第473話 動ける理由
『…………』
視線の先にいるそいつは、靄がかかったようによく見えなかった。
決して距離があるわけではない。
周囲に妙なものを発生させているかとも思ったが、それも微妙に違う。
ただ、姿がはっきり見えないことだけは確かだった。
(しかし、わざわざそこまでするとは……)
周囲の人々の時間を止めたことといい、なんという徹底ぶり。
俺が動けるのを見たから、慌てて姿を隠したというわけでもなかった。
これだけのことをしておきながら、その身を靄で覆い隠していた。
そうまでして、姿を隠す理由が何かあるというのだろうか。
そんな場合ではないことも分かっていたが、つい、感心してしまった。
(……まあ、とはいえ……)
ただ、そこに違和感もあった。
今この状況が、信じがたいものであることに変わりはない。
しかし、それだけの力行使しているとは思えないほど、目の前にいる相手の力が微弱だったのだ。
たとえば、そのために使っているのが魔力だったとして。
大量の魔力を消耗していたのなら、それらしい痕跡が少しは残る。
その瞬間に残っている量がどれだけ少なくとも、本来は多いのだろうということはなんとなく分かる。
そしてそれは、魔力以外のものでも大抵の場合においてそう。
腕っぷしの方には多少自信もありそうだが、こんな大がかりなことができる力があると言われると、不思議と納得できない。
無論、俺が感知できていない可能性を否定するべきではないだろう。
その身を覆い隠す靄が誰の力に由来するものであったとしても。
『……キサマは』
――思考を巡らせつつ睨みつけていると、思い出したように、そいつは声を発した。
『キサマは、一体なんだ? あまりにも不自然だ』
「人を捕まえて随分な物言いだな」
その目は見えない。
見えないが、妙な疑いを持っているのは、さすがに分かった。
今こうしている間にも行動できるというのが、余程意外だったのだろう。
おそらく理由の大半はそれ。
俺の存在がイレギュラーであることは想像に難くない。
「それに、自分が動けるんだ。同じ理屈で動くやつがいてもおかしくはないだろう?」
『そのようなことがあるものか。……何に、守らせている?』
「そんな秘密を明かすとでも思ったか」
向こうにとって都合が悪いのは、間違いない。
俺が動ける理由を突き止めたら、きっとすぐさまそれを潰しにかかるだろう。
本当にそこまで達成できるのかは、別の問題として。
『ならば力づくで聞きだすまで』
――そんな言葉とともに、目の前の靄が歪んだ。
「っ……」
(この、風の吹き方)
何か、棍棒のようなものを振るわれた。
太過ぎず、しかし刃ほどの鋭さもない。
飛びのいた時に肌を撫でた圧は、それだった。
「《凍獄尋雷》」
同じ屋根の上に降り立った標的を、雷交じりの氷で閉ざす。
そのシルエットは未だにはっきりしていない。
靄ごと一気に閉じ込めてしまうしか、手がなかった。
『……この、氷は』
たとえ、捉えきれなかったとしても。
掠りもしていないというわけでは、おそらくない。
ただ、氷の檻の中には何もない。
『……やはり、奇妙な力を』
「妙なのはお前の方だろう。これだけのことをしておいて、あんな魔法で騒ぐとはな」
標的として定めていた靄は、屋根よりも更に上に在った。
その姿は、やはり揺らいでいる。
自然の風が全く吹き付けない中で、炎のように揺らめいていた。
『それが、キサマのやり口なのか? 大したことがないと自ら口にし……油断させる』
「まさか。あの程度で動揺するとは思っていなかっただけだ」
『その言葉、侮辱と受け取った』
その大きな靄から、いくつも小さな破片が飛び散った。
まるで魔法のように、飛び出した。
俺を目がけて、一直線に。
(妙な真似を……)
そこにあることは認識できても、やはり見えない。
炎なのか、氷の塊なのか、全く別のものなのか――判別のつけようがない。
「《刈翔刃》」
だから、いざという時には盾代わりにするつもりで刃を飛ばした。
「っ……?」
――飛ばした、筈だった。
(動かない……?)
しかし、作り出した刃は微動だにしなかった。
「っ、ち――!」
剣を引き抜き、飛来する靄を叩き潰さざるを得なかった。
「っ……文句なら後で聞く、今はそいつの相手が先だ」
案の定、剣が荒ぶる。
いきなり奇妙なものをぶつけられたことに対する不満が右手を通じて流れ込む。
気色悪い者を触らせるなだのなんだのと、騒々しいどころではない。
(……この騒々しさは時間が止まっていようと相変わらずか)
安心していいのか、それとも呆れるべきか。
……『騒々しさ』の一言に反応して荒れるくらいだ。少なくとも後者の比率の方が高いだろう。
いつも通りだというのはまあ、ありがたいと言えなくもない。
適度に緊張を解してくれるのであれば。
「いいから後だ、後。……今回は、お前を頼ることになると思う」
おかげで、魔法が飛ばないことへの驚愕も、幾分和らいだ。
(最初の《氷獄尋雷》は、普通に使えていた筈……)
どういうわけか、《刈翔刃》が羽ばたくことはなかった。
今こうしている間にも、俺が作り上げたその場所で彫刻のように固まっている。
どれだけ力を加えても、命令を強めても、ピクリともしない。
最初に投げた氷の塊のように、空中に固定されていた。
『何を一人でブツブツと……』
「何、ちょっとした相談事だ。……そう来るとは、思わなかったからな」
手に取った剣は、問題なく扱えている。
靄を叩き潰した時のことでまだ悪態をついてくれやがる。
しかしやはり魔法はピクリともしない。
かといって、勝手に消えてくれるわけでもない。
(剣に何も問題がないのはこいつ自身が“特別”だからか、単に俺が今握っているからか……)
確かめようにも、この状況では安易に手放すこともできなかった。
しかし、やはり……あの靄は所謂魔法ではなかったのだろう。




