第7話 大事な一歩
目の前が炎に包まれていた。
耳にまとわりつく獣の雄叫び。俺の腕くらい簡単に引き千切ってしまいそうな、凶悪な牙を持った獣の絶叫。
全身がどうしようもないくらいに痛くて、血も全然止まらない。
生まれて初めて、本気で死というものを覚悟した。
周りの熱が思考能力を奪い、視界も次第におぼろげになっていく。
こんな筈じゃなかった。
学校の集まりが長引いたから、近道を使って帰ろうとした。ただそれだけの筈だった。
知らない。知っている筈がない。
目を赤く爛々と輝かせる、巨大な犬の化け物なんて。そんなヤツに襲われるなんて。
たった一言で、手から炎を出せるヤツがいるなんて。
そいつらが、何度も何度も戦っていたなんて。
「……はあ」
身体を起こし、深いため息をつく。よりにもよって異世界最初の夜に見た夢があの日の出来事だなんて最悪だ。
目を覚ました時は奴との戦い。次は全てのきっかけになったあの日。
忘れるなと、そういうことだろうか。
言われなくても忘れるつもりはない。忘れたくても、忘れられる筈がない。
「ち……っ」
そんな筈はないのに、身体を押さえつけられた感覚が離れなかった。
気付けば指先ひとつで消し飛ばせるようになったあの忌々しい獣共も昔は本当に恐ろしかった。
魔物とは似ても似つかない、悪魔の手先が近くにいるのではないかとつい視線を向けてしまう。
いる筈がないと知りながら、何度も。少し疲れているのかもしれない。
「……折角、アイシャの家に泊めてもらっているのにな」
借りた毛布を畳みながら周囲を見回し、小さく溢す。
寝泊りに使わせてもらった居間の壁は目立った塗装がされているわけではなく、家具は基本的に木製のもので統一されていた。
泊めてもらっている身であれこれ言うのもどうかと思うが、狭さは全くない。
他にも棚の上に飾られたちょっとした小物も丁寧に作られていて、つい目を魅かれてしまう。
全部手作りされているんだろうか? 眺めていると、誰かが動く気配があった。
「あれ、キリハ? もう起きてたの?」
「それを言うならアイシャこそ。いつもこのくらいの時間なのか?」
「ううん。いつもはもうちょっと明るくなったあとなんだけど……なんか、今日は目が覚めちゃって」
そう言ってはにかむアイシャ。淡いピンクのワンピース風の寝間着がよく似合っている。
「ちょっと、緊張しちゃって。今までこんな事なかったから。……えっと、キリハはどうなの? 起きる時間とか」
大して変わらないだろう。任務が片付いていれば。
以前はそういう生活を送っていた。
最悪は移動中に休む。その程度にしか考えていなかった。間違っても誰かにおすすめしようとは思わない。
だからだろうか。昨日の夜は随分ゆっくり休めた。身体も相変わらず調子がいい。
以前と比べて見劣りするのは仕方のないことだ。それに、何もかもが下というわけでもない。
「……? キリハ?」
「いや、なんでもない。俺はこのくらいの時間になると勝手に目が覚めるな。……昔は師匠にとことんしごかれたから余計に」
「キリハの? じゃあその人もすごかったんだね、きっと」
「あー……まあ、そう言えないこともないな……」
凄かった。ああ確かに凄かったとも。自分の中にあった常識を特大の爆弾で木っ端みじんにされたくらいには凄かった。
目を輝かせているアイシャには大変申し訳ないが、おそらくその想像は的外れだ。
「なんか微妙な反応だね……?」
「ああいや、別に仲が悪かったわけじゃない。魔法やら何やらの基礎を叩き込んでもらったから感謝もしている」
ただ、それとこれとは話が別だ。
あの人は『理不尽が服を着て飛び回っている』の一言に尽きる。
失礼な話、あの人だけは同じ人類なのかどうか今でも疑うことがある。
大気圏を生身で越えられる、なんて冗談も昔は聞いたが、あれもただの出鱈目ではないのかもしれないと思うくらいには。
「じゃあすっごく怖い人だったとか?」
「そんなものじゃない。鬼だ。それか悪魔」
「えっと……感謝、してるんだよね……?」
「それは勿論。危ないところを何度も助けてもらった」
だがそれでも鬼であることに変わりはない。師匠の教え方が一番容赦ないと言うか、過激だった。
全速力と変わらない長距離走とか。本当の炎弾を使った回避訓練とか。他にも色々。しかも素人相手に。ほぼ毎朝。
おかげで何度全身筋肉痛にされたことか。思い出しただけで全身が悲鳴をあげている。
酷いとトレーニングのあとしばらくまともに歩けなかった事もあった。我ながらよく生き延びたものだとつくづく思う。
勿論、加減はしてくれていただろう。でなければとうの昔にミンチか何かになっていただろうから。
「何されたのかよく分からないけど、できれば私も遠慮したいかな……あ、あはは」
「そうしてくれ。是非ともそうしてくれ」
あれは本来人類にやるべきものではない。少なくとも俺は今でもそう思っている。
結局その後朝食までご馳走になって、更には本日の宿泊の許可もいただいてしまった。
多少やれることはやらせてもらったが、あのくらいはやって当然だろう。
身の回りがもう少し落ち着いたら一度しっかりお礼をしないと。いつまでも厚意に甘えてはいられない。
「え……え??」
そのためにも早く進級してしまおうと思って、少し張り切って薬花を集めた。
何よりアイシャの魔法練習の事もある。あまり他の事に時間を取られたくない。
そう。そこまではよかった。
「なに、これ……?」
だが結果がこれだ。
予定の倍集まった薬花を前にアイシャの声から感情が消えた。
少し前まで魔法練習を楽しみに待ってくれていた筈なのに、今ではすっかり表情も固まってしまっている。
「ねえ、これ……」
「待った。待ってくれ。何もやましいことはしていない。全部自力で集めた。本当だ」
「あ、うん。それは見てたから知ってる、けど……」
薬花には魔力に反応して淡い光を放つという特徴がある。
何とも都合のいい特徴だが、おかげで採取にそう時間はかからなかった。
魔力を広範囲に飛ばして、反応があった場所に向かえばいい。
諸々合わせておよそ四〇分。不正はない。
「……薬花って、こんなに集まるものだったっけ?」
「四日が平均ならそんなことはないんじゃないか。多分」
「じゃあここにあるのは何!?」
仰ることごもっとも。
今回は運よく群生地を見つけられたのも大きい。必要分だけでよかったのは間違いないが。
「まあ、あるんだろう。そういうことも」
「やったのはキリハだよ……?」
分かっている。ああ、分かっている。だからその目は止めてくれ。
「過ぎたことは仕方ない。二人で納品しよう」
「だからそれは駄目だってば!」
「いや、チームで集めた物だから問題ない。昨日そんなことを言われた覚えがある」
「へ? そうだったっけ?」
「ああ。確か。アイシャも聞いた事はあるんじゃないか?」
記憶違いの可能性もあるから後で一応確認しておこう。探せば多分、どこかに書いてある筈だ。
てっきりアイシャも知っているものだと思っていた。規約を全部覚えているわけがないと言われたらそれまでだが。
「だって私、今までそんな機会なかったし……」
「……申し訳ない」
完全に地雷を踏んだ。そのくらい予想しておけ。俺の馬鹿め。
「う、ううん。いいの。それに今はキリハも一緒だもん。……えっと、いいんだよね?」
「勿論。さ、魔法の練習を始めよう。薬花がすぐに集まったおかげで予定より長く練習もできそうだ」
魔力の制限もあるから適宜休憩を挟みながらになる。納品はその間のどこかで済ませてしまおう。
「う、うんっ。……ほんとに、本当に下手だからね?」
「そこまで卑下しなくても」
がかりを見つけて少しはこれも改善できるといいのだが。
「とりあえずここに一つ的を作るから、そいつに向かって魔法を撃ってほしい。使う魔法はアイシャが決めていい」
「うん、分かった。……作るって的の話? どうやって?」
「見ていれば分かる。念のために少し離れておいてくれ。――ああ、そのくらいで」
地面に手をつき、つい昨日戦ったばかりの魔物の姿を思い浮かべる。
他に参考になりそうな物もない。さすがにサイズの調整は必要だが。
表面は薄くても構わない。素手で簡単に壊せる程度で十分だ。
「《土偶》」
思い浮かべた完成図を魔力に載せ地面へと流し込むと、手をついた点を中心に地面が割れた。
地面から離れた俺の手につられて急速に成長する植物のように土が盛り上がる。
そのまま胸の辺りまで引っ張り上げたところで軽く形を整え完成。
手間はかかるが、あまり雑に作ると思い通りの強度にならないから仕方がない。
「――これでよし、と。壊れてもいいから遠慮なく撃ってくれ。とりあえず今は動かないようにしてある」
「そんなこともできるんだ……でも、この的って……?」
「? 一応サイブルを参考にさせてもらったつもりだが」
「あっ、サイブル? そうだったんだ。言われてみれば確かにちょっと似てるかも」
……まあ美術系の成績はそこまでよかったわけでもないから、そんなものか。
それにこの魔法の本来の役割は案山子。それか囮だ。細部はそこまで重要じゃない。
「大丈夫? なんか落ち込んでない?」
「気のせいだ。その位置だとさすがに的に近いからもう少し離れよう。……ひぃ、ふぅ、みぃ……とりあえず、ここに立って撃ってみてくれないか」
「……ちょっと遠くない?」
「そこは後で調整する。とりあえず一回、頼む」
的からの距離は精々八メートル。
これでも多少は短くしたつもりだった。
魔法を使う以上、後衛を務める場面が多くなる。杖を伸ばせば届くような位置から撃っても意味がない。
「……うぅ」
そうして炎と水の魔法を合わせて五回。移動はなし。
が、最終的に一度も的には当たらなかった。
途中で大きく左右に逸れる事がほとんどだったが、一度そのまま反転して俺やアイシャの方に飛んで来た時はさすがに驚いた。
しかも使った魔力に対して完成した魔法の威力が微妙に釣り合っていない。
それでも当てることさえ出来れば今回の的くらいは簡単に壊せるだけの火力を出せている。
「ど、どう……?」
正直、予想外だった。
だが簡単に突き止められていたのならアイシャもここまで苦労はしていない。
こればかりは片方を解決しないとどうにもならない。コントロールの改善以前の問題だ。
「あと一回だけ頼む。それと、少し後ろから手を持ってもいいか?」
「手を? そ、そんなに変な姿勢だった?」
「いや違う。魔力の流れが――って、説明するより体験してもらった方が早いか。そういうわけだから、ちょっと失礼」
「う、うんっ」
この手の問題は時間を掛けて丁寧に改善していくしかない。
まさか体内の魔力が無茶苦茶に荒れた経験をこんな形で活かす事になるとは。人生、何があるか分からない。
「ひゃっ!?」
「……どこか当たったか?」
「う、ううん。大丈夫。続けて」
何だろう。この罪悪感は。
さすがに割り切れそうにない。症状からしてしばらく続ける必要がありそうだが……大丈夫か、これ。
「んっ……」
「すまない。もう少しの辛抱だ」
「私は大丈夫。……このまま続ければいいんだよね?」
頷いて意識をアイシャの手――その更に『奥』へと向ける。
「――炎よ集え、一つとなりて敵を討て――」
掲げられた杖の先端に炎が収束していく。
徐々に球体が作り上げられていく一方、アイシャの体内を流れる魔力は均一ではなくなっていた。
(……やはり詰まっていたか)
アイシャが発射する前に干渉し、逆流しないようすぐさま調整を行う。
俺の魔力を直接流し込むのではない。
呼びかけながらも時には流れをほんの少しだけ抑え、一方で外へ『出やすく』なるよう干渉。
一瞬たりとも気は抜けない。無理に広げようものなら最悪二度と戻らなくなる。
「ね、ねえキリハ。なんか変な感じがするんだけど、これ……」
「少し魔力の流れを整えた。……よし、いつでもいいぞ」
魔力量次第ではより深刻化していた可能性もあった。
この段階ではっきりさせられたのは不幸中の幸いだったかもしれない。
「わ、分かった。――《ファイアボール》!」
戸惑いながらもアイシャはその言葉を信じてくれた。
その魔法がいつもより少し威力が高い事に、アイシャは気付いただろうか。
「わっ……!?」
多少補正はしたが、サッカーボール大の火の玉は真っ直ぐ飛んだ。
突然大きく逸れる事もなく、標的へ向かって飛んだ。
そして。
「………………えっ?」
サイブルを模した《土偶》を、見事破壊して見せた。
「当たっ、た……? 今、当たって……――っ」
呆然とした様子で何度も同じ単語を呟くアイシャ。
だが程なく状況を呑み、同時に感情を爆発させる。
「やった……やったよキリハ! ねえ見てた? 今、的に当たったよ!」
「勿論見ていた。そしておめでとう、アイシャ。これで一歩前進だ」
上手く行ったことに内心胸を撫で下ろす。
失敗する要素を可能な限り排除しても、まだ僅かながら可能性は残っていた。
「ありがとうキリハ! ほんとにありがとう!」
「おっと、それはまだ早い。大事なのはこれからだ。その言葉はアイシャが自由に魔法を使えるようになった時に聞かせてくれ」
「うん、うん……!」
今後はさっきの感覚をヒントにしてもらいつつ、干渉を減らしていく方向で。
時間はかかるだろうがそれが確実だ。焦ったところでメリットは何もない。
この一歩で終わらせないためにも、やるべきことをやろう。改めて、そう決めた。
余談だが、話を聞いたアイナさんによって翌日の食事が豪華になった事を付け加えておく。