第662話 出遅れ
「それでは――始め!」
そのひと言を待っていた参加者は我先にと走り出した。
決して広いとは言えない道があっという間に塞がってしまう。
様子を見ていた観客を押し退け町の外へ向かうその姿はさながら闘牛のようだった。
なんて、それもこれも後ろから呑気に眺めているから言えること。
あの勢いでもみくちゃにされたらきっとそれどころではなかった。
ただスタートをワンテンポ遅らせる筈が。
まさかこんなことになるなんて。
いっそ見送ってしまおうとも思ったが、何故か残っていたユッカに腕を引っ張られた。
「なにしてるんですかキリハさん! 早く、早く行かないと!」
「分かってる」
「分かってるじゃなくてぇ~!」
あっという間に遠ざかっていく集団を指差し今度は背中を押してくる。
参加者で留まったのは俺達だけ。
他の皆はどうやら上手く人ごみの中へ紛れ込んだらしい。
今ここにいるのはユッカと俺、運営サイド。そしてもう1人。
「……」
沈黙を貫くディロン老人くらいのものだった。
その視線は海の方へ向けられたまま。
俺達の方へ向けられることはない。
運営スタッフは、どういうつもりかと俺達のことを見ていたが。
主に俺を。
「キリハさんだって初めてなんですから! さっきまでのやるきはどうしたんですか!?」
――ここにいても得られるものはないか。
俺1人ならまだともかく、ユッカもいる。
俺がここにいる限りユッカもスタートできないだろう。
「こんなことしていいんですか? 落ちるかもしれせんよ!?」
「それは困る」
しかし動き出したタイミングが悪かった。
俺を無理やりにでも引っ張り出そうと、ユッカが力を込めた直後だった。
「わ、わっ……!?」
無駄になってしまった力がユッカの身体を大きく仰け反らせた。
――転ばせるわけには。
逆にユッカの右手首を掴んで引き寄せる。
きょとんとした顔のユッカに怪我はない。
一安心と言いたいところだが、ゆっくりするのは後回し。
「さ、行こうか。先頭から大きく引き離されてしまったわけだし、急がないと」
「……キリハさんのせいなんですけど」
「悪かった」
唇を尖らせるユッカの手を引いて歩き出す。
急かすことも振り払うこともユッカはしない。
いつもより速度はある。しかしそれだけ。
話もできない、なんて雰囲気ではなかった。
「置いて行ってくれてもよかったのに」
「だって、キリハさん1人じゃ迷うじゃないですか」
「……善意と思っておくことにする」
……情の厚さに涙が出るところだった。
分かり切っていた質問に後悔しても手遅れ。
さっきの反撃かと疑うどころだった。
俺のことをなんだと思っているのか。
今日初めてシャーオストに着いたというわけでもない。
少しずつ身も覚えてきたところ。
次の角は、確か左――
「右ですよ」
「……そうだった」
そう思って曲がろうとして、またしてもユッカに引っ張られる。
言われてみると、確かに。右が正解だ。
こんなことなら先行集団の動きをよく確かめておくんだった。
「……やっぱり……」
ユッカの視線が痛い。
反論のしようがないから受け入れるしかない。
しかし何故だ。どういうことだ。
リィルと帰った時は向こうの通りで……はて?
頭の中が大混雑を起こし始めたのでひとまずユッカの後ろをついて行く。
小走りしても先行集団の姿は見当たらない。
そろそろ先頭と最後尾に差が生まれている筈なのだが。
こうなってしまった責任が誰にあるかというと。
「どうしてあんなことしたんですか」
当然、俺だ。
「忘れようって言ったのはキリハさんなんですから。もっとしっかししてくださいよ。キリハさんが一番気にしてるじゃないですかっ」
「面目ない。……さすがに少し油断した」
それに関してはユッカの言う通り。
大丈夫だろうとタカをくくっていた部分はある。
「……分かってるなら、いいんですけど」
当然と言うか、納得しているようには見えなかった。
腕を引く力も明らかに強くなっている。
協会の前を通り過ぎて、宿の前に差し掛かっても参加者の姿はない。
参加者のほとんどが既に外へ出た後だと知ったユッカがますます速度を上げた。
凄まじいやる気だ。
俺のことを置き去りに探しに出かけていてもおかしくない勢い。
だから不思議で仕方なかった。
わざわざ俺のことを待つ必要鳴って無かったろうに。
「……こんなところで負けたりしないでくださいよ」
まさにその時、ユッカが呟いた。
思わず首をかしげてしまう。
声は聞こえた。しかし一体、どういうことなのか……
「勝ち負けとはまた違うような」
「それでもですっ!」
生ぬるい反応が気に食わなかったようで、ユッカはさらに力を込めてくる。
置き去りにされないように急ぐと、ユッカはますます速度を上げた。
ほとんど走っているのと変わらない。
勢いそのままあっという間に門を抜けた。
続く上り坂でもユッカのペースが落ちることはない。
話の続きは後回し。
ぐんぐん上っていくユッカにとにかくついて行く。
「キリハさんなら、なんとかすると思いますよ」
ユッカが足を止めたのは、他の参加者の姿が脇に見えるようになった後だった。
呼吸は乱れ、腕を汗が伝っている。
探し物を始める前にひと休憩挟んだ方がいい。
「それは分かってるんです。ずっと、見てきましたから」
息を切らしながら、ユッカは言う。
「無理せず、落ち着かせた方が」
「いいんですっ」
あまりに強い声に思わず頷いてしまった。
すぐに倒れることはないだろう。
しかしこのままというわけにも……
「もしかしたらってことも、あるじゃないですか。今日の内容、予想外だったんですよね」
「……まあな」
言わんとしていることは伝わった。
「ちゃんとやる気、出してくださいよ。やろうって最初に言ったのはキリハさんだったんですから」
これがサーシャさんなら、手を抜くとは何事かと説教を始めていただろう。
ナターシャさんなら、何を企んでいるのかと問い詰めてきたに違いない。
「わたし、見たくないですからね。そんなことで失敗するキリハさんなんて」
ユッカはじっと、俺を見ていた。
その目はあまりにも純粋で。
一点の曇りもない、綺麗な目だった。
「……そうだな」
その言葉は自然と口から出た。
ここで動けなくてどうする。
「様子見は止めだ。……隅から隅まで、草の根をかき分けてでも見つけよう」
何より、俺自身が許容できない。
「あの、それって」
「いま言った通りだよ。様子見なし、しらみつぶしに探してやろう。さっきの余計な遅れなんてなかったことにするくらい」
今回《小用鳥》を飛ばすつもりはない。
周りに何事かと思われるから、ではなく。
「もうしばらく付き合ってくれ。巻き込んだ分は必ず返す」
そうでなければ意味がない。
「……いいですよ。そんなの」
あそこまで言ってくれたんだ。
期待に応えたくもなる。




