第393話 拒絶反応
指を切ったって聞いた時は、寒気がした。
紙でうっかりやっちゃっただけ。
そんなおっちょこちょいを聞いただけで、身体が震えそうになった。
その時は、なんとか誤魔化せた。
ただ、露骨な拒絶反応が出ちゃうことまでは止められなかった。
きっかけを思い出そうとしても分からない。
気付いた時にはもう、そうなっちゃった後だった。
怪我をするところなんて、それこそ何度も見て来たのに。
別に、その時だって何も感じなかったわけじゃない。
ただ、こんな嫌な感覚になることは一度もなかった。
あの人の雰囲気が悪い意味で変わっちゃうまでは、そんなこと一回もなかった。
その頃にはそもそも大怪我をするようなことがなかったから、いよいよ分からない。
いつ、こんなことになっちゃったのか分からない。
あの人の血を見ることを、身体が拒むようになっちゃうなんて。
「これ、というと……ああ、こいつか」
正直、言われるまで気付かなかった。
出血と言っていいかも分からないような小さな傷。
とっくに血も止まっている。
「少し力の加減を間違えただけだ。大した事でもなんでもない」
その原因が何かと言えば、きっと加減を間違えてしまったことだろう。
翼の方に力を入れすぎたか、少し腕に力が入り過ぎてしまったか。
ほんの少しどこかに掠ってしまったということはないと思う。
右前腕部の傷は、そのくらい小さなものだった。
「心配してもらう程のものでもなんでもない。見ての通り、放っておけばすぐに治るようなものだ」
「…………かも、ですね……」
しかし、その程度としか言いようのない傷を見るヘレンの声は震えていた。
軽く水で流せば消えてしまう程度の赤い汚れ。
意識を向けても、全くと言っていいほど痛みはない。
「でも、もしかしたらってこともあるかもしれないですよー? ちょっとくらい仕切り直しになっても、別に私は困らないですし……?」
「この程度の傷のために、更にお前のことを先延ばしにしろ、と……?」
「先延ばしだなんてそんな大袈裟なこと、別に考えなくていいですから。……ほんと、いいですから」
ただ、それを見たヘレンの雰囲気は確かに普段とは明らかに違っていた。
一度見たきり、目を向けようともしない。
丸で見る事を拒んでいるかのように、見ようとしない。
「一体どうしたんだ。この傷こそ、騒ぎ立てるようなものじゃないだろう。ヘレンが気にしてもらうようなことでもない」
たとえば他人の血を好き好んでみるような、少し理解しがたい趣味がないことくらい知っている。
好む方が少ないだろう。
「……だから、そうじゃなくて」
ただ、ヘレンの反応は明らかにそんな程度のものではなかった。
これまで一度も、そんな素振りは見せなかった。
どれだけ記憶を探っても、それらしい出来事に心当たりはなかった。
この傷とは比べるのも馬鹿らしくなるような大怪我をした時でさえ、そうだった。
心配をしてくれることはあっても、怯えるようなことはなかったと断言できる。
「別に、見せつけるようなつもりもない。……どうしてそこまで警戒するんだ」
だからこそ、ヘレンの反応に違和感しかなかった。
いつからこうなっていたのかも分からない。
ついこの前の馬鹿な失態を聞いた時も、こんなことはなかった。
「……け、警戒したくもなりますよ。うっかり私の魔力が流れ込んじゃったら、それこそ大事ですし? 身体の中で何が起こるか、分かりませんよ?」
「それは絶対にあり得ない。……違うんだろう? お前が警戒しているのは」
あれだけ言ってまだ納得していないと言うなら、それは仕方がない。
納得してもらうまで続けるしかない。
だが、違った。
取ってつけたとしか思えない態度からして、起こる筈のない異変を警戒しているわけではなかった。
「せめて教えてくれないか。一体、何を警戒しているのか」
考えてみても、分からない。
掠ったような赤もすっかり消えている。
何度見ても、傷口は塞がっている。
「…………分かりません? そのくらい」
ヘレンが警戒しているようなものは、何一つとして見当たらない。
「……すまない。この怪我をお前がそこまで恐れる理由は、何も」
俺の目からは、どうしても見つけられそうにない。
「別に、責任とかそういうのは感じなくてもいいんですよ。恐れてるってわけでもないですけど」
どれだけ大きなため息をつかれても、答えには辿り着けそうにない。
「ただ、ちょっと……無頓着が過ぎません?」
――まして、切っ先を向けられるような理由は、何一つ。
「そこ、絶対に動かないでくださいね? こっちだってこんなことしたくはないんですから」
「……だったら、何もこんなことを」
「そういうわけにはいかないんですよねー……。残念ながら」
切っ先は恐ろしいほどに静かだった。静められていた。
大きな力で無理矢理抑え込もうとしているような。
それこそ、切っ先が俺の喉に触れないように。
「もうちょっと真剣に反省してくれません? そんな調子だと、いつまた笑えないことになるか分かりませんよ?」
「この状況だって十分笑えないだろう。……いくらなんでも無茶苦茶が過ぎる」
支離滅裂。その一言に尽きる。
脅迫めいたやり方を選んでおきながら、それらしい雰囲気を全くと言っていいほど感じさせない。
「だーかーら、これの比じゃないやつですってば。こんなことで驚かないでください。今さら」
「……これ以上のことが起こるとは、そう思えないんだが」
悲壮感、焦燥感――その方が、圧倒的に近い。
「現に、ありませんでしたっけ? つい最近も。その前にも」
「……ああ、確かに“首長砦”の時に大きな被害が出なかったのは、お前が来てくれたおかげだった」
「町の話もしてないんですよ。今は」
今日や明日に、大きな何かが迫っているわけではない。
「それに、あの時だって、私がいなくてもどうにかできたんじゃないです? 何か、使おうとしてませんでした?」
「その話なら前に言った筈だ。……過大評価にも程がある」
もっと漠然とした――それでいてもっと大きな、不安のような。
「まーたそういうこと言う……。そんなこと言って、ほんとは――」
それから、もう一つ。
「ただ」
無関係とも、何よりも深く関わっているとも言える。
「お前にそんな風に思わせてしまったのも、間違いない」
勘違いであれば、これほど恥ずかしいどころではなかっただろう。
「……その責任は、とらせてもらおう」
もし万一そうだとしても、これ以上こんなことを続けさせるわけには行かない。




