第454話 久しい空気
「んっ……」
思わずぐっと、腕を伸ばした。
開いた窓を覗いてみると、よく晴れた空が見える。
吹き込む風は心地よく、長かった旅の疲れをそのままどこかへ運んで行ってくれるような気がした。
(随分長く、空けていたような気がするな……)
ストラは近い。
カラカラと回る車輪の音とも、そろそろお別れ。
さすがに、すぐまた遠くへ出かけるようなことはないと思いたい。
ありがたいことに、当初の予定が大きく崩れるようなことはなかった。
今日中には着くということも、手紙で伝えておいた。
さすがに、町での不思議な体験までは書き記せなかったが。
(……そっとしておいた方がいいのかもしれないな。ひょっとすると)
町でのことを思えば、それも悪くないように思えた。
いくらアイシャ達が相手でも、町での出来事を1から10まで語るのは何かが違うような気がしたからだ。
ストラを発つ前、リィルやトーリャでさえ以前の出来事について触れなかった。
意図的にそうしなかったから、というわけではなく。
少なくともその件については、下手なことを喋らない方がいいだろう。
幸い(?)にも、あのヒトガタのおかげで話題には困らない。
(ナターシャさんに相談……するようなことでもないか。さすがに)
あの人に限って、まさかあの出来事をあちこちで喋るようなことはしないだろう。
ひょっとすると、サーシャさんには明かすかもしれない。
将来的に、追加の調査が必要になった時のために。
(……今回は合計で何点飛ばされてしまうのやら)
最高記録の更新は確実だろう。
単発ではなく、諸々の合計。
この前のやり取りを総合したらどうなることか。
想像するだけでも恐ろしい――
「大して気にしてもいないのに、よく言いますよねー。可哀想とか思わないんです?」
――……恐ろしい程に想定外。
唐突に、本当に何の前触れもなくそいつは姿を現した。
さも当然のように、まるで最初からそうであったかのように、客席に腰を下ろしてくつろいでいた。
「すみません、ここに無賃乗車した不届き者が」
その姿を見ても、躊躇いはなかった。
むしろ見てしまったからこそというべきか。
少なくともトレスを発った時にはまだ、ヘレンは乗っていなかった。
ヘレンがいたら、いくらなんでも分かる。
そんなことを企んでいると知らなくても、まず分かる。
もし何かをやらかしていたら、その時はイリアから忠告があっただろう。
あるいは強制送還をさせられていたか。
「リーダーさん以外の誰にも認識できませんから大丈夫ですよぅ。それにどうせすぐに降りちゃいますし?」
「またそうやって能力の無駄遣いをする」
……そうしてもらった方がいいように思えて仕方がなかった。
これが力の無駄遣い以外のなんだというのか。
ここまで手の込んだことして、何か徳があるわけでもないのに。
通常の状態であればまだともかく、今は能力に制限を食らっている。
こんな状態であれやこれやと誤魔化せば負担にもなるだろう。
人のことを何も言えないくらいには。
「あー、いいんです? そんなこと言っちゃって。帰れなくなっちゃいますよ?」
「他の人を巻き込むな」
「大丈夫ですよぅ。そんなミスしませんから♪」
これでも真面目に心配しているつもりだったのだが、どうにもいまひとつ伝わっていなかった。
……脅しの内容が内容だけに、冗談だというのは分かったが。
そんなことを言っていいのか、はこちらのセリフ。
今も頭の中に誰かさんの深い深いため息が響いていた。
「大体、リーダーさんが悪いんですよー? わざわざわざわざ、私が見に来てあげたっていうのに超がつきそうなくらい冷たいんですもん」
「そいつはどうも。……ユッカ達に突っ込まれるのも承知で抜け出すとは恐れ入った」
「そこの辺は上手いことやりますよー? さすがにまだダミーには気付けないと思いますし?」
「どうしてそんなところに手間をかけようとする?」
……とはいえ、今回はイリアに全面同意。
イリアにしてみればたまったものではないだろう。
かけた制限のギリギリを攻めるような真似ばかりしているのだから。
身代わりを作るのも楽ではない。
ただそこに姿かたちを模した人形を置けばいいというわけでもない。
魔力の脈動を常に騙し続けておく必要もある。
少なくとも今のヘレンにとっては、楽なことではない筈だ。
そもそも、こいつの場合。
「その気になればいくらでも見られるだろうに。俺の様子なんて」
「えぇー? でも私、別にストーキングの趣味とかないですし」
「またそういうことを……」
自分の首を絞めるだけだと分かっているだろうに、よくもまあ。
俺を巻き添えにでもするつもりか。
別に誰とも言ってない――などと言い訳をしたところで、イリアに通じる筈もなく。
そもそも俺が戻ってくるタイミングを正確に把握していた時点で有罪だろう。
皆にもまだ正確な時間までは伝えていなかった。
手紙を出した時点では、トレスを出られるタイミングがはっきりしていなかった。
にもかかわらず、ヘレンは俺が戻る便を正確に把握し、挙句の果てに乗り込んできた。
「そんな……誰かさんが迷っちゃうんじゃないかと思うと……心配で、心配で……っ」
「白々しい……」
そんな状況で三文芝居を見せられたところで、心が動くわけがない。
「それで、本当の目的は? ……抜け出したということはそれなりの理由があるんだろう」
「別になんでもないですよぅ。ちょこっと様子を見てこようかなーって思っただけで。帰って来ないとか笑えませんし?」
「俺をなんだと思っているんだ」
そもそも答えらしい答えをヘレンは返そうとしない。
「んー……トラブルバキューマー?」
「だからと言って自ら飛び込むやつがあるか」
「……はぁあああ~?」
代わりにそんなことを言われたら、一言言い返してしまうのも仕方がない。
ヘレンが全力で身体を傾けようが何をしようが、発言を撤回するつもりはない。
「あのあの、今さらっとトラブル扱いしました? しましたよね? さすがの私もそんなこと言われたらぷっつんしちゃいますよ?」
「この状況を振り返ってみればわかることだろうに」
「ですから別に真っ当な事しかしてないですってば」
「誰にも言わずにストラから抜け出しておいてよくもまあそんなことを……」
戸籍の偽造の次は無賃乗車ときた。
……どうせ、会員証を見せずに通ったんだろう。あの門を。
そうまでしてやることが雑談だから本当に分からない。
あのようなことはもう無いだろうが、身構えずにはいられない。
「でもでも、私に関係なくいろいろありましたよねー? こうも多いとさすがに言い訳も苦しくなってきません?」
「いや、別に。自爆したやつに比べれば、まだ」
その気があれば、避けることもできただろうに。
だから別に、効果があるとは思っていない。
……この手の話でヘレンが焦ることなどあるのか、という疑問はひとまず空に投げ飛ばしておくことにする。
「あ、違いますよ? 今回はマスターから教えてもらったってだけですからね? 今はあんな遠くまで見えないですもん。私」
「イリアが? 珍しい。……てっきり何も言わないのかと」
「さすがにそこまでしたらこっちも反抗しますけどねー、それなりに」
「ヤメロ」
何かの手違いでそんなことになってしまったりしたら、さすがにシャレにならない。




