ではございませんかな?」
レギナルトは名残惜しそうに唇を解いて顔を上げた。
「―――言われなくとも分かっている」
「す、すみません、皇子。お仕事の邪魔をして」
ティアナは深くなっていた口づけに、ぼうとしていたが我に返って言った。
「お前が謝る必要は無い。私には今のお前以上に優先されるものなど無いのだからな」
レギナルトはそう言ってティアナを優しく見つめた。瞬く間にティアナの頬が染まっていく。おかしくなっていた二人の雰囲気はいつも通りになっているようだ。厳しいゲーゼの顔が緩んでいる。
「···ゲーゼ、何か言いたそうだな?気味が悪い顔をするな」
「ふっふ、ふ、仲が宜しいようで安心いたしました」
ゲーゼの浮かれ顔を無視したレギナルトだったがイヴァンの視線に気が付いた。イヴァンはティアナしか見ていなかった。こんなにあからさまな態度は珍しい。レギナルトの胸には消えない弟イヴァンへの嫉妬が抑えても、抑えても出てくる。
「イヴァン、何を見ている?」
イヴァンは、はっとすると自分に鋭い視線を送る兄レギナルトを見た。
「いえ···僕は···」
イヴァンは甘い毒のようなアマーリアの囁いた言葉が過ぎっていた。〝彼女を助けられるのはあなたしかいない〟ティアナを助けられるのは自分しかいないと彼女は言っていた。そのイヴァンの様子をレギナルトは窺った。
「イヴァン、お前···事情を知っているんだな?」
「ええ、わたしが話しました。彼には協力してもらわないといけないかもしれないでしょう?」
レギナルトの追求に答えたのは皇子を恐れないアマーリアだ。
「アマーリア、何を言うんだ!その話しは――」
イヴァンは言葉を呑み込んだ。嫌な汗が背中を流れる―――レギナルトが、すっと瞳を細めたからだ。
「その話しとは?」
「それは――」
「アマーリア!」
アマーリアはイヴァンの制止を無視した。
「もちろん、花嫁さんを救う為に彼女の心を奪い返しなさいという助言よ。花嫁さんは一応継承の子だけ産んで彼の下に戻ればいい。それが一番確実でしょう?冥神の約定は冥の花嫁が承知すればいいだけ···別に相手を好きになれなんて言っていないでしょう?」
「そんなこと···私···」
ティアナは思いにもよらなかった事を言われて驚いた。
「ティアナ、お前は黙っているんだ。イヴァン···そういう気持ちがあるのか?」
レギナルトがずっと心に抱いていた懸念―――避け続けていた疑惑。
「ち、違う!···いや―――違わないかも···そんな気持ちが全く無かったなんて言えない。今でも···今でもティアナを愛しているから···」
ティアナを抱いているレギナルトの腕に、ぐっと力が入った。そして立ち昇るのは怒りだ。しかしレギナルトは黙ってイヴァンの話しに耳を傾けているだけだった。
「―――愛しているから···彼女には幸せになって欲しいから兄上を求めるティアナに僕は何も出来ない。でも確かに兄上を想うことで彼女が不幸になってしまうのなら···と思ったよ。でも僕は大丈夫だと思う···そうだろう兄上?そうでないのなら遠慮なく僕は彼女を狙うよ」
「馬鹿が···」
レギナルトの周囲を切り刻むような緊迫した雰囲気が和らいだ。
嗤い声が聞こえた。アマーリアが嗤っていた。
「本当に呆れた人。愛しているなら奪えばいい!それが出来ないのなら愛を語らなければいい!良い子ぶったあなたみたいな人を見ていると苛々して腹が立つわ!」
アマーリアはイヴァンに向って暴言を叩き付けた。しかしイヴァンは怒ってはいなかった。ただ哀れんだ顔をした。
「アマーリア···君は何をそんなに怒っているんだ?この間も思ったけれど···それは僕にじゃないよね?誰に言いたいんだ?それに何を確かめたいの?」
皆が静かにアマーリアを見つめた。イヴァンの言った意味とは?静まり返った時、ゲーゼが厳かに口を開いた。




