気弱令嬢はオネェ殿下に嫁ぎたい
バチンッーーー!!
大きな音が耳の中に響き、頬はジンジンと焼けるような痛みに襲われる。口の中には血の味が広がり、エレノアは顔を顰めた。
結構な衝撃だったせいか、尻もちをつくとそのまま顔を上げることが出来ない。
「どうだ、痛いだろう? その位、この可愛いアナイスは心を痛めたのだぞ!」
「お兄様、私は大丈夫ですわ。エレノアお姉様も悪気があったわけではないでしょうから」
アナイスは自分を庇う兄ランベールの背後で、大きな瞳を涙で潤ませていたが……艶やかなピンクの唇だけは弧を描く。
「僕の妹は、なんて清らかで優しいのだ。同じ姉妹でこうも違うとは」
と蔑む視線をエレノアに向けた。
エレノアは内心、同じ姉妹と言われた事に納得出来ていない。
だからと言って睨み返せば、また平手打ちをされるだろう。怒りと恐怖で唇が小刻みに震える。視線を下げたまま、耐えるしかない。
(すぐに暴力……これだから、男の人は嫌いよ)
侯爵邸の庭の一角で起こっている事態に、誰もエレノアに助けの手を差し伸べてはくれない。金で雇われている使用人達は、ランベールとアナイスの味方でしかなかった。
フーシェ侯爵家の長女、エレノア・フーシェ。正妻のただ一人の子供だったのにも関わらず……侯爵からの寵愛を受けた侍女上がりの側室、そしてその子供ランベールとアナイスに虐げられる毎日を過ごしていた。
正妻である母親が亡くなってからは、それが更に酷くなる一方だった。
(全て、お父様のせい)
政略結婚による愛のない結婚。伯爵令嬢だった母親は、心無い侯爵の仕打ちに精神と身体を病み、この世を去ったのだ。
義務から出来た正妻の子。侯爵は側室の機嫌を損なわないように、同時期に側室の元へも通ったのだ。
そして、2人は同じ年に産まれた。
本来なら、エレノアが姉でランベールが弟だ。
けれど、本妻の子が男児であった場合を考えた侯爵と側室は、妊娠の月齢を偽った。
そう、側室の子であっても長男として、侯爵家の跡取りにする為に。
当時の出産に関わった使用人は、全て侯爵が選んだ裏切れない者達。大金を握らせられ屋敷から追い出されたが、誰一人としてその事実を口外できる者は居ない。
2人の妻は本邸と別邸とに分けられ、正妻に真実を知る術はなかった。
(私は、誰にも必要とされていない。いいえ、違うわ。いつか、私もお母様と同じように……政略結婚の道具にさせられる)
痛みと悔しさで視界が滲む。
エレノアには幼少期から特殊な力があった。
物に残された感情や思念を読み取る力。亡き母との約束で、能力についてはひた隠しにしてある。
母親であるエリアーヌは異能力の持ち主ではなかったが、実家である伯爵家は代々魔術師を輩出している名家だった。
その能力こそ侯爵家は必要とし、先代侯爵である祖父は様々な条件をクリアし、エリアーヌを息子の嫁として手に入れたのだ。
だが、肝心の息子は……。
美人とは言い難いエリアーヌと、その伯爵家の能力についても迷信とし興味を示さなかった。
それ故に、侯爵家には必要な繋がりであっても、侯爵はエリアーヌを面倒なお荷物だと思っていた。
(そんなお父様の、手駒になんて……なりたくない)
この力を知れば、侯爵家繁栄の為に良からぬ企みに利用される事は嫌でも分かる。
だから、エレノアは絶対に知られないようにしていた。
「私には、何の事だか」
「しらを切るつもりか? 僕やアナイスが妾の子だと酷い言葉をぶつけた上、ドレスを果実酒で汚したそうじゃないかっ」
「……!? そんなことは、しておりません」
(そもそも、果実酒なんて飲まないわ。一緒にお茶すらしないのに)
本当は証拠だってある。エレノアが媒体となり、物と人を繋げば、自分以外にもその思念を見せられる。
(けれど、それは口が裂けても言えない)
「これは、父上に報告するべきだな」
「お兄様、それではお姉様が可哀想ですわ」
「ああ、アナイスは本当に優しい子だ。僕がずっと守ってあげるから安心するといい」
まるで恋人のような会話をする異母兄妹に、嫌悪感が湧き上がると同時にゾクッとする。
(……また、お父様に叩かれてしまう)
真実を話した所で、どうせ聞いては貰えないのだ。
いつも上手く立ち回るアナイスは、母親似の美しい顔に、か弱く可憐な娘を演じ父に溺愛されている。反対にエレノアは、意地悪な姉という不名誉を与えられた。
兄妹が去った屋敷の庭の片隅で、エレノアはただ声を殺して泣くしか出来なかった。
◇◇◇◇◇
――鞭で打たれた足の腫れが引いてきた頃。
珍しく全員揃った夕食の席で、侯爵はゆっくりと口を開いた。
「宮殿で開かれる舞踏会の招待状が、エレノアとアナイスに届いている」
「まあ、なぜ二人なのでしょう?」
側室から正妻となったジャクリーヌは不満を口にした。この時期の宮殿でのダンスパーティーと言えば、第二王子の婚約者の選考も兼ねられている。
第二王子は、容姿も人間性も完璧で貴族令嬢たちの憧れの存在だ。そんなチャンスは滅多にないので、どの令嬢も気合いを入れてむかうだろう。
「王太子殿下がお戻りになられたのだ」
「……まさか。王子殿下ではなく、王太子殿下の?」
「その通りだ」
ジャクリーヌは、カチャリとフォークを取り落とし顔色を悪くする。アナイスも同様だった。
王太子の妃に選ばれることは、最大の名誉だが……。第二王子と違い、王太子は残忍で暴力的、好んで戦地に自ら赴く冷徹な人間だと噂になっている。
常に甲冑を身につけ、その顔を見た者はあまり居ないらしい。
「そ、それでしたら、長女であるエレノアが相応しいのではないでしょうか?」とジャクリーヌ。
「そうですわ。私もお姉様を差し置いて、先に結婚など出来ません」
神妙な面持ちで訴えるアナイス。
「父上。アナイスはこの所、体調が良くありません。ですから、侯爵家からはエレノアだけ行けば良いのではないでしょうか?」
「ふむ……エレノアそれで良いな」
温度の無い父親からの言葉は、確認ではなく命令だ。
「かしこまりました」
エレノアは、テーブルの下で震える手を握り合わせ、小さく返事をするのがやっとだった。
◇◇◇◇◇
早朝から、愛想のない侍女達に身支度をさせられていた。
普段は侯爵令嬢とは思えない、質素な服と半分顔が隠れてしまう様な地味な髪型だった。当然、化粧も碌にした事はない。
エレノアに、舞踏会で王太子と近付くことを命じた侯爵の指示で、侍女達は完璧な令嬢姿を作り上げた。
化粧と髪を担当した侍女は、ゴクリと唾を呑んだ。
美貌の侯爵と呼ばれた父親似のエレノア。鏡に映る姿は、孵化した蝶のように美しく愛らしかった。
(お父様に似てるなんて……なんて皮肉なのかしら)
支度を確認にやって来た侯爵は、驚きに眉を上げる。
そしてーー。
「ほう。私に感謝するのだな。上手く王太子に気に入られてこい」とエレノアの顎を掴むと、冷ややかな笑みを浮かべた。
そんな父親に送り出され、馬車はエレノアを乗せ宮殿に向かって出発した。
◇◇◇◇◇
大きなシャンデリアが輝く煌びやかな会場には、美しいドレスを纏った令嬢達が会話を弾ませていた。
(……だめだわ)
どうしても、その輪の中に入っていけない。
会場の人混みを避けて、柱に隠れるように静かに立つ。普通の舞踏会と違い、出逢いを求める男性が少ないことが救いだった。
耳を傾ければ、色々な会話が聞こえてくる。
舞踏会は数日にわたり行われ、最終日に王太子が選んだ令嬢と踊るのだと、彼方此方で噂されていた。
噂は確かなものだった様で、初日は国王陛下と第二王子がやって来た。
王太子も会場に来はしたものの……なぜか甲冑姿で、ザワリとその場の空気を凍りつかせる。
しかも、国王陛下の挨拶が終わると、さっさと会場から居なくなってしまう。国王が許容した事に異議を唱える者などおらず、ダンスパーティーは第二王子メインで始まった。
(これなら、会場を抜け出しても大丈夫よね……)
ホールの片隅に立っていたエレノアは、少しだけホッとした。
以前、社交界デビューの日にやって来ただけの宮殿。国王拝謁の儀だけを済ませ、付き添い人としてやって来た義母にさっさと連れ帰られた。
だから、ダンスパーティーは初めてに等しい。
その日以来、エレノアは病弱だと噂され表舞台に呼ばれる事はなかったのだ。
慣れないヒールとコルセットで、栄養不足の身体では立っているのも辛かった。
人目につかないように、庭の奥へと進む。
(あ……水音が)
耳に心地よい音のする方へ近付くと、淡くライトアップされた噴水が、キラキラと弾ける水滴を光らせていた。
まるでエレノアを歓迎しているようで、強張っていた顔から力が抜ける。
(きれいーー……)
自然と足はそちらに向かう。
腫れは引いたとはいえ、足の痛みは取れていない。
周りに人がいない事を確認すると、噴水の縁に腰掛け靴を脱ぐ。はしたないとは分かっているが、ドレスの裾を少し上げ、手で掬った水をそっとかけた。
(はぁぁ、冷たくて気持ちいい)
熱を持っていた足は、水の冷たさで生き返る様だった。
それを数回繰り返し、もう一度水面を覗こうとした時……
「そこで、何をしている!」
鋭く低い男の声が、背後から聞こえた。
エレノアはビクッと体を震わせる。体中の血の気が引いていく感覚。
(見つかってしまった! しかも、男性に……どうしよう、怖い)
恐怖で振り向く事も、返事をする事も出来ずにいると、男は噴水に向かって歩き出す。
「なぜ、返事をしない」
男の太い声にガタガタと震えが止まらない。こんな姿を見られては、淑女として大問題だが。それよりも、乱暴をされる可能性だってあるのだ。
(逃げなきゃ。でも……体が動いてくれないっ)
「……これは、どういうことだ?」
男は、エレノアの足を見て言葉を失った。痩せ細った足には、無数の傷跡と痣がハッキリと見える。
「ご令嬢、この足……一体なにがあったのか話せるか?」
険がとれた話し方に、エレノアは漸く声の方を向く事ができた。
男は……自分を見上げた、今にも壊れてしまいそうな儚く美しいエレノアに、ヒュッと息を呑んだ。
端正な顔立ちに騎士のような装いで、心配そうに自分を見詰める男。エレノアもまた、月明かりに照らされた漆黒の髪の青年に見惚れてしまった。
男はハッとすると、膝をつきエレノアにハンカチを差し出す。
エレノアは戸惑った。それを察した男は、優しく話しかける。
「ご令嬢、話したくないのなら構わない。だが、そんな濡れた状態では会場に戻れまい?」
「あっ……ありがとう存じます」
何も考えずに足を濡らした自分が恥ずかしく、顔を真っ赤にするとハンカチに手を伸ばした。
丁寧な刺繍が施されたハンカチは、きっとこの騎士を想った恋人からの贈り物だろう。
そんな、大切な物を借りてしまっていいのかと、出した手が止まる。
「私に拭かれるのは嫌だろう?」と騎士風の青年はエレノアの手を取り、ハンカチを握らせた。
――その瞬間。
エレノアの頭の中には、ハンカチから残留思念が伝わる。ひと針ひと針丁寧に、楽しそうに刺繍する人の感情。目を瞑り、その優しい感情を全身に感じる。
「どうした、ご令嬢?」
エレノアは、目をゆっくり開くと嬉しそうに微笑んだ。そして男を見て、つい言ってしまった。
「この刺繍、あなた様がご自分で……本当に素敵ですね」と。
「なっ!?」
今度は男が顔を赤らめる番だった。
いつもなら、決して動揺など見せない男は、エレノアの素直な言葉と笑顔に、虚を衝かれてしまったのだ。
今まで感じた事のない感情。ドクンドクンと高鳴る胸の音に戸惑いを隠せない。
「この刺繍を……私の様な男がするわけないだろう?」
今更しらを切っても、もう手遅れだと思ったが一応誤魔化そうと努力する。
(なんて……可愛い方なのでしょう)
ふふふ、とエレノアの笑みをこぼす。
「失礼な事を申し上げてしまいました。ハンカチ……お借りいたします。ちゃんと洗ってお返ししますね。あっ……」
そこまで言って、相手の事を何も知らない事に気付いた。
男はクスリと笑う。
「ご令嬢は、この舞踏会は最終日までいらっしゃいますよね?」
「は、はいっ」
「では、また明日。この時間にこの場所で、お待ちしております。よく効く軟膏を差し上げますので」
(あっ!)
エレノアは、無防備にさらしていた脚を慌てて隠す。笑いを堪えながら、男はエレノアに靴を履かせ立ち上がらせる。
「途中までお送りしましょう」
家族以外の男の人に初めてエスコートされたエレノアは、心臓が口からでてしまうのではないかと心配しつつ、会場へ向かった。
そして、舞踏会初日が終わる頃。エレノアは気がついた。
(……あ。結局、お名前を聞きそびれてしまったわ)
◇◇◇◇◇
庭からホールを見上げていた男は、ずっと気配を消してついて来ていた者に声をかける。
「あの令嬢について調べろ。どんな些細な事も見落とすことは許さん」
「はっ!」と短く返事をした影は、闇の中へと消えた。
男は、エレノアに触れていた自分の手を見る。
その手に残った感覚を、愛おしげに見詰めて「其方に決めたぞ」と呟いた。
◇◇◇◇◇
エレノアは舞踏会の期間中、毎晩その騎士風の男と噴水の所で会っていた。
不思議なことに、エレノアとその男以外やって来る者はいなかった。
お互いに名乗りもせず、他愛もない会話をして楽しんだ。そう、誰にも邪魔されずに。
エレノアが男の名を尋ねなかった理由は2つ。
1つは、侯爵家の為に王太子に気に入られるように言われていたから。
会場に一向に姿を見せない王太子に、取り入る方法なんてなかった。けれど、万が一にも可能性があった場合……政略結婚の道具にさせられる運命からは逃れられない。
2つ目は、男が女性になりたい願望の持ち主だと知ってしまったから。
貰った軟膏や、ハンカチ、触れた物からその感情が流れて来た。だから、惹かれている自分の気持ちを隠し、傍に居られる限られた時間を大切にした。
(女性を愛せない人に想いを寄せたら、迷惑になってしまうもの)
無理な願いを抱くのは、叶わなかった時……後から途方もない虚無感に襲われるのだ。王太子とも縁が出来なければ、エレノアはまた邸から出ることは許されない日々に戻るだけ。
父親の選んだ相手に嫁がされるまで、ずっと……。
(私がもっと強い人間だったら、何か違っていたのかしら?)
隣で微笑む男の顔を見ると、そんな風に考えてしまう。すると、胸の奥に何かが詰まったように苦しくなる。
(この人に悟られてはいけない。今は……今だけは、何も考えずに、一緒に居られる時間を大切にしなきゃ)
だが、楽しい時間はあっと言う前に過ぎてしまう。
「ご令嬢。こうしてお会いできるのは、最後ですね」
男は、涙ぐむエレノアの頬に触れようとしていた手を止めた。
エレノアの大きな瞳からポロポロと溢れる涙に、このまま離したくないという衝動に駆られる。気付けば男は、腕の中にエレノアを抱きしめていた。
男の腕の中で、エレノアは話し出す。
「ええ、そうですね。……この数日、貴方とこの場所で過ごせた時間が私の宝物になりました。私はもう大丈夫です。貴方の幸せを心から祈っております」
(このまま、彼の腕の中にいられたら……)
男の背にまわそうとした手をグッと握りしめる。そして、細い腕は男を押し返し、体を離した。
精一杯の笑顔をつくり丁寧なお辞儀を披露すると、その場から走り去った。
(本当は、優雅に離れるつもりだったのに)
ぐしゃぐしゃな泣き顔を、最後に見せたくなかったから。
◇◇◇◇◇
舞踏会の最終日。
エレノアは、父親であるフーシェ侯爵にエスコートされ会場にやって来ていた。
どうやら、最終日に意味がある事を侯爵も知っていたらしい。
初日とはまた違った緊張感が、会場を満たしてした。
国王陛下と共にやって来た、王子と王太子。第二王子は、初日と変わらず気品溢れる笑顔で和やかな雰囲気だ。
けれど、その少し後からやって来た王太子に、会場は大きく騒ついた。
(……う、うそ!?)
クロヴィス・ミィシェーレ王太子殿下。
甲冑ではなく、この場に相応しい正装で現れた王太子は、眩しいくらい精悍な顔立ちの黒髪の青年だった。
そう。エレノアがとてもよく知っている、あの青年。
令嬢からの黄色い声も、国王陛下からの言葉さえも、エレノアの耳には届かない。正面のクロヴィスから目が離せなかった。
ホールには音楽が流れ出し、王太子が歩き出すと会場は静まりかえる。誰もが、王太子の向かう先に釘付けになっていた。
「エレノア・フーシェ侯爵令嬢、私と踊っていただけますか?」
「は、はい!」
優しく手を差し出したクロヴィスに戸惑っていると、侯爵は早くしろとばかりにエレノアを睨む。
それを、何倍もの冷たさでクロヴィスは侯爵を睨みつけた。蛇に睨まれた蛙のように固まった侯爵を無視し、クロヴィスはにっこりとエレノアの手を引いて、会場の真ん中に立つ。
それを見計らったかの様に、音楽は一層大きく奏でられ、ダンスパーティーは始まった。
◇◇◇◇◇
夢の様な時間は瞬く間に終わり、エレノアは正式に王太子の婚約者候補と認められた。
本来なら喜ぶ筈の侯爵は顔色が悪い。そんな父親と共に、エレノアは宮殿を出て馬車に向かう。
侯爵家の馬車の前まで行くと、何人かの騎士と共にクロヴィスがやって来た。
「フーシェ侯爵。エレノア嬢は本日より、此方に住んでいただきます」
「い、いくら王太子殿下と言えど、それはまだ気が早いのではないでしょうか?」
ますます顔を青くした侯爵は、何としてもエレノアを連れて帰ろうとする。
「私の大切な妻となる者を、これ以上傷つけられたくはないのだ。聡い侯爵ならわかるだろう?」
(ーー!? もしかして……殿下は、私の境遇を)
そして、クロヴィスは侯爵の耳元で何かを囁いた。蒼白となった侯爵は、よろけるように馬車に乗り込むと、エレノアを置いて逃げるように帰って行った。
「あ、あのっ。王太子殿下」
「エレノア嬢、どうか名前で呼んでくれないか?」
「……ク……クロヴィス殿下」
「殿下はいらない。ああ、でも無理はしなくていい。時間はたくさんあるからな。私はエレノアと呼ばせてもらうよ」と、真っ赤なエレノアにクロヴィスは悪戯っぽく笑う。
「さて。少し、お互いの事を話そうか」
クロヴィスはエレノアをエスコートして、いつもの噴水へと向かった。
(クロヴィス殿下はお優しい。私を助けるために、演じてくれたのね)
◇◇◇◇◇
クロヴィスから話された内容は、やはりエレノアの侯爵家での境遇に関するものだった。
虐待の事実も確認済み。生い立ちについても、侯爵家としてあるまじき隠蔽行為で、証拠と証人についても確保してあるそうだ。
エレノアが訴えれば、裁判も勝つだろうとクロヴィスは言った。
けれど、エレノアはそこまでは望んでいない。
だから、全てクロヴィスに任せる事にした。
侯爵家は今後一切エレノアに手を出す事は出来ない。その旨の書面が、国王陛下から侯爵へ届けられる。
クロヴィスはエレノアには伝えなかったが、エレノアの実母は食事に薬を盛られていた。精神を蝕む、悪質な物を。フーシェ侯爵家にはそれ相応の罰も下るだろう。
「それから。エレノア自身の能力についてだが」
「……やはり、ご存知だったのですね」
「ああ。エレノアは、初めて会った日に……あの刺繍を私が施したと、確信を持って言っていたからね。かの伯爵家の祖先には、その様な能力者がいたらしい」
「そうでしたか」
エレノアは、心に決めた事をクロヴィスに伝える決心をした。
「クロヴィス殿下、お願いがございます。私エレノアを、生涯殿下のお側に置いて下さい。私の能力は、殿下をお守りするのにきっと役立ちます。クロヴィス殿下が運命の方と出逢われても、私は絶対に邪魔は致しません」
そう、キッパリと言い切ると、ぎゅっと目を瞑りクロヴィスの返事を待つ。
「ちょ……ちょっと待て、エレノア」
戸惑うクロヴィスは返事に困る。
(やはり、それは図々しいお願いだったかしら……生涯お側になんてっ)
「何か、勘違いをしていないだろうか?」
「えっ?」
顔を上げたエレノアは、顔を手で隠し耳まで真っ赤になったクロヴィスに、目を見開いた。
(そうか!)
「クロヴィス殿下、女性に興味がないのは決して可笑しな事ではありません。どんな男性がお好きでも、私は応援致します。この婚約が、偽りだとしても私は受け入れたいのです!」
がくりと項垂れたクロヴィスが心配になり、エレノアはそっと触れようとした。その時ーー。
クロヴィスはエレノアの手首を掴み、鋭い視線をエレノアに向けた。
「エレノアは、私が他の誰かを愛しても構わないのか?」
クロヴィスの言葉が胸を衝く。
(大丈夫なわけ……ない)
「もう一度聞く。私がエレノア以外を愛していいのか?」
堪えていたものが、喉をついて出てしまう。
「大丈夫では、ありません。ですが、それでも! 私はっ、クロヴィス殿下のお側に居たいのです」
言い終えた時には、手首をグイっと引かれクロヴィスの大きな胸の中にいた。
「だから、勘違いだ! 私はエレノアを愛している!」
「で、でも男性が」
「私の恋愛対象は女だ。……けれど、誰でもいいわけではない。今、この腕の中にいるエレノアを愛している」
エレノアは感情が溢れ出す。
「で、ですが。殿下は、刺繍をしたり髪を結ったり、女性になりたいのでしょう?」
「確かに、私は可愛い物が子供の頃から好きだった。けれど、それは王太子として相応しくないと隠し続けた……ただの、趣味だっ!」
(……私の勘違い)
何だか気が抜けたエレノアは、自分の早合点が可笑しくて……笑ってしまった。
「エレノア、笑ったな?」クロヴィスは気恥ずかしそうに言う。
「はい。私の馬鹿さ加減と……嬉し過ぎて」
「では、お仕置きだ」
甘く囁いたクロヴィスは、エレノアにそっと唇を重ねた。
◇◇◇◇◇
その数年後、クロヴィスは国王となり国を治めた。
どんなに巧妙にクロヴィス暗殺を企てても、必ず失敗に終わるという噂が闇世界で流れていた。
それが、王妃エレノアのお陰だと誰も知らない。
そして、仲睦まじい国王夫妻に変わった趣味があったことも。
お読みくださり、ありがとうございました。