第364話 遠慮
――ある時の言葉を、しっかりと聞いていれば。
俺自身、そう言う経験がなかったわけではない。
むしろ人より多いくらい。
『……言いたいことは、それだけか?』
一つ一つの積み重ねがどのような違いを生み出したのかは分からない。
今となっては、どれもこれも過ぎてしまったことでしかない。
『そんな心配をしたところでどうなるわけでもない。この程度のことで音を上げるつもりもない』
『はいはい、知ってますよー。そんなこと言わなくてもよくないです? 今さら。自慢にもなってませんよー?』
建前なんて、それこそ山のように転がっていた。
対抗手段たり得る存在の希少性。
他と比較した際の、単体としての能力の評価。
『……だったら、どうしてさっきからそこを動こうとしないのか聞かせてもらおうか』
自惚れなどではなく、そう評価せざるを得ない状況だった。
『べっつにー? 考えなしにガンガン進もうとしてる誰かさんがガス欠にならないようにと思っただけなんですけどねー』
『そんな可能性は万に一つもあり得ない。……残された時間がないことくらい、お前なら分かっているだろう』
しかしそれも、結局のところはただの言い訳でしかない。
それが最善だったのかと問われたら、返す言葉もない。
その気になって探せば選択肢もなかったわけではないのかもしれない。
『魔力って、そんな身体を動かすためのものじゃないですよ? そんなのとっくに知ってると思いますけど』
『何を今更。そんな当たり前のことを……』
『ッ……』
勿論、戦いそのものを放棄するというわけではなく。
『イリアの方で問題が起きていないことは今朝も確かめた。お前が傍を離れている方がリスクも高いんじゃないのか』
『大丈夫ですよー。どこかの誰かさんが不穏分子も随分お掃除してくれたみたいですし? 直接何かしてやろうなーんて馬鹿さんは出てこないんじゃないですかね? さすがに』
『だとしてもだ。守りが手薄と知って動くやつがいないとも限らない』
『……そこまで心配なら、猶のことだと思いますけどねー』
その時も、それが不可能だということは分かっていただろう。
『それに』
現れた目的も、そのものではない。
受け入れないという結論そのものは変わらなかったと思うが。
『お前自身、この場にいるのは決して楽なことではない筈だ』
半ば押し退けるように引き下がらせてしまったのは、間違いない。
「……遠慮、と言うと」
思わず、言葉に詰まった。
「あたしもあんまり上手く説明できるわけじゃないんだけど……あるでしょ。そういうところ」
リィルの指摘に驚かされたというのは間違いない。
意外という意味なら確かに意外なものだった。
「その反応、やっぱり昔からそうだったわけ? そんな気はしてたけど」
「そういう側面はあったと思う。……こんな風に言い当てられるとは、思わなかったが」
「見てれば分かるわよ。なんとなく」
そう言ってリィルは、肩をすくめた。
ただ接しているだけで分かるようなものでもないだろう。
同じこの家に住んでいたから、というわけでもなかった筈だ。
「なんだかんだ言って、助けてくれるのはほんとのことだし。ちょっとやり方はあれだけど」
「せめて不意打めいた方法だけでもやめてくれたら、色々変わるとは思うんだがな」
「じゃああんたからも言ってみてよ。ちょっとくらい変わるかもしれないじゃない」
「言ったとも。これまでに、何度も」
「そっちも昔からのままってわけね……」
これだけ噂をしても当人が起きて来ることはない。
昨日の夜はそれなりの時間に部屋に戻っていた筈なのに。
「じゃあ何? あんたの主治医さんのことをあんな風に言うのもあの頃から?」
「いや、そんなことは。……むしろ時間を重ねた結果というか」
「どうして悪化してるのよ!?」
喋り方まで一変したというわけではない。
ただ、俺達が初めて会った頃は今以上に『上』と『下』を分けていたように思う。
イリアを『上』に。自らを『下』に位置付けて。
それが薄れていったのは、きっとそれからの出来事があったから。
「たまによくあるだろう? そういうことも。過度にへりくだるのを止めた……とでも言えばいいのか」
「へりくだるって、ヘレンが? 何者なのよ、その人は……」
「色々複雑な事情を抱えているとだけ言っておく」
リィルのことだ。イリアの発言を最初は信じてしまうだろう。
困ったことに、イリアとヘレンの表面上の関係がそれを裏付けてしまう。
少し話せばわかることだとしても、避けられるなら避けたい。
「あんたとは、普通に接してて……それなのに、ヘレンとは上下関係……? だから……」
「そこまで。それ以上考えない方がいい。色々あるんだ、色々と」
かといって、俺から勝手に説明してしまっていいものでもない。
そもそも姿を見せる意思がイリアにあるのかもさっぱり。
「俺の故郷特有の奇妙なものということで、ここは一つ。そういうことにしておいてくれないか」
「とか言って、どうせヘレンとその人だけなんでしょ」
「……色々な意味で唯一無二だろうな、きっと」
良くも悪くも。
ついこの間お邪魔した時もそう。
それ以前も、他にあれほどの態度で接するやつは一人もいなかった。
……心身捧げる勢いのやつなら、いないこともないが。
「ちょっと。鍋の上でしょ。左手、避けないと火傷するわよ?」
「今日の運勢はいかがなものかと、つい。次は気を付ける」
「あんた絶対信じないでしょ。占いなんて」
そこまで言わなくても。事実とはいえ。
いくらなんでも今のは誤魔化し方が下手過ぎた。
左手を見ていたことしかり、違和感を持ってくださいと言っているようなものだ。
「……それで、結局どうなの? あいつのこと」
気付いていただろうに、リィルも追及しようとはしない。
本題がヘレンのことだったというのは勿論。
あえて避けてくれたのはあるだろう。
「今のところは正直なんとも。……情けない話だ、全く」
「何がよ」
「これだけ時間が経ったのにまだこんな状況が続いていることが、だ。……俺やあいつは勿論、皆にだっていいことがあるわけでもない」
本当に、呆れるばかり。
この前の件はある程度落ち着いたものの、根底のところは相変わらず。
「……別にいいじゃない。そのくらい」
続く溜め息に待ったをかけたのも、やはりリィルだった。
「あたしだって、ユッカとしょっちゅう喧嘩するわよ。家に帰らないこととか、他のことでもね」
「……そっちはそっちで相変わらず、か」
「い、いいのよ。そこは掘り下げなくて」
手を止めたリィルと、目が合った。
「さっきも言ったでしょ。ヘレンにも助けられたって」
真っ直ぐな目が、俺を見ていた。
「文句なんて言うわけないじゃない。たまにはちょっとくらい迷惑かけてみたら?」
「……リィル」
たまどころではない。断じて。何の冗談でもなく。
しかし――その言葉が背中を押してくれたのも、本当のことだった。




